カルカッタより愛を込めて・・・。

次のアピア40のライブは9月13日(金)です。また生配信があるので良かったら見てください。

不完全なるもの。

2022-04-27 12:47:46 | Weblog

 白髭橋のカレーの炊き出しの日、酔っぱらったJさんが何か怒っているようなので声を掛けた。

 「何かあったの?」

 「ボランティアに酷いこと言われた」と行き成り怒号が返ってきた。

 「誰に何を言われたの?」

 「もう良い」とJさんは今度は怒りの矛先を私に向けてきた。

 私はその怒りを瞬時に買い、私も怒りの状態で返してしまった。

 「もう良いって何がもう良いの?」

 私はJさんが小さく弱いことを知っていて、自分が負けないことを知っていて、上から、その言葉を発していた。

 「もう良いよ」とJさんは怒りのままに自転車に乗り、怒号を上げながら去ってしまった。

 私は私の醜さに吐き気がした。

 私にはほんとうに愛がないと思った。

 次の週、Jさんは私の前に「先週はごめんなさい。先週はごめんなさい」と謝った。

 謝りたいのは私だと思った。

 生意気で傲慢で善意面の私の方だと思った。

 今回の件だけではない、私には怒りに対しての防衛本能として、怒りで対応してしまう愚かさがある。

 それが嫌でしょうがないにも関わらず、反射的にそうなってしまうことがある。

 私にはフランチェスコの平和の祈りが生きていない。

 私には愛がない。

 だから、あの方に愛を乞わずにはいられない。

 祈らずにはいられない。


 神よ、
 わたしをあなたの平和の道具としてお使いください。

 憎しみのあるところに愛を、
 いさかいのあるところにゆるしを、
 分裂のあるところに一致を、
 疑惑のあるところに信仰を、
 誤っているところに真理を、
 絶望のあるところに希望を、
 闇に光を、
 悲しみのあるところに喜びをもたらすものとしてください。

 慰められるよりは慰めることを、
 理解されるよりは理解することを、
 愛されるよりは愛することを、わたしが求めますように。

 わたしたちは、与えるから受け、ゆるすからゆるされ、
 自分を捨てて死に、
 永遠のいのちをいただくのですから。

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

苦しい知らせ。

2022-04-19 12:34:40 | Weblog

 彼は私にいつも苦しい知らせを教える。

 「誰々が亡くなった・・・誰々が病院に送られた・・・誰々がやられた・・・」などである。

 先週の土曜日、白髭橋のカレーの炊き出しの場で、彼が私を見つけると、近づいてきて、こう言った。

 「荒川の四つ木橋でテントで寝ていたAさんがガスコンロ爆発させて自殺しました・・・」

 「ガスコンロを?」

 「はい」

 「ガスを焼いたのかな?それでガス爆発させて・・・」

 「そうだと思います。あの人{カレーの炊き出しに並んでいた}がAさんと親しくしていましたよ。良く知っていると思います」

 「そう、分かった。あとで聞いて見るよ」

 もちろん、私はその彼のことを知っていた。

 彼がカレーをもらった後に自殺したおじさんのことを聞いて見た。

 だが、彼が言っていることがあまり私には理解出来なかった、と言うか、初めて知ったのだが、彼はうまく言葉を発することが出来なかった。

 話しづらいのか、話し始めると、すぐにマスクを降ろし、見えた口元には歯がほとんどなく、言葉がかすんでいるように聞こえ、何を言っているのか、ほとんど分からなかったが、Aさんがガス爆発で自殺したのかを聞くと、「そう、ガスで。テントのなかで」と少し苦笑いをして答えて去っていった。

