カルカッタより愛を込めて・・・。

次のアピア40のライブは9月13日(金)です。また生配信があるので良かったら見てください。

全文を書きましょう。

2012-07-31 12:42:08 | Weblog

 やはり、マザーの意志、マザーの遺言である「ベナレスからの手紙」は皆さんが全文を読みたいのではないだろうか、と思い、これから数日に分けて書きます。


 {この手紙のなかではマザーは自分のことをマザーと書いています。そして、何回も何回も書き直しをしようとしたが、神経痛で手が痛んだ彼女は、訂正箇所を記された下書きをシスターたちに渡し、それがタイプされコピーされた。}

 
 「ベナレスからの手紙」1993年3月25日
 
 わたしの愛する子どもたちへ
 修道女、修道士、そして、司祭たちへ

 この手紙はとても個人的なものなので自分の手で書きたかったのですが、あまりにも多く書きたいことがあるのでそれが出来ません。手書きではないとしても、この手紙はマザーの心からのものです。

 この聖週間に、イエスがどれほどあなたたちの一人ひとりを愛しているかについて語るよう、イエスはわたしに望んでいます。その愛はあなたたちの想像を超えるものです。あなたたちの中に、まだイエスとほんとうに出会っていない人がいるのではないかと心配です。一対一で、あなたとイエスだけでということでということです。わたしたちは聖堂で時を過ごしますが、あなたたちはイエスが愛をこめてあなたたちを見ているのを自分の魂の目で見たことがありますか。あなたたちはほんとうに生きているキリストを知っていますか。本によってではなく、こころの中で彼と共にとどまることによって。あなたたちはイエスが語りかける愛情のこもった言葉を聞いたことがありますか。恵みを求めなさい、イエスは恵みを与えたくて仕方がないのです。こころの静けさの中でイエスの呼びかけを聞くまでは、貧しい人々のこころの中でイエスが「わたしは渇く」と言っておられるのを聞くことは出来ません。「ほんとうに生きている人」であるイエスとの、日々の親しい交わりを諦めてはいけません。イエスは単にあなたが思い浮かべているような人物ではないのです。イエスが「あなたを愛している」と言うのを聞かずに、たとえ一日たりとも生き長らえることはできません。体が呼吸を必要とするくらいに、わたしたちの魂はその呼びかけを必要としているのです。もしそうでないなら、祈りは死んだものであり、黙想は単に考えているということに過ぎません。イエスはこころの静けさの中で語りかけながら、あなたたちの一人ひとりがイエスに耳を傾けるのを待っているのです。

 {つづく}

 
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選び。

2012-07-30 12:48:08 | Weblog

 昨日書き出した「ベナレスからの手紙」の一部は「マザーの秘められた炎」や片柳君の本などでは抜粋されていない部分です。

 マザーがこの上なく愛する自分の修道会とその子たちを守るがために是が非でも言い伝えたかったことの一部だと思います。

 「黙想の指導者選びに注意しなさい」とマザーが言わざるを得なかった、またそうしたことをマザーが言うとは思えなかった人も多いのではないかと思うと同時に、やはり選ばなくてならない真実があるように思えた。

 深く強い、その思い、与えられた召し出し、神さまからの贈り物を守るためであれば、何でもしようと言う、まさに遺言の言葉、命の言葉を伝えている。

 あなたは何を感じたのだろうか。

 マザーはこの瞬間も、あなたに語りかける。

 
 「ベナレスからの手紙」より

 「わたしは渇く」と「あなたはそれをわたしにしたのだ」、この二つの言葉を結び付けられるようにしなさい。手段を目的と結び付けなさい。神が結びつけたものを引き裂いてはなりません。たとえそれがどれほど小さく、みすぼらしいものでも、貧しい人々のための働きという実践的な手段を過小評価しないようにしなさい。それが生活を神さまのために何か美しいものにしてくれるのです。それは、わたしたちの会に神が与えてくださったもっとも大事な贈り物です。それは、イエスの隠れた存在を身近なものにし、触れられるほどにしてくれるのです。貧しい人々のための働きなしには、目的は死にます。イエスの渇きは何の意味も、何の答えも持たないただの言葉になってしまいます。先にあげた二つの言葉を結びつけることで、「神の愛の宣教者会」の召し出しは生き生きとして、現実のものとなるでしょう。それは聖母が求めたことでもあります。

