カルカッタより愛を込めて・・・。

次のアピア40のライブは9月13日(金)です。また生配信があるので良かったら見てください。

昨日は楽しかった。

2008-08-30 10:47:48 | Weblog

 たくさんマザーの話しをした。山谷の話しもした。自分の内側にあるものを語った。そうしたことで、また何かが静かに納まっていくような感覚も生まれてくる。今までのことを改めて肯定していく姿勢と心をあたためていける。

 これもマザーからのご褒美のように思えた。

 もしかすれば、ご褒美ではなく、宿題となり得るものかもしれないとも思った。

 マザーは今でも自分に問い続けているようにも思える。

 自分はその問いにどう答えていくのか?

 分からない。分からないことは分からないこと、そのままあたためていくことをしたい。

 今日はゆっくりと昨日堂園先生にもらった「風に立つライオン」のニュースレターを読もうと思っている。

 秋の気配は読み物を近くするのかもしれない。
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ライオンさん。

2008-08-29 15:35:19 | Weblog

 昨夜はほんとうに激しい雨とカミナリだった。
 ミサイルでも落ちてくるような感じの激しい音がしていた。

 朝にはヘリコプターが何機が飛んでいる音がした。

 多摩川にいるホームレスが流されてしまったと思った。

 こうした豪雨により多摩川が氾濫すると川で生活をしている彼らは流されてしまうことがある。

 山谷のような町には住めない人が川にはいる。
 昨日のような雨が降れば、「どうにでもなれ」と思うのか?その場を離れずにいたりしてしまう。

 助かれば、何かがそこで変わるのも事実だろう。人との接点が生まれる。何かしらの支援を受けられることもあるだろう。

 激しい雨の何かのためになれば、そう願う。

 命を大切にしてほしいと願う。

 今日はカルカッタで会ったNPO法人「風に立つライオン」の同窓会にお呼ばれをしたので、これから行って来る。

 「風に立つライオン」は心ある医者を育てるのを基本理念している団体である。

 いろいろとお話しを聞いてこようと思っている。声をかけて頂いて嬉しく思っている。
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晴れ間。

2008-08-27 11:44:06 | Weblog

 久しぶりに青空を見た。
 ほっと一息付いた。やっぱりあるんだなって思ったり、陽の日差しを浴びている木々、花、土もほっとしているような感じにも見える。

 風も穏やかに流れていく、少し丸みをおびたあたたかさのなかを流れていく。その風も丸みをおびたあたたかさを作り出している。それは自分の内側にも流れていく。

 今日はマザーの誕生日。26日ということも聞かれるが、6より7が好きなので、今日、祝ってみる。

 彼女のこの世に生まれてきたおかげで、自分は今も喜んでいる。彼女からの学びは古くならず、常に新しく前を向き続けている。

 彼女から受けた恩恵をまた誰かに受け継いでもらえるように自分たちはあれれば良いだろう。

 マザーの短い言葉を今日は載せてみる。これは一人ひとりに問われているものとして、その人のなかに答えはあり続ける。

 「自分自身を知ると、ひざまずきたいような気持ちになります。そして、それは愛するためにまさに必要なことなのです。神を知ることはあなたに愛を与え、自分を知ることは謙虚さを与えます。」

 成長していくことも自分の意志によって育まれる。それには傷付くことも必要であろう。自分自身に向き合うことなし、他者と向き合うことが可能であろうか。一人ひとりが気付いていくことが何よりであろう。

 誰もが変わっていける。その意味ある意志を大切に感じることから。
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雨。

2008-08-26 12:46:44 | Weblog

 雨がよく降っている。
 空が晴れるのをぼんやり待っている。

 それにしても、こうした雨の日はよく寝れる。部屋で本を読んでは、また眠るようなことがしたくもなる。

 いつかこの雨も止み、青空が見えるだろう。雨のうちからその青空を想像して楽しむことをしてみる。きっと苦しむも同じようにあれればと思う。だが、苦しみのなかにいるとき、それが晴れることを想像し元気になっていくことは簡単ではない。しかし、何ごとも永遠に続くことはないだろう。ほっと一息して、何かが柔らかくなるときもある。

