この前の土曜日は山谷の炊き出しを終え、昼食後、ブラザーバルナバスにベンガル語を教えてもらった。
私はネットで購入したベンガル語の単語帳{カタカナ発音付き}を持って行った。
私はこうした発音表記には問題があると以前から思っていた。
ベンガル語ではなくても、英語でもそうだが、発音のカタカナ表記には限界がある。
もちろん、正しいものもあるが、まったくと言って違うものもあり、またバングラディッシュで使うベンガル語とコルカタで使うベンガル語にはやはり違いがあることは多くの人が想像しやすいことであろう。
だから、一つひとつの単語をバルナバスに聞きながら、その発音をしっかりと聞き、もう一度私がその発音が正しく出来るように、またどんな場合に、どのように使うかを聞きながらノートに書き込みながら勉強した。
言葉と言うものはこれくらい話せれば良いと満足するものではない、それは欲望の如く、際限がないように思てならない。
だが、辞めてしまったら、諦めてしまったら、それ以上の成長はまず望まれない、もしかしたら、一つの単語を覚えたがために誰かの笑顔を生むことも可能になる可能性が含まれている。
私は私がコルカタの路上や病院で患者たちと接している姿を浮かび上がらせ、その私に対面し、その私に教えるようにし、勉強しようと自然としていた。
だが、まだそこにある壁があり、迷いがある。
それはベンガル語の文字が読めるようになることが一番だと気付いていることである。
文字が読めるようになれば、勉強の域は必ず広がり、カタカナ表記などの問題は無くなるのである。
さて、もう少し頑張ってみようかと思いもする。
壁の向こうの私が待っているような気もする。
誰のためにそうするのか、もっと祈りの内に内省しよう。