 
 
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マザーの書簡集。

2012-07-29 15:35:46 | Weblog

 1993年3月25日。
 「神の愛の宣教者会」全会員にあてて。

 「ベナレスからの手紙」 その一部。

 黙想の指導者選びに注意しなさい。すべての人がわたしたちの精神を正しく理解しているわけではないのです。聖なることや学識のあることは、彼らがわたしたちの召し出しの恵みを理解しているということを意味しないのです。もしマザーがこの手紙に書いていることと違うことを彼らが言うのなら、それは聞かないように、それがあなたたちを混乱させないように望みます。イエスの渇きは、「神の愛の宣教者会」であることすべての焦点なのです。教会はそのことを何度も何度も確認してきました。わたしたちのカリスマは、愛と魂のためにイエスの渇きを癒すことなのです。貧しい中でももっとも貧しい人々の救いと聖化における働きによって、何も違ったことはありませんし、何もほかのことはありません。神がわたしたちの会にくださったこの贈り物を守るために、出来ることは何でもしましょう。
 愛する子どもたち、私を信じなさい。マザーが今言っていることによく注意しなさい。イエスの渇きだけが、それを聞くこと、感じること、こころをつくしてそれに応えることが、マザーが去ったあともこの会を生き生きとしたものとするでしょう。それがあなたたちの生活となるなら大丈夫です。もしマザーがあなたたちのもとを去るときも、イエスの渇きは決して去って行きません。貧しい人々のなかで渇いているイエスは、いつもあなたたちのそばにいるのです。


 どのようにしてあなたたちはイエスの渇きに近づくのですか。そこには一つの秘密があります。{イエスに近づけば近づくほど、あなたたちはイエスの渇きをもっと知ることになるのです。}「悔い改めて、信じない」とイエスはおっしゃっています。何を悔い改めるのですか。わたしたちの無関心と、こころの頑なさです。何を信じるのですか。あなたたちのこころの中で、そして貧しい人々の中で、イエスは今でも渇いているということです。イエスはあなたたちの弱さを知りながら、あなたたちの愛だけを、そしてあなたたちを愛する機会だけを望んでいるのです。イエスは時間によって縛られることはありません。イエスに近づくたびに、わたしたちは聖母、聖ヨハネ、そしてマクダラのマリアと仲間になるのです。あなた自身の名前を聞きなさい。わたしの喜びと、あなたたちの喜びを完全なるものにしなさい。


 
 これがベナレスからの手紙から抜粋です。

 全文はこの五倍以上になります。

 マザーの切なる思いが十分に伝わることと思います。

 マザーは今もなお、あなたを愛しています。

 
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二日酔いには。

2012-07-29 14:52:17 | Weblog

 昨日は山谷のMCでブラザーたちと一緒に花火を見た。

 スカイツリーの前にきれいに花火を上がっていた。

 残念なことに第二会場の花火は建物があって見えないが、それでも、十分に楽しめた。

 花火が終わってからは、酒も良い調子に入って、ほとんどの人が帰ってからも、伊藤さん、広瀬さん、南さん、和田さんと自分、オヤジたちはマザーと山谷の話しになった。

 そこにブラザートーマスも入り、深い話になって行った。

 自分がしたことがそれでほんとうに良かったのか、どうのか、いつも迷うと言うことについて、語り合った。

 トーマスは読み終えた「マザーの書簡集」を持ってきて、マザーと山谷に来てからのことを語った。

 そして、マザーに会ったことのある自分と和田さんに「マザーに逢いたかった」その哀願するように話した。

 そんな話をすると、また酒が進み、今朝はしっかりと二日酔いになっていた。

 外は暑く、クーラーのないミニに乗る気もしないので、どうしようかとゴロゴロとしていたが、こんな二日酔いを覚ますには掃除が良いと思い、部屋とトイレ、お風呂場を掃除した。

