やはり、マザーの意志、マザーの遺言である「ベナレスからの手紙」は皆さんが全文を読みたいのではないだろうか、と思い、これから数日に分けて書きます。
{この手紙のなかではマザーは自分のことをマザーと書いています。そして、何回も何回も書き直しをしようとしたが、神経痛で手が痛んだ彼女は、訂正箇所を記された下書きをシスターたちに渡し、それがタイプされコピーされた。}
「ベナレスからの手紙」1993年3月25日
わたしの愛する子どもたちへ
修道女、修道士、そして、司祭たちへ
この手紙はとても個人的なものなので自分の手で書きたかったのですが、あまりにも多く書きたいことがあるのでそれが出来ません。手書きではないとしても、この手紙はマザーの心からのものです。
この聖週間に、イエスがどれほどあなたたちの一人ひとりを愛しているかについて語るよう、イエスはわたしに望んでいます。その愛はあなたたちの想像を超えるものです。あなたたちの中に、まだイエスとほんとうに出会っていない人がいるのではないかと心配です。一対一で、あなたとイエスだけでということでということです。わたしたちは聖堂で時を過ごしますが、あなたたちはイエスが愛をこめてあなたたちを見ているのを自分の魂の目で見たことがありますか。あなたたちはほんとうに生きているキリストを知っていますか。本によってではなく、こころの中で彼と共にとどまることによって。あなたたちはイエスが語りかける愛情のこもった言葉を聞いたことがありますか。恵みを求めなさい、イエスは恵みを与えたくて仕方がないのです。こころの静けさの中でイエスの呼びかけを聞くまでは、貧しい人々のこころの中でイエスが「わたしは渇く」と言っておられるのを聞くことは出来ません。「ほんとうに生きている人」であるイエスとの、日々の親しい交わりを諦めてはいけません。イエスは単にあなたが思い浮かべているような人物ではないのです。イエスが「あなたを愛している」と言うのを聞かずに、たとえ一日たりとも生き長らえることはできません。体が呼吸を必要とするくらいに、わたしたちの魂はその呼びかけを必要としているのです。もしそうでないなら、祈りは死んだものであり、黙想は単に考えているということに過ぎません。イエスはこころの静けさの中で語りかけながら、あなたたちの一人ひとりがイエスに耳を傾けるのを待っているのです。
{つづく}