カルカッタより愛を込めて・・・。

次のアピア40のライブは9月13日(金)です。また生配信があるので良かったら見てください。

最期の10分。

2017-07-27 12:34:48 | Weblog

 カルカッタでの私の最後の食事はランチでスパニッシュカフェに行き、ケンとイネスの3人でピザを食べた。

 イネスと仲良くなるまでスパニッシュカフェには私とケンは行かなかったが、イネスが辛いものがまったく食べれなかったので行くようになった。

 スパニッシュカフェのピザはインド料理屋で食事を取るよりも少し高くついたが、私はとても気に入っていた。

 私は最後のピザの味は良く覚えていない、たぶん、いつものように美味しかっただろうが、その時、私たちにはもういつものようにと言う時間は流れていなかった。

 もう少しでこの二人にサヨナラをしなければならなくなる、それは確実なことであり、刻々とその時は迫り、それは私のどこかをぎこちなくさせていたに違いない。

 ケンは5月に日本に来るけど、アルゼンチンに住むイネスとはもう生涯会うことはないだろうと私は思っていた。

 それゆえにイネスにはこの最後の時が来る数日前から事あるごとに「バイバイ!イネス!」と口に出して、最期の時をシュミレーションし、私は勝手に別れの練習をしていた。

 二人と過ごした時間はほんとうに楽しかった、そのすべてから来る別れの寂しさは、私の目頭の辺りを忙しくせていた。

 瞳の許容量を超えそうな涙が上がってきたら、日本に帰って愛犬のあんと会えることを考えたり、目線を変えてみたり、頭を振ったりと感情操作を続けた。

 私の最期のランチにはますみちゃんも来る予定であったが、彼女がボランティアをしていたシャンティダンの終る時間が遅かったので、私の空港に向かうタクシーの時間もあり、最期のピザを食べ終わると、私たちはスパニッシュカフェを離れた。

 {つづく}
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引きちぎられたページ。

2017-07-26 13:21:01 | Weblog

 六年前に健康診断をして大腸がんが見つかったおじさん{病院での治療を拒み、路上で死ぬ覚悟をしていた}は前回私に会った時に言った「もし四回続けて、オレが来なかったら{カレーの炊き出し}死んだと思ってくれ」と。

 彼がその言葉を残してから三週間後を彼は姿を見せた。

 彼はいつものようにカレーの炊き出しの列の一番最後のところの近くにいた。

 「良く来てくれました。どうですか?体調は?」

 「オレ、落ちていた本のなかからがんのことを書いてあるのを見つけてさ。オレのこと{自分の病気のこと}が書いてあるところだけ切って、いま読んでいるんだよ。結構治療もしないで生きている人が居るんだね。まだまだ死なないね」

 もう笑顔はなく、真剣な顔つきで彼はそう言い、その場で足踏みをするようにしていたが、私には何故か彼が地団駄を踏んでいるように思えた。

 「死ぬのはもう覚悟しているから、もう何も怖くない。どこで死のうか、それだけを考えている」と言っていた彼ではあるが、やはり死の恐怖は彼の想像を超え、常にその形を変えてゆっくりと締め付けるように彼に覆いかぶさっているのかと思った。

 彼は私にその恐怖や弱さを見せたくなかったのか、カレーをもらった後、その場から消えるようにして居なくなった。

 私は食べ終わったカレーの容器を集め終え、公園のトイレに手を洗いに行くと、さっきまで彼が握りしめていただろう、引きちぎられた二枚のページがねじられ、手洗い場のところの捨ててあった。

 彼の恐怖がそこに捨ててあった、彼が捨てられない恐怖がそこにあった。

 彼は何を思い、痛み、今日また覚悟をしてたのだろうか。

 救いを求め、何を自分の意志とは反し、切に願ったのだろうか。

 私はもっと彼の傍にいる必要があったのではないか。

 ねじられ捨てられたページが重く、重く、ただそこに佇んでいた。

 洗っても洗っても洗い落とすことが出来ない彼の不安がそこにあった。
 
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遠藤氏の本たち。

2017-07-25 12:34:28 | Weblog

 インドから帰って来ると行きつけの古本屋が無くなっていた。

 それを確認した時「あぁ~ぁ・・」と楽しみにしていた花がしおれてしまったかのようなため息混じりの声が口から出た。

 時間が空いた時に少し立ち寄り、その場所でたぶん遠藤氏の本を50冊以上は買ったと思う。

 最近は遠藤氏の読んでいない本を見つけるのが難しく、一ヶ月置きぐらいに行っても見つからないことが続いていた。

 しかし宝探しをするように、もしかして今度こそ何かあるのではないかと思い、立ち寄っていたが、その楽しみもとうとう無くなってしまい、これ以上遠藤氏の私の読んでいない本を発掘するのを半ば諦めかけていた。