 そして、緑のカーテンの補強して、ゴーヤと朝顔の成長を一段と楽しむものとした。

 今日は出掛ける用事もないので、この後、トーマスも感動した「マザーの書簡集」のなかから、「ベナレスからの手紙」の一部を書き出してみたいと思う。

 これはマザーの遺言と言って過言ではない手紙である。

 この手紙のなかでマザーは自分のことをマザーと表記している。

 今は「マザーの書簡集」は絶版になってしまったので、読みたいと思っている方もいるだろうと思い、その一部であるが紹介しよう。

 
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明日、何をしよう。

2012-07-27 12:41:44 | Weblog

 今週は日曜日からの仕事だったので、明日の休みが楽しみである。

 さて、何をしようと一昨日あたりから考えていた。

 山谷はお休みなので、早起きすることもないし、今夜ゆっくりと晩酌しても良し、だが、久しぶりに早朝のあんの散歩に行きたいと答えをまとめつつある。

 4時半に起きて、ミニに乗って深大寺に行くか、それとも、三沢川の天神山に行くか、さて、どうしようか、悩むところである。

 今朝あんは母親と早朝の散歩でうんちをしなかった。

 七時前に今度はうんちをさせようと自分があんを散歩に連れ出そうとすると、あんは嫌がった。

 抱っこして行けば、そのうち諦めるだろうと考えたが、抱っこをしても、まな板の上の鯉のように身体をくねらせ嫌がるので降ろすと、一目散に玄関に戻っていった。

 これは仕方がない、今日は35度になる予報だったのでうんちはしといた方が良かったが、出ないものは出ないのだろう、それは受け容れるしかなかった。

 こんなあんなので早朝と言っても、25度ぐらいはあるし、散歩に行きたがるかどうか心配なところもある。

 だが、ミニのエンジン音を聞けば、あんは「ヒュ~」と声を出し、「連れてって~」と思うはずである。

 この期待は現実になるのかどうなのか、いやはや、いくら考えてもしょうがないことはこのくらいにして、あとはあんに委ねよう。

 あんの爪きりも一週間掛けて、どうにか先ほど終えた。

 一日に二つか、三つの爪を切る。

 これもあんがとても嫌がる。

 痛くないのに嫌がる。

 だが、これは痛い思いをさせたトラウマがあるのだ。

 そうさせたのは自分であるから、これはまったく申し訳ない。

 なので、爪きり後は必ずおやつと道筋を立てた。

 爪きりをするときはあんがゆっくり寝ているところを狙う。

 爪きりを目にするとあんは逃げるから、そっと近寄り、「いい子だね」と体を撫でてあげる感じに見せかけ、足を取り、爪をチョッキンする。

 運が良ければ、あんは「嫌だよ!」とは言わない。

 こっち「えらいね!」の連呼。

 もうこれ以上は無理と判断すると、「あん、おいで。美味しいの食べよう」と言うと、あんはスタスタついて来て、何事もなかったようにおやつを食べる。

 これでどうにか爪切りをさせてもらっている。

 あんの嫌がることはしたくないのだが爪きりは仕方がない。

 今日も暑い、あんはフローリングに伸びている。

 ゴーヤも昨日よりも伸びている。

 
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がんばれ、ゴーヤ。

2012-07-26 12:42:05 | Weblog

 こう暑くなると、ほんとうに緑のカーテンの完成が待ち遠しい、そのカーテンの下で休日には冷たいビールを飲みたいと心待ちしている。

 自分のそんなわがままな思いをゴーヤが知れば、「俺もがんばっているんだ」とゴーヤは思うだろう。

 にしてもだ、暑いから、ついついそう思ってしまう。

 確かにゴーヤの成長は日に日に目に見える形で、それを示してくれる。

 「いいぞ、しっかり」声援に答えるように、新しい芽からツルを伸ばし、ゴーヤは縄張りを広げている。

 縄張りと言えば、あんの縄張りは最近広げていない、と言うか、この暑さであんは外に出るのを嫌がる。

 陽の入らない涼しいところで伸びて寝ている。

 さすがにクーラーのないミニにこの暑さのなか、あんを乗せることは出来ない、しばらくはあんの縄張りの広げるのは中止である。

