カルカッタより愛を込めて・・・。

次のアピア40のライブは9月13日(金)です。また生配信があるので良かったら見てください。

スズメの水浴び。

2012-04-30 12:49:49 | Weblog

 久しぶりに土曜日が晴れて、山谷の炊き出しも気持ち良かった。

 MCの横にあるセンターでも争議団が炊き出しをしていた。

 そこに百人くらいのおじさんたちもいたので、白髭橋には今日は少なくなるだろうと思ったが、何にかのおじさんは争議団の炊き出しのあとに白髭橋まで来ていた。

 月末と言うこともあり、500人近いおじんさちが来た。

 北海道から毎年を送られてくる小さいジャガイモも茹でてビニール袋に入れて配った。

 この数もダンボールで何箱も送られる、その数はすごいものである。

 ボランティアたちも昼食時その茹でたジャガイモも美味しく頂いた。

 来年でMC50周年になる祝いのための昼食後のロザリオの祈りも大切な時になってきた。

 こうしてみんなでの祈りはカルカッタの時を思い出す心地良さとこの行いの意味を深くしてくれる。

 その後は新緑を喜びながら、浅草まで自転車に乗って、カレーとお弁当を少し配った。

 祝福を受けたように新緑はその神々しさを表し、誰をかれをも笑顔へ導く。

 その証しのように小さな水溜りではスズメが水浴びを楽しんでいた。

 寒さの厳しさから解放された誰かの喜びがそこに現れているようだった。

 この冬に何人かのおじさんが亡くなった言問橋の下を通るとき、このうちに
彼らの冥福を祈りながらも、祝福された陽射しに感謝をした。

 命の輝きのなかに感謝をした。
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電信柱。

2012-04-27 12:38:53 | Weblog

 家の前にある電信柱にスズメが巣を作った。

 あの春の嵐にも大丈夫だったようだ。

 電信柱にあるポリバケツのようなものの下に巣を作ったようで激しい雨にも耐えられたようである。

 あのポリバケツのようなものの名前は知らない。

 この歳になっても知らない。

 身近にあるものですら、名前を知らないものもたくさんある。

 それはきっと自分のこのうちにあるものですら知らないものがあるだろう。

 そのようななかで呼吸し生きている。

 それはやはり小さきものとして生きていると言うことになるのではないか。

 それに違いはない、だが、この小さきものは他の小さきものとともに生きている。

 春の嵐に耐えられるか、心配していたスズメのつがいも、そんな小さきものであることにすら気にすることもなく、互いを必要とし生きている。

 これは素晴らしいことではないか。

 雨にも負けず、生きている。

 誰かに心配されながら生きている。

 名前も知らないもの、姿も見えぬもの、尊きものが必ず必要としているなかに自分たちは生きている。

 これは信じる信じないではない。

 こうした繋がりのなかに生きている真実があるだけである。

 だから、自分はそのスズメを愛おしく眺めることが出来る。

 そうさせてもらっている。

 いまは優しい雨が静かに降っている。

 この雨も何かに繋がり、その意味を成している。

 
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あんの爪きり。

2012-04-26 12:34:46 | Weblog

 あんの爪きり、これが一苦労。

 あんが良く寝ているところを狙い、爪きりは隠したまま近寄り、撫でていると思いきや、爪をぱっちりとする。

 寝ぼけていたが、すぐに目を覚まし、「嫌だ~!嫌だ~!」と言って逃げる。

 そこを「痛くない!痛くない!大丈夫!大丈夫!」となだめ、素早くしとめるように爪を切りすぎないように気をつけながら切る。

 一日三つぐらい爪を切ったら、すぐに大好物の七面鳥のアキレス腱をあげる。

 もちろん、「あん、えらいね!」と褒めちぎって、良い子良い子もする。

 以前二度ほど失敗して、血を滲ませたことがあったので嫌がるのは当たり前だろうが、もうちょっと信頼してもらいところだが、さてさて、怖いものは怖い、嫌なものは嫌なのだろう。