 だが、休肝日の夜、アマゾンで一冊のマザーの本を買い終えてから、ふとそうだ遠藤氏の本も探してみようと思った。

 すでに100冊くらいは遠藤氏の本が家にある、それゆえ同じ本を買ってしまいそうになることを前もって踏まえ、もし持っている本を買ったとしても、題名すら覚えていないのならもう一度読み直したって良いと言う保険を私自身に掛けてみた。

 「一・二・三!」「どっこいショ」「月光のドミナ」「人間のなかのX」を買ってみたがその保険は使わなくて済んでいるといまは思っている。

 発送終えたその本たちがいま私の家に向かっている。

 
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休肝日の夜。

2017-07-24 12:05:09 | Weblog

 最近は日曜日が休肝日である。

 インドから帰って来て仕事の休みが金土なので、休みの日明けは休肝日にしている。

 だが、私の休肝日の夜はここ最近問題が起っている。

 つい時間があるのでアマゾンで本を買おうとポチッとしています。

 昨夜も気になったマザーの本を一冊買い、それから勢いで遠藤氏の本を四冊も買ってしまった。

 これでまだ読んでもいない本が十冊以上にもなってしまうのである。

 もう当分休肝日の夜にはアマゾンを見ないようにする、もちろん、酔ってもアマゾンは見ないことの決意をここに。
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休みの日には。

2017-07-21 12:51:23 | Weblog

 この頃毎朝目が覚めるとすぐにベランダに出て緑のカーテンの朝顔をまず眺める。

 良く成長していることに安堵と喜びを感じ、それが静かに姿を変え感謝となっていった。

 朝食を取り終えると、まずフトンを干し、シーツなどを洗濯器で入れてから、朝顔たちのところに行って、蚊取り線香を焚き、その容姿をゆっくりと眺め、根元に盛り土をしてからたくさん水をあげた。

 今日はレモンにも盛り土をしてみた。

 残念なことに二度目に咲いた花たちから実になるのはあまりないようであったが、それでも、また来年に繋がっていく期待は実を結ぶだろう。

 シーツなどを干し、フトンをたたき、ひっくり返してみた。

 今日も暑いが風が気持ち良い、見渡す限り良い風が吹いている休日が祝福されていた。

 さて、これかた体幹トレーニングをしよう。

 
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クリスの話し。

2017-07-19 14:10:29 | Weblog

 「暑い暑い」と誰かと会う度に意識せず言葉にしてしまう季節が明けてしまったことに平服している昼間の朝顔の葉たちのように私もなりそうだと彼らを見ながら思った。

 いま今日もまた「あたふたの草案」を読み直し、少し書き直したところである。

 もうしばらくワインの熟成とまで行かないが、果実の追熟程度に草案を見守ってみたいと思っている。

 エアコンの温度は28度に設定しているが窓際にあるパソコンの前に座っていると、どうしても暑いのでちょっと顔を洗って来たその時にクリスが話していたことをふとに思い出したので書いておく。

 山谷の炊き出しに何回か顔を出すようになったクリスは日本と彼の本国イギリスのホームレスの違いを話してくれた。

 イギリスでは若者のホームレスが多いらしい、最悪なことに彼らは安いヘロインを容易に常習することが可能だそうだ。

 まだアルコール中毒であれば問題ではあるがそれほどでもなく、麻薬中毒になると暴力殺人事件などの犯罪も起こしやすくなり深い問題になっているとのことだった。

 にわかに信じられないことではあるがそうなのだろう。

 日本でもたぶん麻薬の問題はあるが貧しい人たちには手の出るものではなく、状況はイギリスのそれよりはマシなのかもしれない。

 しかしこのマシに安心してはならない、貧しい人たちに愛の手を差し伸べる人はイギリスも日本も決して多いとは言えないだろう。

 世間から見放され、見下され、誰からも必要とされていない孤独のうちにいる人を神さまとマザーは言っていた、そのことを知っている人ですら、なかなか実際に動くことは難しいのは何故であろうか、そこに何があるのだろうか。

 「イギリス人のMCシスターは何人いる?知っているイギリス人の誰?」とクリスに聞いて見た。

 クリスは恥ずかしそうに言った「マザーハウスにいるドクターのシスターマイケルだけ」だと。

 イギリスのメディアではカトリックはあまり良く思われていないとも言っていた。

 私は自慢げに「日本人のシスターは14人くらいはいると思う。MCファザーは一人いる」と言って笑った。

 今週の土曜日、またクリスがうちに遊びに来る。

 またゆっくりといろいろと話し合ってみたいと思っている。


 
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あたふたの草稿。その3。

2017-07-18 12:32:31 | Weblog

 {何も出来ないのではない}


 日本に住んでいる私たちからしてみれば、想像がまったく付かないことであろう、インドでは年間8万人の子供が行方不明になる。

 人身売買、臓器売買、またインドには非常に多数の言語{22言語}があるために容易に迷子になってしまうケースも有り得てしまう。

 私が今回コルカタ滞在時に関わったケースにメンタル{精神障害}な母親と娘のケースがあった。

 私たちはそのメンタルな母親をマザーテレサの施設に、娘をアイルランドのNGOホープのフリースクールに行かせようとしていた。

 娘は6・7歳ぐらいであるが、すでにタバコもシンナーも吸っていた、このままではいずれ誰かにレイプされるか、さらわれるかのどちらかであることは容易に想像が出来た。

 母親は普通の会話は出来ず、たとえ食べ物を渡そうとしたとしても、インド人とは容姿の違うヨーロピアンのボランティアの姿を見ると逃げ出してしまうことも度々あった。

 アイリッシュのジョンが帰国前の最期の日にホープの車を呼び、すべてを整えて二人を施設に運ぼうとした。

 その朝、ジョンは駅の構内で寝ている二人に私から食べ物を渡して欲しいと言った。

 そうした関わりから、その後のことがうまく行くことを願ってのことだった。

 アジア人であり、ベンガル語を話す私から母親はいつも逃げることはしなかったからでもある。

 二人は人が激しく行きかうチケットの売り場のところでズタ袋を敷き、母親が娘を守るように丸くなり、モーフに包まれて眠っていた。

 私はそれを見た瞬間、どうして母と娘を別けることが出来ようと思った。その権利など誰も持ちあわせない、この母は娘を愛している、この娘は母を愛している、私たちがしようとしていることがほんとうに正しいのか、どうなのか、分からなくなった。

 私は食べ物を手にしゃがんで母親を優しく起こすると、目をこすりながら起きて、食べ物は受け取ってくれた。

 その間、娘は何の心配もしていないように安心してずっと寝ていた。

 私には何が正しい答えなのかを見い出させなかった、その激しい葛藤の渦のなかから上がって来た唯一の答えはすべてを神さまに委ねることだった。

 ジョンがこれから行うことがうまく行けば、それは神さまがそうしたことと思い、そうでなければ、それも神さまがそうしたことと。

 私にはもう祈ることしか出来なくなっていた。

 正午近くになり、疲れ切ったジョンがホープの車に乗って、私たちが集まる駅の傍にある治療所{マザーの修道会のもの}に来た。

 ホープのインド人の職員とジョンの二人で母親と娘を連れて行こうとしたが、母親は暴れて逃げて行ってしまったとのことだった。

 それを聞き、私は心のどこかでホッとしていた。

 もちろん、娘の将来のことを考えれば、激しい苦悩を感じずには居られなかった、そのことを忘れていた訳では決してないが、神さまは母親と娘を離れ離れにすることを望まなかったこと、そのことの方が私の願いに少しだけ近かったからかも知れない。
 
 不条理な現状を目の当たりにするたび、私はマザーが同じようなことを何度も味わったであろう、苦悩を汗と疲れともに肌身で感じ、そこに生身のマザーを感じた、そのことで私は苦悩だけに縛られることなく愛を抱き寄せられた。

 私たちが関わっていたもう一人のメンタルな女性は治療所に2歳ぐらいの子供を抱いて良く来ていた。

 彼女はただひたすら独り言を話し続け、疲れたらボロ小屋のような家に帰って行った。

 彼女はマザーの施設に行くことを望まなかった。

 彼女には旦那がおらず、信じられない、信じたくはないが、すでに二人の子供をさらわれていた。

 今彼女が抱いている子供もいつかまた誰かにさらわれるだろう、そして、彼女はまた誰かにレイプされ妊娠すると言うことを繰り返すのだろうと。

 ボランティアのなかには「もう何も出来ることはない」と呟くものもいた。

 私は重苦しい雰囲気に包まれていた、そのなかで言った「愛を与えるのことを諦めてはならない。マザーは言っていた「出来ないのではない。出来ることが違うだけ」だと。私たちにはまだ出来ることがある。その親子に毎日微笑み、挨拶をし、優しい態度で私たちの心と食べ物を与えること、関わり続けること、いつも心のうちに彼女らのことを思うこと、絶えず彼女らのことを祈ること、何も出来ないと諦めてはいけない。彼女らとの関係のなかで神さまのために美しいことを見い出し続ける喜びを持つことが、私たちには出来るのだから」