 あんは晩酌のお供はしてくれているが、これはお小遣いのリンゴは目当て。

 最近は「早くちょうだい!」と自分の肩に前足を乗っけて、耳や頬を舐める作戦に出てきている。

 その作戦に乗らないように、あんにはお座り、お手、おかわりをしてから、お小遣いのリンゴをあげている。

 それも楽しい。

 あんは楽しくないのかもしれないが、こればっかり譲れない。

 あんにもこの暑さは応えるだろうが、どうか乗りきって欲しい。

 あんもゴーヤ、みんなもしっかり。

 
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山谷の夏休み。

2012-07-25 12:55:05 | Weblog

 山谷のMCの土曜日の炊き出しは8月25日まで休みになる。

 花火大会、地域の夏祭り、お盆休みが重なり、4週間土曜の炊き出しは休みになる。

 先週はIさんにも会えなかったが、彼はどうしているのだろう。

 この暑さのなか、どうにか耐えていて欲しいと願うばかりである。

 先週神父のダニエルからカテキズムをもらった。

 すでに読み始めているが、この休みの間に読もうと思っている。

 マザーが信じていたものを勉強出来ると言う喜びになるまでかなりの時間が掛かったが、それも今となれば必然、必要だったと思えてならない。

 気になるところ、反発したくなるところこそ、そうしたところには意味深く立ち止まってみたいと思っている。

 そこには何かがある、その何かとゆっくりと向き合ってみたいと思っている。

 そして、ダニエルからいろいろと教わろう。

 彼は自分にカテキズムを渡すときに、あなたには何も教えることはない、私の方こそ教えてもらいたいと微笑みながら言った。

 そんなことはない、自分に教えて欲しいと答えた。

 自分は彼を尊敬している、おじさんたちに対する愛情深い態度を何度も見てきた。

 そうした彼からカテキズムを教わることは嬉しいことである。

 
 誰かに会えば、「暑いですね」が挨拶になる今日のこの頃。

 うちの緑のカーテンはまだまだ仕上がっていない。

 今年はうまく出来上がらそうだったので、二週間ほど前にやっとゴーヤを買い、ベランダで育てている。

 きっとうまく行く、土にはゴーヤの土なるものを買ってみたのだからと。

 ちょっと他人任せ気味なところが無きにしも非ずだが、ここはプロの力を借りてみた。

 自分はその日々の成長をゴーヤをせかすように楽しんで眺める。

 ゴーヤが手の届きそうなところに、「ここに手を置くように」とそのツルを掛けたりしては「どうかな」と思ったり、なかなか楽しんでいる。

 水は出し惜しみすることなく、たくさんあげる。

 そして、ゴーヤはこの暑さを喜び、大きくなってくれると嬉しい。

 
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恩返しの男。

2012-07-24 12:56:46 | Weblog

 「先生、どうか助けてやってください。服も汚れきっているし、足も顔も真っ黒じゃない、それに凄く痩せている、痩せすぎ・・・」

 「うん、このままじゃ死んじゃうもんね・・・」

 「そうだよ、俺はまだ良いけど、彼は・・・」

 「うん、出来ることはするからね。でも、なかなかうまく行かないんだよ。彼は知的障害を持っているし、食べ物を渡そうと約束しても、その場に来れないんだよ」

 「そうだよね、でもさ・・・」

 以前カレーを食べに来るように約束した次の週、彼はカレーを食べに白髭橋には顔を見せなかった。

 彼は山谷掘にいた。

 そこでどうして白髭橋に来なかったと彼に聞くと、彼は助けられた鳥に恩返しをしていたから来れなかったと微笑みながら答えた。

 その彼が久しぶりに白髭橋にカレーを食べに来た。

 「良く来たね」と迎えると、「うん、うん・・・」と顔を上げ、目を合わせたり、また目をそらしたりしながら答えた。

 その彼の後ろにいたおじさんが彼のことを心配してくれて、自分にどうにかしてほしいと頼んできた。

 
 目も窪み、不精髭で伸ばしっぱなしの彼はカレーをもらうところで何か話していた。

 カレーを二つ手にしていた。