 大好物のおやつをご褒美に、ある意味格闘するような形であんの爪を一ヵ月半に一回切っている。

 あんの嫌がることはしたくないのだが、こればっかりは仕方がない。

 良い子だから我慢してほしい。

 でも、間違っていけない我慢しなくても、あんはあんでありのままとても良い子である。

 

 
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コージーが山谷に。

2012-04-25 12:41:45 | Weblog

 土曜日はコージーが久しぶりに山谷に来た。

 コージーは二年のインターンを終え、今年から医師になった。

 と言っても外見が変わるとか、感じが変わるとか、発言が変わるとかはなく、相変わらずコージーらしくあった。

 待ち合わせの時間には彼は間に合わなかった。

 それは休日でも病院に少し寄ってから山谷に来たので、病棟にて時間が掛かることがあり、遅れて山谷に来た。

 忙しいなか、山谷を忘れずにいて、時間を割いて来てくれるのは嬉しい。

 カレーを一緒に食べ、それから来年でMCが50周年になるので、そのためのロザリオの祈りにも参加してもらった。

 コージーにはきっと生まれて初めてのロザリオの祈りだと思う。

 いや、4年前のカルカッタのアドレーションの時のロザリオの祈りがあったが、それは気づかなかっただろう、いやいや、それは自分が説明しなかっただけの話である。

 まぁ、ともかく祈りに参加してもらった。

 終わってから聞いて見ると、いつ終わるのかと思っていたらしい。

 それはそうだと思った。

 それからサイゼリアに少し飲みに行った。

 コージーはいろいろと話をしたかったようで、恋話や仕事話など聞いた。

 そして、結局行き着くところはコージーの趣味を探すと言う、ある意味人生への探求のような話になった。

 無我夢中になれる趣味がある方が医師として働く場合にはもっとも精神衛生的に良いだろう。

 もちろん、これは医師だけではなく、誰にでも言えることである。

 無我夢中になれる趣味を持つことにより、人生はより豊かに味わい深くなるのだろう。

 ギャンブルでは困る、それは依存であるから。

 さてさて、コージーはより良い趣味が持てるだろうか。

 あなたは素敵な趣味を持っているだろうか。

 人生を豊かに生きているだろうか。

 それはいつもあなた次第である。

 そのチャンスは常に与えられている。

 
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目覚めてすぐに。

2012-04-24 12:39:31 | Weblog

 昨日から今日の天気は知っていた。

 目覚めるとその天気予報が当っていたことを知った。

 カーテンを開け、部屋の観葉植物全部をベランダに並べ、水をたっぷりあげた。

 もちろん、ずっとベランダにある夜香木にも水をたっぷりあげた。

 雨上がりの空気が美味しくて心も身体も喜んだ。

 あんを散歩に連れ出すと、見渡す限り、見るもの全てがキラキラを輝いていて、くっきりとその存在を表す生命の息吹が声を掛けてくれるようにだった。

 何度も深呼吸しては、その喜びをこのうちに仕舞いこんだ。

 にもかかわらず、その仕舞いこんだ喜びはこの身体からあふれ出していった。

 微笑む、微笑みの朝だった。
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どうにかなる前に。

2012-04-23 12:36:35 | Weblog

 土曜日の山谷は450人ほどのおじさんが来てくれた。

 前週の土曜日は冷たい雨の炊き出しになってしまったが、一昨日の土曜日もまだ寒い隅田川の川辺だった。

 下駄を履いている自分を待っていましたと突っ込むおじさんたちが何人かいた。

 この日はいつもよりもボランティアの数も少なく、11時から配る予定の時間ギリギリになっていた。

 いつものように並んでいるおじさんたちに挨拶をしてから、また配っている場所まで戻り、カレーを食べているおじさんの状態を見たりする。

 そこで食べ終わった容器を集めるものがいない場合は配っているボランティア何人かに声を掛け、容器を集めてもらうように頼む。

 ボランティアの数が少ない昨日もそのようにした。

 ちよちゃんの双子の姉のさよちゃんにも公園の方に行って食べ終わった容器を集めて欲しいと頼んだ。

 カレーを配り終えてから、彼女のところに行くと、元気に容器を集めてくれていた。

 「どうおじさんたちに愛を与えられている?」

 「いや、おじさんたちのほとんどが顔を合わせてくれない。こっちが顔見ても合わせてくれないですよ。」

 「そうか、女性は恥ずかしいのかも知れないからね。でも、声を掛け、ちゃんと見てあげる事だよ。愛を与えることは簡単ではないからね。」

 「そうですね。」

 元気に彼女は答えた。

 難しいことであるが、元気良く話しかければ良いのか、と言う問題でもなく、相手にどのように自分が映るかと、またどんな態度は彼らにとって受け容れやすいものなのか、そして、一人ひとりの違いにも心を配り、彼らのことを忘れないことが良い。