 最初の彼が、また私のところに来て、「どうでした?」と聞いてきた。

 私は分かったことだけ答えた。

 Aさんは腰も曲がり始め、足もパンパンに腫れあがり、どうにもならなくなり、死を選んだとのことだった。

 彼もAさんは病気になってからも「福祉がぜったいに受けない」と言っていたと教えてくれた。

 何とも言えない重みを胸のうちで感じた。

 どんなに傷付けば、そこまで他人を信用できなくなるのか。

 どんな過程を経て、ガス爆発させるまで行きついたのか。

 だが、私は自殺は容認出来ない。

 生きたくても生きれない人がこの世の中にはたくさんいる。

 自殺は容認出来ないが、彼がどんなに苦しんだのだろうかと胸を痛めることは出来る。

 彼のために祈ることは出来る。

 彼のために胸を痛めることが出来る。

 そして、せめてもの償いではないが、彼の苦しみを私の優しさに変えていこう。

 だが、私は要らない、私が要るのは、私を捨て、その人がその痛みをどう感じているのかを知り、そこに寄り添うことである。

 間違っても苦しみは比較してはならない。

 どんな小さな苦しみも卑下にしてはならない。

 それは私のうちにあるもの、あなたのうちにあるものもである。

 そして、私たちは私たちの苦しみに微笑みかけてあげよう。

 今日の私たちの命に微笑みかけよう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

観葉植物のシャワー。

2022-04-11 12:17:50 | Weblog

 月曜日は部屋を掃除し、観葉植物の水やりの日にしている。

 ベランダに出して、たっぷりと水を上げ、少しの間の日光浴をさせてあげる。

 今日は何故か、この観葉植物の葉に付いた埃が目に付いた。

 ティッシュペーパーを濡らし、一枚一枚、葉を拭いていたが、らちが明かないと思わずには居られなくなり、一年に一度か二度、やれば良い、シャワーを浴びせることにした。

 これで私の気分も良くなる。

 月曜日は休肝日明けなので、こうした作業が今夜の晩酌の豊かさを引き立てる。

 観葉植物の葉の埃を取り去ることは、私の心の埃を取り除くことに繋がっている。

 部屋の掃除も同じ、部屋を綺麗にすれば、心も同じく、それに同調する。

 きっと晩酌の芋焼酎の味もいつも以上に美味しくなるだろう。

 なぜなら、私は微笑んでいる。

 綺麗になった観葉植物も微笑んでいる。

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

初アジ。その2。

2022-04-06 12:23:56 | Weblog
 
 久しぶりに感じる釣り竿のしなりと手に感じる魚の引きの重さにアドレナリンが急上昇しているのが分かった。

 「サビキを変えるだけでこんなにも違うんですね」と彼に言うと、「この一年、研究したんですよ。それでこれに行きつきました」

 彼はそれから話しが止まらなかった。

 釣りユーチューバーのダメ出しなども良く語っていた。

 私は聞きに徹した。

 仕舞いには釣り竿の種類、メンテナンスや買う場所なども教えてくれた。

 そして、最後に「美味しいから食べてみてください」と言って、アジを一匹くれた。

 「ありがとうございます。いや、自分でも釣りたいな。アジが来ないかな」と私は返した。

 そして、コノシロばっかり釣り上げていた私のサビキにアジが掛かってきた。

 私は喜び、彼もすでに師らしく、喜んでくれた。

 隣の女性は帰り際に私のところに来て、「いろいろと教えてくれてありがとうございました」と笑顔で帰って行った。

 彼女は大きな海タナゴも釣り上げて、ほんとうに嬉しそうにしていた。
 
 誰も居なくなってからも、私はしばらく釣りをしていた。

 喜んで釣りをしていた。

 寒さはいつしかどこかに行き、私は汗をかいていた。

 釣りは帰り際が難しいと言うか、私にはないけど、後ろ髪を引かれる思いになる。

 もう一回なげれば、あと五分待ってれば、何かが釣れると言う妄想に常に駆られるからだ。

 そして、帰ると決めていた時間に近づいていくと、まるで時間の流れはそれまでの時間の流れではなくなり、急に早く過ぎて行くかのようにあっと言う間に帰る時間になってしまうのである。