 渡すボランティアがどうして良いか、分からないでいるところ、すぐに自分が行き、彼には二つ渡して良いと言うことをボランティアに伝えた。

 彼はさっきまでいた友達にあげるから二つ欲しいと伝えたらしい、こうした願いは普段誰に対しても聞き入れることはしないのだが、自分は彼を特別扱いした。

 その非難を浴びることも覚悟し、また彼が二つ持っていることで誰かに嫌なことを言われないように、彼とともいた。

 お腹が空いたからと言って、彼が人を騙すような知恵がある訳はなく、またそれが妄想でも何でも良いと思った。

 生きる力となる食事を取って欲しかった。

 彼が座り、カレーを食べ始めると、隣に座り、彼に話しかけた。

 彼の首は象の肌のような状態であり、黒くただれていて、痒みを伴うのであろう、掻き傷から出血している場所が何個かあった。

 二ヶ月前に自分があげた服をまだそのまま着ていた。

 「さっきまで居たのにな、友達、どこに行ったのか?」

 それは自分のためのカレーではないことを示しながら、彼はもう一つのカレーを食べ始めていた。

 彼は左利きだった。

 もう何年も前から彼を知っているのに、その時、それを始めて知ったことに自分は何を見てきたのかと不甲斐なさを感じた。

 自分が彼を特別扱いしたことに対して、それを見たおじさんたちのなかには不満を吐くものもいたかもしれないが、目の前の彼とのこの瞬間を大切にしてかった。

 嫉妬や嫌な思いをさせてしまったことと思ったが、そう選んだ。

 彼はカレーを一つ食べると、もう一つを持って帰って行った。

 彼の不安定に歩く後姿を見守った。


 午後浅草まで自転車でカレーを配り終えて帰ってくる帰り道、彼がいつもいる場所に通ろうと、その場に行くと、膝を抱えたまま塞ぎこんでいる彼がいた。

 彼の前にはニラとキャベツがあった。

 ニラは一束20円、キャベツは一個70円と書いたあるダンボールがあった。

 その奥で膝を抱え、しゃがみ込んでいる彼がいた。

 ここに座っていれば良いと言われたらしい。

 その彼が彼の言う友達だったのか・・・。

 さっきまでビーチサンダルを履いていた彼は靴を履いていた。

 店番も恩返しなのか・・・。

 近くでその状況も面白がって見ている精神障害を持っているだろうおじさんが一人立っていた。

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俺も・・・。

2012-07-23 13:17:08 | Weblog

 以前何度か書いた軽い脳梗塞を起こして、医師から「このままでは死ぬよ」と言われたおじさんに会った。

 カレーの食べ終わった彼に声を掛けた。

 「最近調子はどうなの?」

 彼は耳にすぐに手をやり、聞こえないと言う素振りをしながら、少し自分に近づいてきた。

 「最近はどう?」もう一度聞きなおすと、彼はこう答えた。

 それは以前と変りのない左腕がずっと痺れ、顔もこわばっていて、最悪と言うことだった。

 彼は以前その病状のことを自分に話した次の週には明るい感じで、「病院に行くことにした」とも答えていたが、それはその日だけのことで未だ病院に行っていないようだった。

 自分の病状が救われない、もうダメだと言うことを伝えながらも、そうなることを決して望まない、望んでいない、間逆の気持ちを深いところから浮かび上がらせるように語る、彼は自暴自棄になりながら、救いを待っている。

 その彼は息苦しさをもっと分かって欲しいことを伝えるために、彼の友達のことを話し始めた。

 その友達は以前仕事の紹介などもしてくれた人で、白髭橋よりも上流のところにテントで暮らしていた。

 役所の人たちがその土地を何かにしようするためにテントを壊そうとすると、そのなかでその友達は黒くなり白骨化して見つかったらしい。

 死後一年半くらい経っていたと言う。

 ミイラ化していたのだろう、彼はその友達と同じように自分も死ぬだろうと吐き捨てるように話し続けた。

 「伊藤さん{彼の友達}も医者が嫌いだったから病院には行かなかったんだよ。俺も医者が嫌いだから病院には行かない。だって、医者にいじめられたんだ。酷かったよ・・・、精神病院まで入れられてさ・・・。だから、俺も伊藤さんのように死ぬよ・・・」

