カルカッタより愛を込めて・・・。

次のアピア40のライブは6月でしたがお休みします。

バーニーのこと。

2017-01-24 19:07:08 | Weblog

一緒に働いているアイリッシュのバーニーはほんとうに凄い、ほんとうに素晴らしい、もうすぐアイルランドに帰るので、あと数日しか一緒に働けないが、今回も一緒に働けて、私はほんとうに幸せである。
バーニーの素晴らしさは書き切る事など決して出来ないが、いま時間があるので少し書こうと思う。
バーニーは今日もソヌーの仕事を探していた。
シアルダーの病院の傍に住むソヌーとは11歳の男の子、私もソヌーがほんとうに小さい頃から知っている。
バーニーは彼を学校に行かせるために仕事をさせ、その給与で学費を払うようにしようとしている。
そこまで他人の人生を背負う大きな愛がバーニーにある。
もちろん、ソヌーの家族のケアもしている。
何年か前はソヌーの姉の仕事も探し、その面接の前にはシラミ除去のシャンプーまでも用意してあげたり、ソヌーの母親の調子が悪ければ、病院や薬のことも手助けする。
もちろん失敗や騙されたりもするが、それでも決して見捨てたりはしない。
今日は国の病院にいる2人の男性患者を退院させ、他の場所に移そうとした。
2人とも歩くことが出来ない。
1人は15歳ぐらいのハンディキャップの話すことも出来ない男の子である。
もちろん家族は居ない、毎日朝、駅に行く前にボランティアが彼の服を着替えさせ、食べ物をあげている。
誰もケアをしてくれないので朝行くと糞尿まみれでびしょびしょになり寝ている。
今日は2人を退院させようとしたが許可がおりなかった。
インドを知らない人は何故と思うだろうが、ここでは多々あることである。
今日バーニーはかなり失望しただろうが、今夜2人のために祈っているだろう。

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昨日のこと。

2017-01-24 15:18:32 | Weblog

今日はシリアスな患者をプレンダンに私一人で運んだ。
メリーは病気でここのところ、駅の仕事を休み、他のみんなは駅を回り終えたあと、病院から患者を退院させるなどのそれぞれの仕事に向かっていた。
シリアスな患者とは、簡単に言えば、もう亡くなりそうな虫の息の患者のことである。
患者は70くらいの男性、昨日、私が会った時には座ることも出来、あげた食べ物も食べることが出来た。
たが、気になって、昨日は二度会いに行った。
二度目にチャイと水をあげ、二個目のゆで玉子もあげた。
彼はパンをチャイに付けて、しっかりと食べられたので、その日はプレンダンに運ばずに、近いうちに運ぶことをみんなで決めた。
しかし今日は昨日とは全く違い、目は目ヤニで開かず、仰向けになり、手足をひっきりなしに動かしていた。
昨日は身体を覆っていたショールは彼から離れたところにあり、ルンギはめくり上がり、下半身を露わにし、服も尿で汚れていた。
私が彼に話し掛けていると、彼を心配した綺麗なサリーを着たお金持ちであろう女性が話し掛けて来た。
私がこの患者をマザーテレサの施設にこれから運ぶと言うと、そうしてくださいと言い、彼にも心配しないで良いからと少し離れたところからだが話し掛けてくれた。
アイミイが車イスを持って来た、ブレーキなどない駅の車イスなので、その女性に車イスを押さえておいて欲しいと頼むと、すぐに手を貸しめくれた。
タクシーに乗せるまで、アイミイには手伝ってもらい、私と患者はタクシーに乗り、プレンダンに向かった。
しかし今日はインドの何かの休日でちょうどパレードがあり、車は激しく渋滞していた。
タクシー運転手は全く動かないところでも、周りのタクシーに向かって、道を譲ってくれ、患者が死にそうなんだと怒鳴っていてくれた。
車が空いていれば十五分で着くのだが、五十分ぐらい掛かってしまった、その間、患者の息が止まるのでないかと何度も思い祈り続け、そして心の中で謝り続けた。
私が昨日のうちに運ぶことを決めていれば、こんなにも苦し
まないで済んだのに、私があなたを苦しませた、あなたのことが気になっていたのに、私が迷ったばかりに、あなたは瞳も開けられず、暗黒の苦しみの中へ送り込んでしまった。
私をどうか許して欲しい…、彼の肩をしっかりと支えながら、汚れきった彼の顔を見つめ続けた。
プレンダンにどうにか息絶える前に着いた。
近くにいたボランティアに彼をタクシーから下ろすのを手伝ってもらった。
彼は担架に載せられ、そのまま点滴がされた。
シスターやワーカーたちも大切に彼をケアしてくれた。
もう誰もボランティアは居なくなり、私は一人で帰った。
帰り道、私は足元から数歩前しか見ることが出来なかった。
そう身体が固まったようになり、上を向く力もなく、重い十字架を背負って歩いているようだった。
しかし背負っているものが十字架だと、感じていくと、あの方が私と一緒になり、背負ってくれているような気がして来た。
気が付くと祈りの中にいた。

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