 だが、これは難しい。

 またしかし、難しい、難しいと言って諦めるのではなく、愛を忘れずにあること、そのことを意識すること、祈り続けることにより、何かは花を開いてくるものである。

 先週脳梗塞で医者に首を傾げられたおじさんに会った。

 一昨日彼は少し晴れた顔をしていた。

 「どう、調子は?」

 「先生、オレはどうにかなる前に医者に行くことに決めたよ。こんなに悪い状態も初めてだし、ちゃんと病院に行くことにするよ。」

 「そう、それは良かった。」

 「うん、ありがとうございます。ちゃんと病院に行きます。」

 たぶん、彼が病院に行き、入院すれば、きっと生保を受けるようになり、それでここ山谷の生活でもお別れになるかもしれないと思った。

 それが最後かもしれないと思ったが、晴れた彼の笑顔が自分のうちに移り、清々しい思いになった。

 どうか良くなって欲しい。

 命を大切にしてくれてありがとう、そう一人呟き、彼のために祈った。
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夏休みの宿題。

2012-04-20 17:08:05 | Weblog

 やっぱりあんはアカシアの森は好きみたい。

 今日はアカシアの森のまえの芝生の広場でたくさん遊んだ。

 遊んでは一休みして、自分もあんも遠くでタンポポが咲き誇るなか腰を下ろした。

 遠くで鳴くウグイスの声を春の風が運んできてくれた。

 大好物のササミをおやつにして、あんはとっても嬉し楽しそうだった。

 十分遊んでもまた帰らないの座り込みをしたが、そこは言い聞かせ帰ってきた。

 帰る途中、たぶんヨークシャーだと思うペニーちゃんに会った。

 ペニーちゃんの本名はペニーレインと言うようで、もちろん、ビートルズのうたから取ったらしい、その洒落た感じが一緒にいた飼い主さんとも良く合っていた。

 そして、午後は狂犬病の注射をうちに病院に行ってきた。

 あんはそこの先生が大好きで物凄く嬉しそうに自慢の尻尾をフリフリして、「ウォ~」と「遊んでよ~」の声を出す。

 注射は痛かったようだが、いつもくれる試供品のご飯を頂くと、もう機嫌は治り、落ち着いて伏せまでしていた。

 あんはお利巧さんである。

 
 最近あいちゃんのお母さんに会うたびに、「もう狂犬病の注射をしました?」と聞かれ、「まだなんですよ」と答えていた。

 それは二人とも夏休みの宿題を済ませていない子供のような感じであったが今日どうにかその宿題を終えることができ、一安心しているところである。

 
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穏やかな時。

2012-04-19 12:37:50 | Weblog

 昨日は天神山に行ったので、今日は多摩川に行くと、遠くにあいちゃんとあいちゃんのお母さんがいたが、あんはぜんぜんお構いなしに歩き、傍に行こうともしなかった。

 まったくどうしたことだろう・・・。

 あいちゃんとあいちゃんのお母さんのことはあんは大好きだったのに、少し心配になるが、これも仕方がないのか、いや、しかし、あんがどんな思いでいるのか、聞きたいが、もちろん話してくれる訳でもないので注意深く観察するしかない。

 あんは元気でないと言う訳ではない、夜の散歩のあとなど、自分がお風呂や晩酌の準備をしている時などは一人でボール遊びをしながら家のなかをしばらく駆けずり回っている。

 また時が経てば、あんも変わるのかもしれないと思っている。

 花火の音で何ヶ月か多摩川に行けなかったこともあったが、それも乗り越え、また多摩川で遊べるようになったし、いつかまた多摩川で楽しそうに遊べるようになるだろうと期待している、それしかない。

 休みの日にはまた矢野口の橋を渡り、稲城の方に行き、アカシアの森に行ってみよう。

 この前はそこまで行って、あんは楽しそうにしていた。

 そこで火事の第一発見者になったのだが、あれ以来、あんはあまり多摩川の散歩を楽しんでいないように思える。

 そうだ、明日は休みだから、少し足の伸ばして、アカシアの森に行ってみよう。

 一時間半か二時間コースの散歩になるが、あんの笑顔を見れるのなら、それは幸いである。

 今日もグランドでまた座り込みを決めたあんの隣に座り、昨日よりも一段と咲き微笑んだタンポポを眺めていた。

 それはそれでとても穏やかな時であった。

 
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森林浴。

2012-04-18 12:43:38 | Weblog

 最近はあんは多摩川に行っても遊ばない、あんが大好きなあいちゃんのお母さんに会っても喜んで飛びついていかなかったりするときもある。

 多摩川が怖いのか、何のか・・・、かと言って帰りたい訳でもなく、座り込みを決めるのである。

 おへそが曲がっているのか、そう言うお年頃なのか、良く分からない。

 座り込みを決めるあんの隣でとりあえず自分はストレッチをしてから腕立てなどをする、そして、大空を抱きしめるように大の字になって笑う。

 いまはタンポポがグランドのあちらこちらに咲き微笑んでいる。

 背丈を高くする必要のないここのタンポポは地面からそのまま咲いている、それは欲張りではない謙虚さを持って太陽の光りを頂いているようで、これは微笑ましい。

 あんのために今日は天神山、三沢川の方へ散歩に行った。

 休日でもない限り、この天神山には登らないことにしているが、今日はあんの誘いを断れずに、仕事前に疲れるだろうことは覚悟のもとに登った。

 だが、登ったことに意味があった。

 それは必然であった。

 と言うのは、新緑があまりにも美しかった。

 あんがそこらへんを忙しくクンクンしている間、ずっとうっとりしながら周りを見回していた。

 物凄い生命力のなかに立っている自分に気づく、この喜びを感じれるだけ感じようと、あえて瞳を閉じて、身体をこの生命力に委ねるようにして微笑んだ。

 呼吸が気持ちよい。

 命が喜んでいる。

 素晴らしい瞬間のなかにいることを感じなおし、すべてに「ありがとう」と伝えた。

 この時をあなたも生きていて、微笑みかけられている。

 
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ジョンにも。

2012-04-17 12:50:50 | Weblog

 昨日ジョンにも自分が洗礼をマザーハウスで受けたがっていると言うことをメールした。

 ちょうど時間も良かったのか、すぐに返信が来た。

 Greetings Tetsuji,

 Praise the Lord. I hope I am there to see the day.
 I would love to be the Priest who Baptises you!

 That would be a great honour for me.

 Hope your life is good. ・・・・

 ママ{ジョアン}に知らせた時と同じように、想像していたような返信が帰って来た。

 だが、きっと自分の想像以上にジョンもママも喜んでくれているように思う。

 昨年ジョンに会った時に、彼はいつか自分に洗礼を与えたいと話していた。

 だが、それ以上押し付けるようなことは何も言わず、それまでの自分の思いとありのままの自分を大切してくれていた。

 もしも、この自分の夢が叶うとき、各国から友達がカルカッタに集まってくれるかもしれない。

 嬉しく思う。

 この嬉しく思う以上に愛に満たされた思いになるだろう。

 いつになるか分からぬ、叶うか分からぬ、この夢にまつわる思いは、自分のうちに愛と感謝を湧き出させていく。

 20年前、初めてマザーと会ったとき、彼女のことも知らぬ、キリスト教もカトリックも何も知らなかった者が彼女を通して神さまに導かれたようである。

 これからも神さまが導いてくれるだろう。

 ジョンは自分のことをBlood brotherと言い、Tetsuji{このji}とは・・様という意味である、自分たちはJohnji,Tetsujiと呼び合っていた。

 数々あまりにも美しい想い出が今色鮮やかに自分を包み込んでいる。

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