 そう言いながら彼がずっと救いを待っていることは確かに感じられた。

 そして、彼の決定的な人間不信を感じざるを得なかった。

 医師の何でもないような一言、また心ない一言に、愛情、思いやりのない態度に激しく傷付いたのだろう。

 そして、見捨てられたと思い込んでしまった。

 実際見捨てられたのかもしれない。

 救いの手はあったのかもしれないが、一度そう思い込んでしまうと、もう世界はそれだけの世界だと決め込んでしまう弱く幼い心で自分の首を自分で絞めこむように苦しめて生きてきたのだろう。

 そのどうしようもない生き辛さで今日も彼は生きている。

 マザーも言う。

 「すでに彼らは物凄く苦しんできた。だから、言葉には十分に気を付けなければならない」

 ケアする側はその深い思いやりと愛情ある態度が必然である。

 苦しみを吐くだけ吐き出し、諦め顔が苦笑い顔に変り、「見守っていて」と言うような雰囲気を出し、彼は自分から離れていった。

 別れた後、しばらく、彼の痛みを感じ直した。

 そして、それは祈りに変った。

 公園の花畑ではひまわりが大きくきれいに咲いていた。

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涼しい朝に。

2012-07-20 12:13:28 | Weblog

 今朝六時あんは母親と散歩に行ったが、車が来たり、人が来たりでもう少しのところでうんちが出なかったようで、九時過ぎに前日とはかなり違い涼しかったので自分ともう一度散歩に出かけた。

 きっとうんちはしたいのだろう、あんだが「もう朝行ったから良いよ」と言わんばかりのトボトボウォークで出発し、家の前の駐車場でおしっこをまずした。

 大通りに出ると仕事に向かう石坂に会った。

 あんの未だトボトボウォークなので、「石坂だ!あん、石坂が来た!」の声で一気にトボトボウォークは一時終了し、耳を立て、石坂を探し、見るけると一目散に走っていった。

 石坂は何だか腰をかがめて歩いてきた。

 「おぅ~あんちゃん」と言って、はしゃぎまわっているあんを撫でるが、少し元気のない石坂にあんも、それを感じ、はしゃぐのを辞めた。

 「どうした?」

 「いや~、お尻が痛いんだよ」

 「痔?」

 「たぶんね・・・、かがむのも、椅子に座るのも痛んだよ」

 「いや~それはたいへんだね。早く病院に行った方が良い。肛門科・・・」

 分かっているよ、分かっているけどさ、恥ずかしいよな~、なんかさ、とは石坂は言葉にしなかったが、その表情から石坂の心の声をしっかり聞こえた。

 「お大事に・・・。んじゃ、また。あん、行くよ」

 そう言って分かれた。

 石坂はまたかがむようにして歩いていった。

 それから、あんも大通りを渡り、近くの駐車場でゆっくりとうんちをした。

 帰るかなと思ったら、そのままあんは大好きなはなの家に向かってトコトコ歩いていった。

 あんは大通りを渡るといつもはなんちに行きたがる、今朝は涼しかったから、少し歩こうと思い、あんに付き合った。

 はなんちに着くとすぐにはなはあんに気付き、二階の窓から顔を出す。

 はなが身体を揺らしているのが良く分かるので、きっと尻尾も右に左に大きく振っているだろう、はなも大喜びしていた。

 だが、あんは一生懸命に玄関のはなの臭いを確認していた。

 そして、玄関から二階に上がりたいと言うことも分かったが、今日はサイもサイのおばさんの姿も見えないので、あんには我慢させた。

 あんは抱っこしないとはなんちからなかなか離れないので抱っこして、二階のはなに「バイバイ」して帰ってきた。

 とりあえず、はなんちにも行って、クンクンもしたことだし、それで良しとするあんはそれからトコトコと家路に向かった。

 涼しい朝の出来事であった。

 
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