 どんな状況のなかですら、新しいものは生まれていく。

 苦しみのなかですら、何かは内側から生まれてくる。

 生きていく生命力は弱いものではない。必ず治癒していく。

 何を信じるかは人それぞれ違うが、自分のそうしたものを信じてみても良いのではないかと思う。

 雨はいつか止む。
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雨の山谷。

2008-08-25 01:12:05 | Weblog

 土曜は小雨が降っていた。
 雨が降るとおじさんたちは川原の上、高速道路下、雨のあたらない場所で並んでいる。

 列の後ろから自転車の速度を落として、彼らに声をかける。そして、前まで行ってから、自転車を置き、今度は前からまた挨拶をする。彼らの顔を良く見るためにそうしている。

 先週は休みだった。二週間ぶりに彼らにあった。

 「病気になったらイチコロ」と言っていた86のおじぃーちゃんは頭を虎刈りに丸めていた。足腰はまだまだ大丈夫みたいだった。小さくて愛らしい顔が見れた。

 近くにいた「夜眠れない」と言っていたスキンヘッドの彼に「あのおじぃーちゃん、86になるんだよ」と言ったら、彼もそのおじぃーちゃんの小さく愛らしい姿に微笑んでいた。

 栄養状態の悪い40代の彼はちゃんと来てくれていた。
 「よく来てくれたね」声をかけると恥ずかしそうに笑っていた。
 彼は前と同じ場所にダンボール敷いてカレーを食べていた。誰かからビンに入った細い竹の子を貰っていた。持ち物はそれと雑誌二冊だけだった。
 二週間前よりも少し表情が緩んだ感じで会話をした。だんだんと心が近くなるようになればと思っている。想像も付かない今まで彼にはあったのだろう。土足でその場に上がるようなことをしないように気を付けていくことを心していた。

 片目で一本の歯のおじさんは元気が良かった。オリンピックの三位決定戦をラジオで聞いていた。意気揚々と日本を応援していた。

 ナンクルナイサーおじさんにはやはり会えなかった。

 よし子ちゃんにも会えなかった。

 ここに来る一人ひとりにはそれぞれの痛み苦しみがある。一つひとつを大切に丁寧に向き合って行きたいと心掛ける。しかし、いつも邪魔がするのが分かったつもりでいる自分だろう。彼らと向き合うためにはそうした自分を捨てて、向こうから見える風景をも感じながら接することが良いだろう。

 聖心の高校生は二人ボランティアに来ていた。
 笑顔がなくカレーを渡していた。
 「良いですか、笑顔で配りなさい」そう言うとやっと自分がどうした顔でいることに気付いた様子で笑顔でカレーを渡し始めた。
 なかなか自分というものは分からないものだろう。そうしていた自分の小さなことに気付いていくことが良いだろう。そして、それを次に繋げるようにあればなお更良い。

 ここで彼らと信頼関係を作るのに何が必要かと思えば、それは日々の積み重ねしかないように思う。
 向こうが一瞬自分の顔を見ようと思ったその瞬間、自分が何かでその人に背中を見せてしまったら、背中でもその人を傷付けることも有り得てしまう。その人はその挨拶に一週間待っていてくれたかもしれない。十分にそうしたことに気を付ける。
 どう歩けばいい、どう顔を見ればいい、どう肩に触れたらいい、心を落ち着かせて思い描けるだけ描き、彼らの前に立つ。いつか背中でもあたたかな思いを与えれられるようになればと思う。夢のような話かも知れない。けど、そうしたことも思い描いている。

 今日一日で信頼関係を持てなければ、それは当たり前。一年後何かは変わっていくだろう。自分の態度・姿勢でその関係を作っていこうと心掛けてきた。何も出来ないかもしれない。しかし、せめて、そうさせてもらう。それが願い。
 
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ジュリアンとの想い出。

2008-08-23 17:01:23 | Weblog

 以前、ジュリアンのとのことを書いた文章を載せます。

 この「ビリーダース」はもう2001年の話しです。プレムダンが立て直していた頃のことです。

 患者は50~60人ぐらいに減らされ、以前、鶏小屋だったところや物置小屋のようにしようしていた場所をきれいにして患者たちは生活していた。

 このダースという苗字は仕えるものを意味する名であり、カーストでは低いカーストにあたる。
 例えば、MCブラザーの前の総長の名はイエスダースであり、イエスに仕えるものとして意味がある。

