飼いならされるとはどういう意味であろうか。
誰かの思う通りとか、その逆、自分の意思がない状態を示すものであろう。
そして飼いならされた「癒し」とは、ある意味、とてもショッキングな言葉のように思う。
それが流行っていると言う河合氏の言葉が胸に突き刺さった。
さて、私はどういった「癒し」を求めているのか、内省して見た。
山谷からの帰りと言うこともあったのだろう。
私には、このボランティアが「癒し」となっているのだと思った。
それは飼いならされた「癒し」ではないとも思った。
ここではっきりと言っておくが、河合氏は温泉とか良い音楽とか、森林浴とかが「癒し」にならないとは言っていないのである。
ただ気を付けなければレベルの浅いものになってしまう可能性があると言っているのである。
私はこのことを考えてみる価値があると思った。
そして、私は私の飼いならされない「癒し」について、思いを寄せた。
河合氏の言う、ほんとうの「癒し」とは命との関わりが必要となるのではないか。
その「癒し」とは復活、または生まれ変わりに繋がっていくのではないだろうか。
それに触れられるか、どうか分からないが、そこに向かいつつも、その周りをまわっているのが私の飼いならされない「癒し」、マザーテレサのボランティアではないだろうか。
なぜなら、私はいつも与えられているのである、これを「癒し」と言わず、何と言おう。
あなたの「癒し」はどうだろうか。
そのレベルをあなたが測ってみてはどうだろうか。