私たちの周りにはきっと多くの福音が注がれている。
しかし、その福音をどう私たちが受け容れ、また見逃しているのかは分かりきることはないだろう。
私自身を振り返れば、洗礼を受けるまで20年以上掛かった。
その間にどれだけの福音を耳にしたか、また素知らぬふりをしたことか。
ただ私はその時間が無駄であったとは到底考えられない、その声の届く場所に留まり続けていたことにより、生涯における大いなる福音を授かることが出来たのだと思う。
しかし、福音のうちに生きているのかと問われれば、はいとすぐに返事を出来ないことも知っている。
福音をほんとうの意味で身に刻み、その中に生きることはやはり容易ではない。
話しは少し福音の形を変えるが、私は多くの友達に体幹トレーニングは良いからやってみるようにと勧めるのだが、やはり続けられる友達は少ない。
しかし、それは私の洗礼までの道のりに照らし合わせれば、それも分からないでもない。
私たちは良いことと知りつつも何かが足りず、福音を十二分に活かすことが出来ない日常を生きているのかも知れない。
しかし、ニヒリズムに生きているのではない、だからこそ福音はあり続けている。
また私には合うが他の人には合わないものもあることを知りつつも強引に良いことを伝えようとすれば、それはその時点ですでに福音ではなく、暴力、脅しになり変わり、終いには見下しになっていることが少なくない。
正義の仮面は剥がしようが難しく厄介なものである。
健康のレベルで言えば、医者からこれこれした方が良いですよと言われる福音にも耳を貸さない患者も少なくないでしょう。
またその逆もあり、それだけに固執してしまえば、何かがギクシャクしてしまうようになりかねない。
福音をより良く身にするのもしないのも実は私たち自身に関わっている。
そして、福音をうまく伝えられないのも実は私たち自身に関わっている。
相手にとってちょうど良い福音を伝えられるようにし続けることが神さまのお望みのようである。
それこそ、神さまのために美しいことをしなさいと言うマザーの願いそのものである。
より良く福音をあなたが受け容れられるように祈り願わずにはいられない。
福音とは祈りとともやってくるものではないかと私は思うのである。
それはどこにやって来るのかと言えば、柔和な心にやって来やすいのであろう。
そして、苦しむ者のもとにも。