 潔くない私がそこにいるからなのは分かっているが、いつなにが来るのかは誰にも分からないからである。

 そう、正しく、「糸」のようなものである。

 「糸」の先には大きな魚、美味しい魚が付いてくれていると、最高に嬉しいのである。

 
 上記の写真は先週の金曜日のものである。

 黒くて良く分からないかも知れないが、メバルも釣れた。

 初メバルである。

 煮つけして食べたら、とても美味しかった。

 この日、先週たくさん釣れたコノシロが一匹も釣れなくて、代わりに先週まったく釣れなかったサバが釣れた。

 今まで一日に一匹しか釣れなかったサバだが、五匹釣れた。

 やはり海釣りは面白い。

 満面の笑みになった。

 待ちに待った春が来てくれた。

 この日も帰り際にやっとアジが釣れ、一時間の延長戦を余儀なくされた。

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

初アジ。

2022-04-04 12:23:58 | Weblog

 「なぜめぐり逢うのかを私たちは何も知らない。いつめぐり逢うのかを私たちはいつも知らない」

 と言うのは有名な中島みゆきさんの「糸」の歌詞であるが、これには文句の付けようがない。

 しかし、きっと私たちはなぜかは分からないが引き合い、出会う。

 きっと私たちはそこに意味を感じる。

 その過程では解釈と理解を繰り返し、物語り、いつしか受肉し、必要性を感じるのではないだろうか。

 私はあのサビキに出会い、やっとアジに出会った。

 それは十日前のことである。

 いつもの場所、海釣りしていた。

 アタリもなく、もしかして坊主なのかと嫌な予感が頭をよぎり始めていた。

 釣り竿を出して、四時間、すでにアタリもなく、周りの釣り人も釣れていなかった。

 私の左隣に「ここ、良いですか?」と新しい釣り人が来た。

 「どうぞ」と私は挨拶代わりの返事をした。

 しばらくすると、その彼がサバを釣り上げた。

 私は近くに駆け寄り、「おお、良いですね。サバが釣れましたね」と話し掛けた。

 彼は軽く頭を下げ返事をした。

 私は右隣に一人で釣りに来ていた女性に「向こうでサバが釣れましたよ。これからこっちにも回って来ますね。頑張りましょう」と伝えた。

 彼女は諦めモードから、少し元気取り戻し、微笑んだ。

 それから、彼はサバを何匹も釣っていた。

 その度、「凄いな」と私は彼に伝えた。

 そして、彼はアジを釣り上げた。

 海釣り初心者の私は釣り上げられたアジを生れて初めて見た。

 「ここでもアジは釣れるんだ」と心のなかで大喜びした。

 そして、隣の女性にも「アジが釣れましたよ。向こうの人が」と伝えた。

 この時期、まだこの場所ではYouTubeを見ても、アジの釣果報告は一切なかったので、彼女も少し驚いていた。

 隣の彼にどんな仕掛けを使っているのか、聞いて見ると、いろいろと教えてくれた。

 彼はぶっこみサビキで釣っていた。

 使っているサビキも見せてくれた。

 私はトリックサビキをしていたが、すぐにぶっこみサビキに変えた。

 隣の女性にも彼はぶっこみサビキで釣りしていることを教えると、彼女は浮き釣りをしていたが、彼女もぶっこみに変えた。

 すると、彼女はすぐにサバを釣った。

 「良かったですね」と声を掛けると、彼女は微笑んだ。

 「自分だけ釣れていないから、さぁ、頑張ります」と伝え、守備位置に戻った。

 隣の彼が立派なコノシロを釣り上げた。

 「要りますか?」と言われ、「ありがとうございます。食べます」と言って一匹いただき、続いて二匹のコノシロをもらった。

 隣の彼に「何が悪いのかな?ぜんぜん来ないな・・・」と言うと、「私のサビキを一つあげますよ」と言ってきた。

 「いやいや、滅相もない。良いですよ」

 「どうぞ使ってみてください」

 「買いますよ」と言ったけど、小銭がなく、私は結局、彼のお言葉に甘えた。

 彼の使っているサビキに換えると、すぐに三十センチはあるコノシロが釣れた。

 そして、すぐに次のアタリも来た。

 私に春が来た。

 {つづく}

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする