カルカッタより愛を込めて・・・。

次のアピア40のライブは9月13日(金)です。また生配信があるので良かったら見てください。

山谷に25年。

2019-06-27 11:43:03 | Weblog

 気が付けば、山谷にボランティアに行くようになってから25年以上になっていた。

 この25年で山谷はかなり変わった。

 もう昼間から酔っぱらって暴れるおじさんも居なくなった。

 以前MC{マザーテレサの修道会の略}の施設で炊き出しをしていた頃は、炊き出しが無くなり、カレーをもらえなかったおじさんが怒り、良くこう言われたことがあった。

 「こんなところ、火を点けてやるからな!こんな炊き出し辞めちまえ!」

 今ではそんな元気なおじさんは居なくなった。

 以前は通りに犬の糞より人間の糞の方が多かったが街並みもどんどん綺麗になり、春になると通りでシラミを潰している人もあまり見なくなった。

 サッカーの日韓ワールドカップ以来、ゲストハウスが建てられるようになり、外国人観光客が増えて行った。

 派遣村があった時期には700人以上炊き出しに来ることもあったが現在では多くても250~300人くらいである。

 あの時、炊き出しに並んだ人たちはどこに行ったのだろうか。

 それから生活保護を受ける人が増え、自暴自棄な生活をしていた人たちは死に、炊き出しに来る人たちは気付かぬうちにゆっくりと減って行った。

 私はもう何年も炊き出しに並ぶおじさんたちがケンカし、それを止めるようなことをしていない、怒り抑えられず、辺り構わずケンカするような人はもう亡くなったかも知れない。
 
 だが、人の痛みが無くなった訳ではない、痛みをうちに隠し持ちながら、まだ炊き出しに来る人は孤独であり、その日、生きるのに精一杯な人たちである。

 先週土曜日、あるおじさんが私にこんなことを教えてくれた。

 「先生、アルミをやっているアライが酔ってさ、車に引かれて死んだよ」

 それを聞いた周りのおじさんは皆驚いていた。

 死ぬような人ではなかったようだ。

 私は25年経って、どう変わったのだろうか。

 細やかな心配りが出来るようになったのか。

 出会う人たちを元気付けられるようになったか。

 それは分からない、きっと出来ていない、まだまだであり、マザーのボランティアはただやればやるほど難しくなった、と同時に、私が確かに豊かに与えられるようになったかも知れない。

 何度でも私自身に言い聞かせたいマザーの言葉がある。
 
 「親切で慈しみ深くありなさい、あなたに出会った人が誰でも前よりも、もっと気持ちよく明るくなって帰るようになさい。

 親切があなたの表情にまなざしに、微笑みに温かく声をかける言葉に表すように。

 子供にも、貧しい人にも、苦しんでいる孤独な人すべてにいつも喜びにあふれた笑顔をむけなさい。

 世話するだけでなくあなたの心をあたえなさい」

 
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有り難いこと。

2019-06-26 11:25:42 | Weblog

 いま上智大学の看護学科の先生とちょっと仕事をしている。

 マザーテレサのボランティアについて、ある介護系の出版社のホームページに文章を載せるのである。

 上智の先生と一緒に仕事が出来るなんて考えたこともなかった、とても光栄で有り難いことである、感謝せずにはいられない。

 私たちの文章が公開されることが確定されれば、また改めてお知らせしたいと思っている。

 私としては私の書いたものを出版社の人が手直しをしてくれる工程が何とも嬉しいである。

 下記の文章はホームページには出ないものであるが出版社の人が手直ししてくれた一つである。


 
 「荒れ寺を」



 あるお年寄りとの会話。

 彼は教師だった。

 今は片麻痺もあり、寝たきり。会話も、「できるとき、できないとき」を繰り返している。

 彼は、住職の父親が亡くなる10歳まで寺で育った。

 老いていく最期のときに、また幼年期の記憶の中へ戻るようにして帰っていく様が現在なのであろう。



 {フランチェスコを知っていますか?}



 「野田さん、荒れ寺を建て直して、みんなに説法をしよう」

 「えっ、荒れ寺ですか?」

 「そう、早く荒れ寺を直して、そこで説法を二人でしよう」

 「いいですね、説法ですか。みんながいろいろな気持ちを話し合える場所があるといいですよね」

 「そうなんだよ。時間はないから、急いでやろう。大分あたりには荒れ寺があるって、前に友だちに聞いたことがある。まず、場所を見つけたら、誰かに取られないように縄で場所をくくらないといけないよ」

 「荒れ寺を直すなんて、フランチェスコみたいですね。フランチェスコを知っていますか?」

 荒れた教会を立て直すように、神の声を聞いたフランチェスコが行った話をした。

 「そんな人がいるんですか。いいですね。そうです、立て直すんですよ」

 「そうしましょう。では、今度来るときまで、寺の名前は何にするか、決めておいてくださいね」

 「さぁー、忙しくなってきたぞ!」

 彼は笑みを浮かべ、嬉しそうにしていた。



 {夢ではない現実}



 自分も嬉しかった。次、彼に会ったとき、彼にこの話ができるとは限らない。できない可能性のほうが大きい。しかし、彼はその瞬間、幼年期からの思いを、歩けないその不自由な身体で夢見ることができる。

 それは夢であるが、夢ではない現実でもある。

 生きていく上で、身体がすべてではない。

 生きていく力は、心から生まれる。

 最期のときをゆっくりと迎えるその前に、心の中で何かを生き直していくように、生き生きと生きるその様はなんて素晴らしいものだろう。

 彼は死ぬその最期のときまで、教師であり続けるのだろう。誰かに何かを教えることの意味を大切に温め続けていることがありありとしている。そして、仏さまへの切なる憧れが輝いている。

 彼の中には、仏さまが生きている。

 そんな彼の中の仏さまと出会えることは、何とかけがえのないことであろうか。

 胸が熱くなった。

 人間は生き直すことをする。

 それがそのとき、どんな状況でもそうするのだろう。その心は常に自由であり続ける。


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2003年のこと。

2019-06-25 12:22:29 | Weblog

 下記の文章は2003年に書いた物である。

 私はあれから何かが変わったのだろうか、何も変わっていないのだろうか。


 「愚かな私」
 
 白髭橋まで行くといつも必ず私が挨拶をする叔父さんがいた。
 
 彼はとてもスイートでシャイな叔父さん。橋近くのブルーシートのテントに住んでいる。口癖はいつも二三歩下がりながら手を左右に振り「俺は何もわりーことしてないもん、人のものなんて取ったり絶対しないもん」彼との会話の中にはいつも出てくる言葉だった。私が返す言葉はいつもこう「分かっているよ、…さんがそんな悪いことする人じゃないってことはみんな知ってるからね、大丈夫だよ」そう言うと決まって彼は頭をかきながらくしゃくしゃな笑顔を見せた。
 
 そんな彼に会うのが楽しみでいつものように彼のテントを覗くと、その日は寝たままで彼はまったく返事をしなかった。
 
 テントの中には何匹かのハエも飛びまわっており、酷い異臭が漂っていた。彼は漏らしたまま起き上がることが出来ず、手を動かすことも出来なかった。
 
 これは救急車を呼ばなければならない、そう判断したが、他のボランティアが来るのを待ってから相談しようと決めた。私一人では彼をテントから出すことは不可能、安全ではないと考えたからだ。
 
 でも、その時、ちゃんとほんとうは分かっていた。ただ、私は勇気が無いだけだった。一人で判断行動する勇気が無かっただけだ。なぜなら、カレーを待つ列の中から手伝ってくれる叔父さんを呼ぶことが私には可能だったからだ。そうすれば、お互いに助け合うことが出来ると言うことを実感する喜びが叔父さん達の中に生まれ得ることも出来ただろうに。そして、もし、彼が一刻も争う状態であれば、1分でも早く救急車を呼ばなくてはならなかったのにそうしなかった愚かな私がいた。
 
 「お前はカルカッタで何を学んで来たんだ!」何度も自答を繰り返していた。一月の冬のカルカッタで駅のプラットホームで一人の老婆亡くしたこともあったのに。
 
 彼女はとても可愛い老婆だった。身寄りもなく、いつも一人プラットホームで暮らしていた。他のボランティアは私が彼女のことを気にかけていることも知っていたくらいだった。
 
 体に何の支障もない彼女を施設に運ぶことは出来ない、シスター達が受け入れてくれないと判断していた。
 
 しかし、ある朝、彼女の姿を見つけることが出来なかった。その次ぎの朝である。冷たく丸く固まった彼女に会ったのは…。
 
 激しく自身を責めた…。

 「どうしてだ!何で運ばなかったんだ!怒られることが怖かったのか!信用を失うことが怖かったのか!そんなものが死と値するわけ無いだろ!命と値するわけ無いだろ!」 

 私は自分の罪を感じた。どうしようもなく感じた。泣いて許されるものではない、泣いて解決されるものではない、分かっていたがただただ両膝をつきながら泣いた…。彼女はもっともっと生きることが出来た。ほんの少し私が勇気を出せば彼女は死にはしなかった…。一緒に働いていたボランティアは「Tetsuが悪いわけじゃないから…」 そう慰めてくれたものの…、私には受け入れることが出来なかった。ただただ自身を責め続けた。
 
 そんな悲しく苦しい経験をしている私だがまだ理解していないのか!思っていることを行動に出せない勇気のない私がまだいた。そして、他のボランティアが来て、彼を布団に包み、外に出してから救急車を待っている時も嘔吐している形跡があったにも関わらず、もう一度嘔吐しても喉に詰まらないように顔を横に向け寝かせることをしなかった。
 
 まったく馬鹿で愚かだった。彼の横に座り、ずっと話しかけていたとは言え、馬鹿な自分がほんとうに情けなくなった。出来ることすらしない自分がいた。いつになったら満足いくように働けるのだろう。

 何度も過ちを繰り返す私は罪人である。
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薬よりも孤独。

2019-06-20 11:44:34 | Weblog

 山谷の白髭橋のカレーの炊き出しを終え、私が帰ろうとしている時だった。

 カレーを配っていた階段のところに一人のおじさんが座って隅田川を眺めていた。

 私はそこに孤独を見たのだろう、おじさんのところに行き、声を掛け、隣に座った。

 「カレーは食べました?」

 「うん、食べたよ。ありがとう」

 「良かった。川を見てたの?」

 「うん。どうやったら死ねるか、考えていたんだよ。オレさ、死のうと思って、薬を飲むのを辞めたんだ。血圧の薬以外はもう飲んでいない。リュウマチや心臓の薬とか、ほかにあるけど辞めたんだ。でも、死ねないんだよ」

 おじさんは苦笑いながら続けた。

 「オレの友達はみんな逝っちゃってさ。オレも逝きたいと思って薬を辞めたけど、なかなか死ねないね」

 「うん、そうだよ。なかなか死ねないよ。身体のどこかは痛くはないの?」

 「うん、今のところ、痛みなどはない。けど、死にたいけど死ねないね」

 「そうか、じゃ、ゆっくりして行こう。この世の中にね」

 おじさんは微笑んで「ありがとう。これからもよろしく」と言った。

 おじさんが死にたいと思うのは本気であって本気ではないのかも知れない、おじさんはただそうした気持ちを誰かに言いたかっただけだったのかも知れない。

 私たちは笑顔で別れの挨拶をして、私はその場を離れた。

 最近山谷にボランティアに来るようになった大学の看護学科の先生に「あそこにいたおじさん、死にたいから、飲んでいた薬を辞めたんだって。でも、なかなか死ねないと言っていましたよ」と言うと。

 「そうね、薬なんか、飲まなくて良いのよ」と言われた。

 確かに薬を多く飲んでいても一向に病気が良くならない人もいる、血圧の薬だけを飲んでいたおじさんはそれだけは必要だと思ったのだろう。

 先生の言葉に納得しながらも、私は薬よりもおじさんの孤独が気になってしょうがなかった。
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あたふた。

2019-06-19 12:23:14 | Weblog
 
 緑のカーテンにたっぷりと水をあげた。

 まだ二階まで緑のカーテンとなる西洋朝顔、夕顔、ゴーヤ、パッションフルーツは来てはいないがもうすぐだ。

 二階から下を見るともうそこまで来ている。

 太陽に浴びている姿はいかにも微笑んでいるように見えた。

 2005年に渋谷アピア{現アピア40}の情報誌「あたふた」のために書いた文章です。良かったら読んでください。
 
 「私は問う」
 
 もう何度か、あたふたにはカルカッタ・マザーテレサのボランティアで得たかけがえのない思いを書いてきた。深く染みるようにこの心に刻み込まれた熱い思いは何度書いても到底書き切れるものではない。この熱い思いは決して無くなりはせず、これからも増えて行くことだろう。それは語るに言葉も足らない、言葉にならない体験が多くあったからだ。
 その場から遠く放れた今でも、願うように懐かしく思い浮かべるいくつかの風景がある。その中の一つは私の仕事場であったシアルダーステーションだ。私はここでステーションワークをしていた。それは駅や駅周辺に住む貧しい人達のために、食べ物や衣類をあげたり、その場で出来る簡単な治療などもした。瀕死の患者や長く治療が必要な患者をマザーの施設に運んだりしていた。
 
 私達がケアをする貧しい人達のなかに精神障害者がほんとうに多い。一度治療して、また来るようにと約束をしても、それを守れる人は多くない。傷を治そうとする意思すらを持てない人がいたり、傷の痛みや空腹、あらゆる苦しみをドラックで紛らすしか仕方のない生活をしている人もいる。このインドの貧しい家庭では精神及び身体に障害を持つ者まで食べさせることが出来ないのが厳しい現実なのだ。そして、空腹を満たすよりドラックの方が安いのも現実だろう。その良い悪いなど論じても仕方がない、彼らには必要なものなのだ……。
 
 シアルダーの駅の構内に入る前に、私達はバスーターミナル、オートリクシャー、タクシーの乗り場、駐車場を歩き回っていた。
 
 この駐車場横にはゴミの集積場があり、酷い悪臭が漂うなか、その近くには信じられないかもしれないが、50人から多いときには80人くらいが早朝から、獣のように群がりしゃがみ込んでドラックをしている。とてもケミカルで安いブラウンシュガーだ。現地の言葉ではパターという。ここでは主に鼻から吸引かパイプでの摂取をしていた。もちろん、注射器でやる人もいる。そして、腕に傷を作り、その傷口に薬を馴染ませるやり方もあった。
 
 そんな状態を警察が許すわけもなく、駐車場からジャンキー達を追い出すために、二、三人の警官が毎朝こん棒で容赦なく彼らを叩きまくっていた。それは時に地獄絵であるかのように残酷なものだった。この風景は私に何を告げているのだろうか?考えることすら拒否せざるを得ない思いだったのだろうか?それは分からない。しかし変えようのない現実を目の前に言葉にならぬ痛みだけはしっかりと胸に突き刺さっていた。
 
 どうして、ゴミの集積場近くでドラックを大勢でするかといえば訳がある。その汚い場所まで、なかなか警官や普通のインド人は入らないからである。他にも公衆トイレの横、糞尿があるすぐそばでジャンキーが集まりドラックをしたりしているのだ。
 
 駅を回っている時には十二歳ぐらいの子供がドラックをやるために切りすぎた腕の傷を治療してくれと笑顔で近寄ってきたこともあった。あどけない笑顔には罪の意識などはないが、私には笑顔を通り越した向こう側に厳しい現実と暗い未来がありありと見えた。しかしふと今思えば、それは私が私自身の価値観で勝手に見ただけであって、彼が見たのは私の愛だったかもしれない。二人の間にはその時、悲惨さなどはまったくなく、笑顔があった。それは愛によって繋がりを見せていたのではないか?そしてそのことに私自身が気付かずにいたのではないか?と思ったのだ。なぜ、そう思うのかと言えば、きっとこんな理由が当てはまるのだろう。
 
 治療を終えると、子供が人懐っこい笑顔をしながら、食べ物を要求してきた。私は「判っているだろ…」とでも言わんばかりの顔をして断ると、彼は一瞬残念そうにしたが、それでもすぐに笑いながら走りかえっていった。
 
 子供の後姿を見送っていると、私の心襲う自問が溢れ出てきた。
 
 「どうして、パンぐらいあげないんだ?」 「どうして、チャイの一杯もあげることが出来ないんだ?」 「そのくらいは出来たんだろ?お前には愛があるのか…?」
 
 私は苦しみながら答えた。彼は笑顔を持ち、自分を大切に持っていたからだ、歩けたからだ、友達がいたからだ…。しかし気が付けば、それは言い訳でしかなかった。私は多くの言い訳を私自身にしていたのだ。私が持つ食べ物は貧しい人達のなかのもっとも貧しい人のためにあるのものだと気負いすぎていたのは確かだ。何よりもほんとうの意味で、その子供との愛、その時、その瞬間、一期一会を大切に出来なかった後悔の念があるのだ。一方の方向からしか物事が観ることが出来なかった愚かな私がいつもいたのだった。
 
 最近良く思うことがある。自分と真逆の生き方をしている人のことを大切に思えるか?愛せるのか?
 
 理不尽な行いをする人、自分にすら敵意をあらわにする人、見るものすべてに否定的な人、相手を傷付けることによってしか自分の存在を認められない人…、このような人達を理解しようと出来るのか?否定し拒絶することは簡単である。しかしそれは現実をも拒絶することになりかねないのでないか?それは実は彼等と同じではないか?なぜなら、否定を否定で返し、痛みに痛みを持って返しているだけにならないか?これではどこまで行っても愛はうたえない…。
 
 そんな時の心の中を覗けば、他人を否定し拒絶し罵倒する武器が何個もあるのではないか…?まずはその武器があることを自覚理解し、ありのままの自己を受け容れてから、一つひとつ、その必要ない武器を捨てて行けたら考えるのだ。心の中に武器がある限り、愛は輝かない。そう考えらるようになった。
 
 愛がなかったり、夢がなかったり、希望がなかったり、友達が持てなかったり、自分の気持ちを上手く伝えることが出来なかったり、孤独でいるしか仕方がなかったり、人を信じることが出来なくなったり、自己を守るために何層もの仮面を付けたり、そうしたくなくても、そうしている人がいる。そうせざる得ない思いがその人にあるのではないか?その相手の思いを思いやり、相手の痛みをも理解しようとする気持ちが何よりではないかと思うのです。
 
 「あなたはわたしではないですか…?」 自問したりしてみる。
 
 一瞬、脳裏をシアルダーの風景が包むすべての熱い思いが年月を重ねるたびにゆっくりと魂へろ過され洗練されたものとして受容できるよう、会得して行きたい。私が生きた証しを私が宝物として大切にすれば、痛み苦しみを本心から乗り越えていけるように生きていけるのだろう。そして、また人を愛していくのだろう。天国からのマザーの声は愚かな私には絶え間なく聞こえてくる。
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あんのヨダレ。

2019-06-18 11:57:36 | Weblog

 私の愛犬黒柴のあんはどうもアーモンドが大好きらしい。

 私が間食用に仕事に持って行くアーモンドを私の目を盗み、あんがボリボリと食べて以来、あんはアーモンドのとりこになったようだ。

 犬にとってもアーモンドは悪くはないらしい、もちろん、塩分などがないものに限るが、それにしても美味しいとまで感じるのかは分からなかったが、あんはアーモンドを凝視すると一二秒でヨダレを数滴垂らすのを見ると、どうも好物らしいのである。

 だから毎日一粒だけアーモンドをあんにあげることにした。

 「ケチ!」と、あんに思われて仕方がない、私は毎日20粒食べているので、私の身体とあんの身体の大きさを比較すれば、あんには一粒がちょっと少な目ではあるが相当ではないかと私は考えた。

 だけど、いつも「ケチ!」と思われるのが何なので、たまに二粒あげたりもする。

 一週間に一度ぐらい、そうする日もある。

 それとあげない日もある、仕事の間食用に持って行くために、仕事が休みの時には私はアーモンドを食べない日もあり、そうした日にはあんにもあげないのである。

 さっき、あんにアーモンドをあげ、それから七面鳥のアキレス腱をあげると、あんはもうお昼寝タイムに入った、いま幸せそうに寝ている。
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アピアの写真。

2019-06-17 10:46:26 | Weblog

 先週のアピア40でのライブも無事に終わりました。

 無事には終わったのですが、私のお客さんは一人でした。

 いつものように友達に声を掛けてはいたのですが、不思議です、さぁーっと潮が引いていくようにいっせいに友達は来れず、集まらない時は集まらないものです。

 それでも心はもう折れたりはせず、まぁ、ちょこっと折れてたかも知れませんが、ぼちぼち楽しく歌えました。

 写真は一緒に出演した和田さんが後日送ってくれたものです。

 先々週末のことを少し書きます。


 「6パックの神さま」

 自宅でのトレーニングもたぶん始めてから4年くらいは経っているのだろう。

 私は腰痛回復のために体幹トレーニングを始めた。

 最近では食べ物にも気を付けるようになった。

 筋トレのアイテムも増えて行った、ストレッチポール、腹筋ローラー、メディシンボールなども揃えた。

 メディシンボールでのトレーニングをし始めてから、インナーマッスルが効果良く付き始めたのだろうか、歌声にも伸びが出てきたように感じた。

 6パックも顔を見せ始めた。

 食べ物にも気を付けるようになり始め、何が一番辛いかと言うと、甘いものは以前からあまり好きではなかったのでまったく食べなくても辛くはない、ただ飲んだ後にどうしても深夜にラーメンが無性に食べたくなるのである、これが辛い。

 普段は我慢も出来るのであるが3カ月に一度くらいは良いとし、その考えが酔いに舞いに舞うと、この前、私はさっそうとラーメン屋に向かう自転車にまたがっていた。

 一度も行ったことはないが美味しいと会社の人に言われた、家から少し離れたラーメン屋だった。

 勢いよく店の自動ドアのなかに足を踏み入れると、私はあることに気が付いた。

 「財布がない・・・」

 私のラーメンを食べたい気持ちが一瞬にしてしぼんだ。

 6パックの神さまは私をさとしてくれたのだった。

 「深夜のラーメンは良くないよ」と。

 さて、これから仕事に行く前に少しトレーニングをしよう。

 
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山谷のこと。その3。

2019-06-11 11:53:16 | Weblog

 これを書いたのはもう10年以上前になるだろう。

 ここに書いたおじさんはまだたまに会うことがあるが、飲んでいない時はほんとうにシャイな人です。

 私が山谷に行き始めたのは1995年4月、その頃から、今もなお山谷で出会うおじさんはほんとうに少ない。
 

 「愛を乞うもの」 

 私達はほんとうに分かり合えるのだろうか?ほんの短い間の出来事だった。その瞬間、その問いを感じざるをえないことがあった。
 私は山谷にあるマザーテレサのブラザーの修道会に毎週土曜ボランティアをしている。山谷についての紹介などはまたの機会に書くとして、今日はその施設で起きたことを書きます。

 私達はその施設でカレーを作り、隅田川の白髭橋近くの河岸で500~650人くらいにカレーを配る。そのカレーを作り上げ、車に乗せた後に、ボランティアとブラザーで少しの祈りの場を持ってから隅田川に向かう。
 
 その日、私達がいつものように歌い始めると、その歌声を聞きつけた一人の酔った叔父さんが私達の歌っている歌とは違う「いつくしみふかき」を大声で歌いながら、施設のなかに入ってきた。ほんの何秒かの間、誰もその叔父さんに関わることなく、無視をしていた。施設内に緊張した空気が一瞬にして張り詰めた。そこにいる誰もが自分達の歌を邪魔されることをイヤに思ったことだろう。そして、その叔父さんに怒りの感情を持つと同時に見下していただろう。

 彼が入ってきたドア付近にいた年配のボランティアが怒りの顔を浮かべ、彼を部屋から出すように追い払った。しかし、彼はまた歌いながら入ってきた…。
 その遣り取りを観ながら、私は彼が感じているものを私も感じようとしていた。そして、とても胸が苦しくなった。それはこうしたものから生まれてきたものだろう。
 
 彼の行動は明らかに問題行動ではあるが、どうしてそのような行動を取るのかとは誰も考えられない空間から来る拒絶のメッセージを受けていた。ほんの数秒間だが、彼は彼の存在を否定された。それも自分自身がケアを受けているこんなにも多く人達から、自分の存在を拒否される痛みはどんなものなのだろう…?それは「あなたみたいな酔っぱらいで野蛮な人は私達の仲間には絶対に入れない」 「どうしてあなたは邪魔をするの!早く出ていって!」 決して口にはしない影の声が緊張した空気を作り出していた。誰もが自分達のことしか考えていないことに気が付かない。その瞬間、その場所にまったく愛のない空間を自分達が作り出していた。
 
 彼のほんとうにしたかったことは何なのだろうか、そう相手を思いやる心を持てた人はあったのだろうか?彼は一緒に歌いたかっただけのこと、仲間に入りたかっただけのこと、そして、何よりも寂しく孤独であり、それゆえに自分の存在を認めてほしかったことではないのか?
 
 知らない間に自分達の正当性を意識しないところで主張するものは正義を楯に戦うものと同じような過ちを瞬時として行い、それ以上に相手を傷付け、自分達の意識のなかに今まで以上に彼に対して悪のイメージを勝手に作り増ししてしまう。そして、そのことに気付けない。
 
 黄金律「人からして欲しいと思うことのすべてを人々にせよ」{マタイ福音書7章12節}が自分本意、自分主体、自己防衛、思い込み、決めつけ、怒りの感情のために逆になっている。「わたしがこうしたいから、あなたもそうしなさい」 まず相手を思いやれていない。相手の心を大切にしていない。悪者は悪者であるの先入観と自分達は悪くない正しいことをしているとしか考えることが出来ないものの驕りとで、そうした行動からしか愛を求めることの表現できない貧しき弱き孤独なものに愛の手の差し延べるどころか、「あなたは悪者。邪魔者」そのレッテルを自分自身の意識のうちに無意識に強化し貼りつづけてしまう。相当なことがない限り、相手を許すことなどしないし出来ない。
 
 私はその瞬間にこうしたことを感じていた…。胸が閉めつけられる思いだった…。
 彼がもう一度歌いながら入ってきたところで、私は彼に近づいて笑顔で「どうしたの?」と声をかけた。私は一緒に歌うつもりでいた。彼は私の顔をじっと見ると「いつくしみふかき」を歌うのを止めた。すると、一つの仮面が瞬時に降り落ちたように表情を変えた。それは愛を乞う弱きものの純粋さがにじみ溢れていた。明るい喜びの表情ではなく、とても深いものだった。彼は彼のなかで迷子になっていた彼自身を私のなかに観付けたのかもしれない。そして、目を真っ赤にして涙をぼろぼろと流し始めた。私は彼の背中をさすりながら微笑んだ。彼は「泣いてなんかいない」と言いながらも涙を流し続けた。私は何も言わず、ただうなずくだけだった。その涙は床に何粒も落ちた。
 
 彼の涙はどこから来たものだろうか…?愛か、感謝か、分かち合いか、それよりも、悪か,憎しみか、恨みか…。どこからだろう…?愛からも悪からも、その涙が来たのかもしれない。そして、もしかすると、その涙は私の内側から流れ出た涙のようにも思えた。ただはっきりと判ったのは彼の気が変わったことだった。渇きがその涙によってうるおったようだった。彼はただ受け入れて欲しかっただけだった。ありのままを認めて欲しかっただけだった。そして、拒絶否定されたくはなかった。
 
 彼の行動は退行にすぎなく、その問題行動の是非だけに心を奪われてしまえば、その先にある、その奥底にあるものを観ようとは思えない。分かり合うことは不可能にどんどん近くなるのだろう。
 
 彼は「判ったよ…」そう言って外に出た。おもてにあるマリアにふれて、そして、手を合わせて祈っていた。誰にも示さず、現さず、他を感じずに祈る姿は神と彼とを結ぶ一本の線がしっかりと繋がっているような美しいものを感じ見せた。誰も彼のその美しい祈る姿を見ることはなかったろう。なぜなら、「臭いものに蓋」と一瞬でも早く自分の視界から彼を追い出すことが自分の心の平安に繋がると考えているからだろう。そして、何より相手よりも自分達の祈りをすることが大切だと気付かずに思い込んでいるからかもしれない。気付けない逆の黄金律により、悲しい歴史はこうした些細なところからも生まれて来てしまうのだろう。
 
 人間が弱きものであっていい。弱きものであると謙虚な思いを素直に持てることがいい。失敗や過ちを犯しても、何度でも立ち戻り、何度でも正し、真剣に傷付くことを恐れず、あらゆることに揺られながらも、ゆっくりと自分のあるがままを受け容れていくこと、勇気を持って行なうことが大切だと思う。それはほんとうに苦しいものであろうが、しかし、長い目で見れば、強くより良い人生になるために働きかけるだろうし、柔軟な強さを身につけるだろう。そして、自分が自分を育て直すことと成り得るだろう。
 
 私にとって、部屋の中にいる人達も、外に出ていった彼も、友人である。ここに書いたことは実際に起こったこと以外はすべて私自身の仮説である、ということは私の影でもある。その影が私を教育してくれる大切なものでもある。そして、彼等と彼のなかにあるものは、私のなかにもある。私達はそうして繋がっている。だから、愛す。

 
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山谷のこと。その2。

2019-06-10 12:22:38 | Weblog

 
「死に場所。その2」
 

 「どう調子はさ?苦しいの?」 

 彼はベットで寝ていた。相変わらず、テントを作りきれていない、横殴りの雨はもろにベットに入ってくるだろう。だが、その場所が彼の居場所なのである。
 
 「今日もカレーをここに運んでくるから、大丈夫だからね。食事はちゃんと取れている?夜はちゃんと眠れているの?」
 
 「いやぁ、夜は寝れないんだよ。夜になると頭の中でなんだかもうガンガン音楽が流れるんだよ。だから、昼間、こうして眠れるときに寝ているんだ。それと俺、てんかん持ってんだよ」
 
 「そうなんだ…、調子が良いときに福祉を受けに行ってね。お酒も止めないと。このままじゃ治らないからね。ほんとうに悪いときには救急車を呼んでもらって。そうじゃないと死んじゃうよ…」 

 言葉には出したくなかった言葉、相手の恐怖心をあおる言葉だったが、それでも私は使ってみた。どうにかしても彼の生きる力を引き出しかった。
 
 不安な顔を見せながら彼は答えた。
 
 「うん…、覚悟はしているよ…。病院に行って面倒なことをするくらいなら、ここで死ぬよ…。病院で死ぬより、ここで死ぬよ…」
 
 「…それでも、死ぬのは怖いでしょ…?」
 
 「…怖いよ、でも、ここでいいよ…」
 
 二人の間に死の重い幕が覆っているの中、少し間を置いてから、私はゆっくりと話しかけた。
 
 「叔父さんはまだ死んではいけないよ。だって、生きれるよ。少し勇気出して我慢してさ、病院に行って病気を治せば良くなるんだから、そしたら、怖くなくなるよ」
 
 少し苦笑いをしながら彼はこんなことを話し始めた。
 
 「俺ね、六年前に二年間入院してたんだよ、火傷でさ…」そう言って自分の背中を指した。
 
 「どうしたのよ?酔っ払って、火の中に入ちゃった…?」 

 冬場の山谷に良くあることだった{その当時は道端や公園でも焚き火をしていた}。どうしようもない寒さに酔いつぶれて火の中に倒れてしまう。
 
 「いやぁ、違うよ。玉姫{山谷にある玉姫公園のこと}でさ、五人で石油ストーブにあたってたんだよ、その中に夫婦がいてよ。その女がいちいち口煩く旦那に文句を言ってて、それに切れた旦那が近くにあったイット缶を持ち出して、石油を女にかけたんだ。それが横にいた自分にもかかって…。女に火を付けたら、その女が俺の方に逃げてきて、自分にも火が移ったんだよ…。…その男はもう刑務所で死んだよ…」 

