あんがうちに来てくれた日。甥っ子も二人遊びに来ていた。
だが、五年生の兄は小さな子犬のあんを見に来なかった。
彼はまだ小さい頃に犬に追いかけられ、池に落ちて以来、犬を見ることすら嫌なようだ。
自分のように30年ぐらい経てば、それは変るものなのかどうかは定かではないがゆっくりとでいい。その傷を見詰められるようになってほしい。そして、新たなより良い学習をしてほしい。
それはきっと誰かから教えられるものでもないかもしれない。新たに感じ直すことによって、そこは成長する。その過程のいまも、その場所は癒されようとしているだろう。
自分たちの好き嫌いのなかには、その人のなりの意味を大いが含まれている。それを一つひとつ知っていくのは果てしない旅のようである。
どのように快・不快を感じ習得してきたか、分かりきろうとしたところで分かりきるものでもない。
だが、それを知り認め、受け容れていくことで、自己認識を深めていくことになり、人生が深いものになっていくように思う。
極端なものの考え方よりは柔和なものの考え方がいい。極端には無理と排他があり、柔和には愛と思いやりがある。
それを選ぶのはいつでも自分自身である。
また好き嫌いがあっていい。何でも好きというのも、これはある意味危険である。そこには確固たる自己がない。
痛みはいつか必ず癒される。分からぬ痛みであれ、癒される。
痛みは悪いものではない、成長への糧となっている。
その過程は果てしない旅のようだが、独りではない、誰が居てくれるものである。
だが、五年生の兄は小さな子犬のあんを見に来なかった。
彼はまだ小さい頃に犬に追いかけられ、池に落ちて以来、犬を見ることすら嫌なようだ。
自分のように30年ぐらい経てば、それは変るものなのかどうかは定かではないがゆっくりとでいい。その傷を見詰められるようになってほしい。そして、新たなより良い学習をしてほしい。
それはきっと誰かから教えられるものでもないかもしれない。新たに感じ直すことによって、そこは成長する。その過程のいまも、その場所は癒されようとしているだろう。
自分たちの好き嫌いのなかには、その人のなりの意味を大いが含まれている。それを一つひとつ知っていくのは果てしない旅のようである。
どのように快・不快を感じ習得してきたか、分かりきろうとしたところで分かりきるものでもない。
だが、それを知り認め、受け容れていくことで、自己認識を深めていくことになり、人生が深いものになっていくように思う。
極端なものの考え方よりは柔和なものの考え方がいい。極端には無理と排他があり、柔和には愛と思いやりがある。
それを選ぶのはいつでも自分自身である。
また好き嫌いがあっていい。何でも好きというのも、これはある意味危険である。そこには確固たる自己がない。
痛みはいつか必ず癒される。分からぬ痛みであれ、癒される。
痛みは悪いものではない、成長への糧となっている。
その過程は果てしない旅のようだが、独りではない、誰が居てくれるものである。