 この文章を久しぶりに読んでみた。あの時のことが目に映るように蘇えってきた。そのジュリアンの姿勢・態度は一生忘れることは出来ない。もちろん、このビリーダースのこともそうである。

 HPにも載っているものですが、ジュリアンのことを想い、良かったら読んで見てください。

 「ビリーダース」
 
 彼は死を知っていたのだろうか・・・?彼は生きる事を知っていたのだろうか・・・?
 彼はダムダムの路上から、シスター達によってプレンダンに運ばれた。痩せ細り、黒く炭のような身体、12才ぐらいの彼の体重は20キロぐらいしかなかった。
 路上の生活で、彼には、親、兄弟、友達はいなかった。今まで誰一人、彼に愛を注ぎ込む人はいなかった。その生活がどれほど荒んだものだったのか?ある程度は想像が付くが、しかし、彼は私の想像をはるかに超えた苦しみと孤独を味わって来たのだろう。彼は愛を受け入れる事さえ出来なくなっていた。私達のケアを拒み、怒り、時には泣き叫びながら、プレンダンで生活していた。
 
 他の患者達も彼の事を本当に気にかけていた。ある患者が私に「ブラザー、あの子供は本当に元気がないのに、向こうの方を歩いているよ。見に行ってくれ」と言い、私がその患者の後を着いて行くと、彼は立っているのがやっとの様子だった。それは普通に座る事が出来ないがために立っている様だった。私はすぐに彼を抱きかかえ、ベットまで運んだ。そんな事が何回か繰り返された。
 
 彼はプレンダンに来てから、食事という食事は取らなかった。高熱が出た時も薬を飲む事も拒み、点滴も自ら外してしまう。キャンディーやチョコレートさえ食べる事を嫌がった。暴れ反抗する力だけが彼の命を支えてるいるように見えた。彼が唯一欲しがる物はビリー「インドの安いタバコ」だけだった。そんな彼を私達、ボランティアはビリーダース「ダースとは、インドに良くある名字」と呼んでいた。
 
 彼は時折、彼の傍に座り、ケアをする私達の手を払っては「母さんはどこ、母さんはどこ」泣きながら叫んでいた。
 助ける手立てがなかった。見つからなかった。「どうして、何がお前をこんな風にしてしまったのか?何がそんなに怖いのか?何がそんなにさびしいのか?なぜ、そんなにも心を開いてくれないのか?心はもう開いてくれなくてもいい、それでも、お願いだから生きてくれ。生きる事を知ってくれ」 祈る思いで私達は彼の傍にいたが、しかし、彼には反抗する力さへ無くなって行った・・・。
 私が無理に与えたキットカットを最後に、彼は何も口にする事は無かった。その次の日、彼はもう喋る事も出来ず、ベットから起き上がる事すら出来ず、点滴すら、自ら外すことが出来なくなるほど弱っていた。
 それを目にした私はこう思った・・・。「もう泣いたって、わめいたっていい、自分を罵っても何でもいい。お願いだから、生きる力を見せて欲しい・・・」しかし、手遅れだった・・・。すべての願いは悲しみに溺れた空しさに変わって行った・・・。
 
 次の日、彼の心臓は点滴がもたらした栄養だけで動いていたが、しかし、誰もが分かっていた。彼の死を・・・。
 午前の仕事が終わり、多くのボランティアは帰って行った。プレンダンは基本的に午後の仕事はボランティアを受け入れていません。しかし、長期のボランティアは働く事が出来た。
 私はどうしても、その場を離れる事が出来なかった。スペイン人のジュリアン、イタリア人のロレンツォも同じだった。私達は彼のベットの回りに集まり、彼の身体に触れながら思いの限り祈り、見守っていた。
 
 午後1時半を過ぎた頃、私は二人に食事を取るようにいうと、誰もが「先に行っていいよ」と言い合った。私達は誰もが同じようにお互いの事を思い合っていた。
 私が「先にいくよ」といい、私はその場を離れ、食事をしに行った。しばらくすると、ロレンツォがタバコを吸いに来た。私達はこれといって話すことは無かった。話すことが出来なかった。空しさとやるせなさで私達の心は一杯だったから、二人の間には言葉が見つからなかった。ただ、タバコの煙だけをじっと見つめていたような気がした。
 
 私が先にビリーダースのもとに戻ると、そこには美しい光景があった。
 ジュリアンは彼の小さな手を握ったまま、隣にある患者のベットで寝ていたのです。息苦しいような憤りを感じていた私に、その彼らの姿は、私に再び、愛を吹き込んでくれた。彼の愛情深さが部屋中に広がっているようだった。
 身体は疲れているのに・・・、自分の体を犠牲にして・・・、こんなにも愛されているのに・・・、彼は死んで行くのか・・・?
 私は空に向かって問い掛けた。「こんな事ってあるの?」ため息のような空しさだけが空ににじんでいった。それでも、その時、私はこう思った・・・。彼の最後の命を見てあげよう、最後まで彼の命を見てあげよう、この世に生まれたかけがいのない彼の命を見てあげよう、一瞬たりとも見逃さないように見てあげよう、私の心に傷をつけるぐらいに・・・。
 
 午後2時半過ぎた頃、私達と同じように彼を愛するフランス人、ボランティアのヴィンセントが来た。
 私がヴィンセントに彼の様態を話していると、ジュリアンも目が覚め、ロレンソォも戻ってきた。
 私達は肩を組み合い、彼の死に行く姿に無言で慰め会った・・・。
 私がこの世の中で一番嫌いなのが子供の死です。未来を奪われた子供の死です。どうするする事も出来ない無力感、絶望感で足が震えた。 午後3時半、私達が見守る中、彼は最後に苦しい息をして、彼の心臓は止まった。彼は天に召された・・・。
 
 ジュリアンは大きな声で「TaTa Bondu」と何度も言った。TaTa Bonduとは「さようなら、友達」という意味。
 私達は泣いた・・・、肩をゆすりながら泣いた。彼の苦しみも終わった。祈る事だけが私達の救い、願いだった。
 私は午後働いているノビスを集め、他の患者達に彼の死を告げ、私達は彼の痩せ細った体に「TaTa Bondu」と声をかけながら、ゆっくりと綺麗にし、白の布で包み、彼に最後の祈りを捧げた・・・。
 
 十日前にプレンダンに来て、彼は私達に想像も付かない壮絶な行き様を見してくれた。彼は亡くなる患者では無かった。彼は生きぬくべき子供であった。彼は死を知らなかったのか?彼は生きる事を知らなかったのか?心に強く残る子供だった・・・。
 「ビリーダース、あなたは何を私達に示していたのですか・・・?」
 「私には今は分かりません。でも、あなたは私の心にあります。しっかりとあります。私の中で生きています・・・」

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ジュリアンは。

2008-08-22 12:33:56 | Weblog

 ジュリアンはとても謙虚な人であった。
 表に出て行くようなタイプでも、誰かに仕事を指図するようなタイプでも、思い通りにいかないと怒りを表すタイプでも、不平等な命のあり方に目にしても、自分を見失うようなタイプでもなかった。 

 彼のなかにも怒りや苦しみ、嘆き、孤独もあっただろう。しかし、彼はいつも周りをあたたかいものにしてきた。

 彼はプレムダンを一つの大きな家族にしていた。

 彼は人間としてのあたたかさを誰にでも与えた人だった。
 路上から運ばれてきたばかりの患者が彼の明るくあたたかい笑顔と雰囲気の前に苦しみの顔から優しく愛がにじみ出てきたように微笑んでいく顔を自分は何度も見て来た。それはまるで魔法みたいだった。

 もう何年もボランティアをしているのに洗濯物をしたり、食べ終わった食器を洗ったりしていた。そして、何よりのその周りを明るくしていた。

 一人の日本人の女の子がプレムダンに結核の患者をサダルストリートから連れてきたことがあった。
 彼女はそれ以上に苦しむ路上の人も目にしてきた。それゆえ、自分がしたことが果たして、いいことなのか、ほんとうは施設に良くないことなのか、シスターに怒られ断られるのか、そして、その患者にも悪いことをしてしまうのではないか、数々の問いが彼女を責め立てていた。
 しかし、ジュリアンはその彼女にただ「ありがとう、よく連れて来てくれた」と感謝を述べた。
 ジュリアンは彼女の想像を超えて接してくれた。ジュリアンは彼女の悩む姿を見て、そう話しかけたように思えた。その思いやり、愛情深い思いやりはほんとうに素晴らしい。彼女もほんとうに安堵し、彼の愛情を知った。

 カルカッタに二年間いた岸君{ACE}とも、ジュリアンの話しを良くした。岸君はジュリアンは完成されたボランティアの形を持っていたと素晴らしさを語り、彼の死を惜しんでいた。

 神父のジョンはジュリアンを彼はイエスだったと彼の死を惜しんでいた。

 言われた自分はただ胸が熱くなり、涙がこぼれそうになった。

 彼を知る誰もが彼の愛情深さを知っている。ほんとうに神さまのような人だった。そして、神さまになった。

 ジュリアンは結核になっても、肝炎になっても、その治療のためスペインに帰っても、また愛情深めて戻ってきた。
 病気になり、以前とは心が変わってしまい、うまく患者たちと付き合えなくなるボランティアも良く見てきたが、彼は病気により愛情深めていける人であった。自分が痛み苦しむことで、そこからの復活をしてきたのだろう。それはイエスのようにだろうか。

 きっとそうだろう。これかも、それは分かっていくだろう。

 いつでも自分がカルカッタに帰ってマザーハウスに行き、ジュリアンに会うと、自分は彼に抱きついた。
 彼は思いっきり抱きしめてくれた。背の高いジュリアンに抱きしめられると自分の足は地を離れてた。そんなハグを自分にしてくれるのは世界中のなかでジュリアンただ一人だった。

 自分は彼を生涯忘れない。記憶というものがどれだけ有り難いものであるかを今も学び続けている。

 今も彼を敬愛している。
 
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ジュリアン。

2008-08-21 12:15:08 | Weblog

 今日はジュリアンの命日。

 二年前の今日は彼はスペインで列車事故で亡くなった。エチオピアのMCで働いてたホセも一緒だった。

 この事故で亡くなったのは六人。事故から生還したボランティアもその後カルカッタに着たが、かなり精神的に良くない状況であったらしい。

 この悲しみが癒えていくことを切に祈る。

 今でもジュリアンとの思い出は輝いている。
 彼の笑い声もその笑顔もはっきりと覚えている。感謝の想いで今もあり続けている。

 一緒にインドの地震の被災地グジャラートに行っていた日は毎晩、お酒のことを語り合った。ジュリアンとの会話をいつもベンガル語だった。それで十分心を通わせることが出来ていた。

 「Tetsu、帰ったらビール何本飲む?一本、二本、三本?」
 「五本飲もう!」
 「そうか、五本か!飲もう!飲みたい!」大声で彼は笑った。

 朝から晩まで日中のかなりハードな仕事を終えた夜、焚き火を囲みながらモーフで身を包み、語り合った夜のこと、きっと生涯忘れることはないだろう。空には満点の星空がいつも自分たちを見つめていた。

 ジュリアン、愛している。今日はあなたのことを想い、静かに笑っているよ。
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どうしてインドですか?その2。

2008-08-20 12:24:23 | Weblog

 インドには多くの神々が住む。
 それが目に見えるような錯覚すら覚えるほど、インド人の生活のなかに普通にある。
 
 大都市のカルカッタでも彼らは神さまと一緒に暮らしている。

 目には見えない神さまを信じ祈る姿は日本の普段の生活のなかにはあまりないだろう。しかし、人間が本来持ちえるものとして、自分のなかでは、それを長い間欲していたのかも知れない。

 安易に神さまの名を使うことは自分の好きでないところでもある。それは以前「逃げの祈り」でも書いたように、ほんとうは相手が何かして欲しい、ただ話を聞いて欲しいという場合に、それを反射的に面倒だと思い、逃げるようにして、言い訳にして、あなたのために祈るとか、神さまの名を使い、その人のほんとうの望みに蓋をしてしまい、無下に扱ってしまうことをしないようにしてきた。

 それはマザーのいう最良のものを与えていない証拠でもあろう。しかし、もちろん、自分に出来ることと出来ないことの見極めはした方がいいだろう。無理をして何かしても、いつかお互いを破壊してしまうことにもなり得てしまう。

 マザーが言うように貧しい人のなかに神さまがいる。
 そのことを長い年月をかけながら、ようやく分かってきたように思える。

 国の病院の訪問をしているときに何度も彼らのなかに神さまを見た。

 全身やけどの患者から「あなたは元気でいますか?また明日会いましょう」などと言われた。真っ黒になった顔には涙のラインが付いていた。
 彼はその次の日に亡くなった。
 どうしてそんな状態で、激しい苦しみになか、死に行くなか、他人を思いやることが出来るのだろうか?
 遥かに自分の想像を超えた人間がそこにいた。それはきっと神さまだったのだと思えてしょうがない。

