「沈黙」の話であるが、やはりキチジローはユダだった。
銀300枚で司祭を売った。
どきどきしながら、司祭の気持ちになり、長崎の山中はすでに素晴らしく描かれているがまた以上に想像しようと好奇心を高め、その場の緊張感と同一化しながら小説を読んでいた。
汚く、弱き、裏切り、救いようのないキチジローを司祭はこれからどう許すのか、それはイエスがユダに「汝のなすことをなせ」と言い放った意味、その心境、司祭が今までどうしても分からなかったことをどう解釈していくのかが楽しみでならない。
それと同時にもしこの「沈黙」が映画であったのなら、誰の配役で、どんな映像で撮影されるのかまでも想像して、小説にのめり込んでいた。
と言うのは先週カマラーゾフの兄弟の映画を1部2部3部と見たからであろう。
初めて見るはずのカマラーゾフの兄弟の映画ではあったが、それが以前見たことがあったかのように思えたからである。
配役が自分の想像とほんとうに一致していた。
もちろん、実際の小説の方が素晴らしいのであることは確かだが、映像でそれを補いつつ、また役者の力量にも魅了された。
特にスメルジャコフは良かった。
動物虐待していたなどの詳細は描かれていなかったが、彼が不気味さ、不愉快なインテリさ、てんかんを発病してからの縁起などには目に見張るものがあった。
そこでもし「沈黙」のキチジローはどんな役者がやるのかを想像するとまた深く遠藤氏の意図するところに手足を縛られていくように捕まってしまった。
良い小説は後半になると、もう終わってしまうのかと言う惜しさと寂しさにも似た感情が生まれてくるが、あと少しまたじっくりと読んでみたいと思う。
長崎に思いを馳せ。
いつか行って見たい長崎になった、まず家の近所にある好きなリンガーハットの長崎ちゃんぽんを食べてみよう。