 私の守護聖人であるフランシスコ・ザビエルは言った「涙しか、神さまに捧げるものがない時がある」例えそれが待っていたとしても、まだ来ぬ未来に私たちは生きているのではなく、今ここに生き、今ここで出来ることを丁寧に愛情を込め一つひとつしていくことに意味があることを如何なる時も忘れてはならなかった。

 そして何よりもマザーが見守ってくれていることを感じていた。
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昨日のアサダの飲み会。

2017-07-17 11:47:38 | Weblog

 アサダが亡くなって15年経ったアサダの飲み会ではあったが、昨日は20人以上の友達が集まり、爆笑の連続だった。

 楽しい時間はあっという間に過ぎるとはよく言ったものでほんとうに夢のような時、そうそう、子どもたちを連れて来た者たちもいたが、あの文化学院の学生時代に戻った気がしたのは、そこにいた全員だと思う。

 一年に一度ではあるが、このような集まりが生まれ続いているのはアサダの死があったことは言うまでもない、それだけアサダは愛されていた証しは色褪せてはいない。

 この集まりの幹事は私が生きている間は私がすることであると、アサダに言ったことはないが、私は勝手に誓っている、喜んでやるよと。

 この集まりの前にはいつも私はアサダの両親に連絡する。

 父親ツヨシは今回も言った「てっちゃんがいなかったら、みんな集まっていなかった。てっちゃんがみんなをまとめてくれるから、私の家族はみんなに会える、そのことにほんとうに感謝しているんだよ」

 そんなツヨシの言葉に油断すると涙腺のパッキンが壊れ始めているオジサンになった私は何か誤魔化さないと言葉が詰まりそうになるのを感じた。

 お世辞ではないことをよく知っているだけに、息子を早くに亡くした哀しみをよく知っているだけに、涙が出そうになった。

 そんな別れの哀しみのうえに昨日は面白いことが山盛りにあった、それはアサダが望んでいることでもあるだろう。

 娘を連れ、2年ぶりに参加したタロウはもうリーゼントを作る髪の毛を持ち合わせていなかった、5分刈りの坊主頭になっていた・・・。

 でも、タロウの娘はほんとうに可愛い女の子だった。
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アサダの飲み会。

2017-07-16 12:55:20 | Weblog
いま新宿に向かっている、毎年アサダの飲み会に向かっている。
まず新宿でサワキと待ち合わせ、「今年も暑いなぁー」とビールで乾杯する。
それから「あれから、何年経つかな?」とどちらからともなく言うだろう。
「15年だと思う」
「もう15年か、」
これもお互いが言葉にする事の出来るワードである。
私はここ数日アサダの亡くなった日をぼんやりと思い出そうとするが、眩しいほどの太陽の光りがまず一番に脳裏に浮かんでくる、それは今日の太陽とまったく同じようである。
15年経っても、何も変わってないと言いたいと言わんばかりのそれである。
アサダと話したい、笑いたい、オジサンである私だが小さな子供のように叶わぬ夢を見ている。
今日はこれからアサダの飲み会、20人ぐらいは来るだろう、みんなと居れば、この叶わぬ夢がほんの少し叶えられそうになる、そんな気がする。
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あたふたの草稿。その2。

2017-07-13 12:30:02 | Weblog

 マザーだったら、どうするのだろうか、私は問わずに居られなかったが、マザーはマリアさまに祈りなさいと言うに違いないとも分かっていた。
 
 不条理な現状を前にするたび、私はマザーが同じようなことを何度も味わったであろう、苦悩を汗とともに肌身で感じ、そこに生身のマザーを感じた、そのことで私は愛を抱き寄せていた。

 私たちが関わっていたもう一人のメンタルな女性は治療所に二歳ぐらいの子供を抱いて良く来ていた。

 ただひたすら独り言を話し続け、疲れたらボロ小屋のような家に帰って行った。

 彼女には旦那がおらず、信じられない、信じたくはないが、すでに二人の子供をさらわれていた。

 今は彼女が抱いている子供もいつかまた誰かにさらわれるだろう、そして、彼女はまた誰かにレイプされ妊娠すると言うことを繰り返すのだろうと。

 しかし彼女はマザーの施設に行くことを望まなかった。

 {つづく}
 

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