 こうした出会いを何度もしてきた。それゆえ、その人のなかの神さまを見詰めて大切にしながら仕事をしてきた。

 マザーの言っていることを頭と心、そして、肌でも理解し、尊敬できるようになったのは、やはり長い年月がかかったかもしれない。その事実、真実はいつも自分の心を奮わせてきた。

 そして、自分の内なる神がいつも自分を手助け、見守っていたのだと思える。自分が一人そこで働いていたわけではない。見えない何かを感じて、この身体を動かしてきたのは確かなことかもしれない。

 自分たち、一人ひとりがインドに行く理由、マザーのところへ行く理由は違うだろう。その答えは一つではない。意識できないものもたくさんあるだろう。そして、分かっている答えも常に変わっていくだろう。しかし、そうした自分のなかにあるものを大切に見詰めていくことはとてもいい、丁寧にあたため続けてあげることが何よりだと思う。

 うまく言葉にならない想いもあろう。それもすべてあなた自身の想いであると言えるだろう。他人にうまく説明出来なくても構わない。うまく理解してもらえなくても構わない。他人と違っていい。またいつか分かってもらえるかもしれない。

 あなたはありのままであなたの心を大切に見詰めていけばいい。
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どうしてインドですか?

2008-08-19 12:56:02 | Weblog

 「どうしてインドですか?って、Tetsuさん、よく聞かれませんか?」こう聞かれた。

 最近はこうしたことをあまり聞かれなくなっていた。それは会う相手が自分のことをよく知っていたり、相手の想像を超えて自分がインドのことを、それを聞く前に話すからなのか、どうかはよく分からない。確かに以前はこの質問をよくされた。

 この問いの自分は答えは常に変わってきたと思う。今ではこの質問はどうして生きているのですか?とあまり変わらなくも成ってきていると思う。それも、またあまりしっくりは来ないものだが、それに近いことは確かかも知れない。

 自分はもともとカルカッタに行くまでマザーを知らなかった。銅像でも立っているのかぐらいにしか思っていなかった。まったくもって何も彼女のことを知らないでいた。
 そのときの自分から、今の自分を見れば何を思うだろう。きっと想像も付かない。ここまで続くとも考えることなどしないだろう。それは今の自分から見れば、反対に面白いことである。そして、またこの先、何があるのかが楽しみになっていくるものだ。

 最初に行った93年のことがあまりにも自分のなかで大きな変化の始まりにもなっていたと思う。そのとき、生まれて初めてボランティアをした。
 今でも外見だけを見れば、自分がそうしたことをしているとは初対面の人はそうは感じないだろう。

 初めて行ったときの感動は今でも忘れない。細かく書くことを今はしないが、生まれてきて良かったと、そして、今までのすべて感謝したことを強く覚えている。それは今までのすべてがあったからこそ、その場に立ち、その場を見れ、手に触れ、心を奮わせた日々がそう自分に思わさせた。

 外国人と仲良く出来るなんて、それ以前の生活から到底想像も付かなかったが、言葉を超え、肌の色、文化、物の価値観や、そのもろもろの違いを超えたところで、人間として心を通わせることが出来ることを知ったのは、自分にとても大きなことだった。

 そして、だんだんと分かってきたことは、自分は何者であるかという問いに行き着いてきたように思う。
 もちろん、その答えは一生分かりきるものでもないことを知っている。しかし、その問いはずっと自分を待っていたようにも感じる。自分を知るという何ごとにも勝る学びを相手を通してさせてもらってきたことに深く感謝している。

 「どうしてインド」と言うよりも自分はマザーと出合ったことに、その意味を見出してきた。マザーと出会ってから、自分はほんとうにかけがえのない出会いをさせてもらってきた。カルカッタは世界の中で一番有名かつ世界中からボランティアが集まる場所である。それゆえに素晴らしい者にも会えれば、激しい苦しみを持っている者にも会ってきた。

 こうした現実も時を重ねていくことでゆっくりと受け容れられるようになってきた。長く続けてきたことで柔軟な思いを傷付きながら育ててきたように思う。

 {つづく}
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