 激しい恐怖、怒り、息苦しいような思い出を語り、彼は少し黙り込みながら、シラミ、ダニに噛まれているだろう腹をぼりぼりかきむしっていた。
 
 「酷いね…、殺人事件だったんだ…。それで病院に二年間もいたんだね」
 
 「そうなんだよ、そんで、女子医大に運ばれて、そこで一番偉い医者に診てもらったんだ。もう名前も思い出せないけど…、世界保健なんとかのメンバーにもなっている偉い先生でよ。その先生が(俺が絶対に死なせないから!)って言ってくれて本当に自分を治してくれたんだよ」 

 話しながら彼の胸の中が熱くなって行くのが分かった。人の愛を覚え、感謝の心が彼のうちにあるのがはっきり分かった。それは決して消すことの出来ぬ背中の傷跡がいつも絶えず彼に伝えてきたのだろう…。そして、彼はこう付け足した。
 
 「だからよ、一つを多くもらった命だから、先生からよ、一つ多くもらった命だから大切にしなくちゃいけないんだ…」 

 彼の恐怖心の中にはまた誰かを信じたい、助けてもらいたい、救って欲しいという願いと、生きたいんだ、まだ死にたくはないんだ、死ぬのが怖いと思う弱さをにじませながら彼はそう語った。

 「命を大切にしなくちゃ…」と話した彼には愛を乞う弱き人間の姿が素直に現われていた。それは裸のままの心だった。私には水が地に吸い込まれて行くように彼の思いが入ってきた…。「いいんだよ、それでいいんだよ。命を大切にするんだよ」心の中で私は叫んでいた。
 
 どん底からでも前向きに歩んで欲しい、諦めずに、生きることを、諦めずにいて欲しい。不安・恐怖を受けとめ、生き抜く術を、勇気を、彼が持つように、持てるように祈った…。
 
 痛み苦しみの中にいる彼が前向きな思いを見せたことに私は微笑んだ。
 
 「だったらね、また病院に行ったら、その先生みたいにいい医者に会えるかも知れないよ」 

 そう私が言うと、彼は痛み恐怖により忘れかけ遠くに行ってしまっていた笑顔を取り戻し、とても人懐っこい顔を見せて笑っていた。
 
 それから、暫く間、彼と会話をした後、近くにいた彼の友達に様態が悪くなるようだったら救急車を呼んでくれるように頼み、私はカレーを待つ人達の方に向かった。
 
 カレーも配り終え、仕事が終わりにもう一度彼に病院に行くように話してから別れた。
 
 次ぎの週、彼はいなかった。まわりの叔父さん達に話しを聞くと友達とケンカしたらしい。それでも、病院に入っているとのことだった。ケンカの理由は分かり得なかったがありとあらゆることが想像出来る。
 
 ふと気が付くと彼の寝ていたベットの下には木製のバットが置いてあった。
 
 彼はそのバットでどれほどの恐怖と戦っていたんだろう、そう思うと胸がほんとうに痛んだ。出来る限り彼の痛みを想像し、私は深く祈った。どうか生きて抜いて欲しい、苦しいことばかりでは決してない、微笑み合い人を信じる喜び感謝があるから。
 
 あなたにはいつも優しく陽の光りがあたっている、たとえ、雲があったとしても、その上にはいつもあなたのための光りがあるから。

 2003/08/22
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山谷のこと。

2019-06-07 11:37:48 | Weblog

 もう随分に書いたものである、15年以上前のこと。

 もう山谷には彼のような人はいないかも知れない。
 
 
 「死に場所」
 
 山谷にはどうしても酒を止めれない人達がいる。例え、それが死を意味していても・・・。
 
 いつもようにカレーを待つ叔父さん達と話しているとある叔父さんから、歩く事ができない人がいるからカレーを持っていって欲しいと頼まれた。
 
 「どこにいるの?大丈夫だよ、ちゃんと持っていくから、今、会いに行ってくるよ」と答え、その叔父さんに会いに行った。
 
 会ってみれば、彼は知っている叔父さんだった。
 
 「どうしたの?調子は悪いの?歩けないって、向こうにいた叔父さんに聞いて来たんだけど・・・」
 
 「いやぁ、糖尿でさ。歩くとふらふらして、カレーの列まで歩けないんだよ」
 
 いつも酔っては騒いでいた彼だったがとても気弱になっていた。

 彼は元ヤクザで刑務所にも入っていたことがあった。

 私の中には威勢のいい彼のイメージしかなかったので少し驚いたがやはり不安なんだろう、思うように体が動かないのである。
 
 「いいよ、ここにいて、自分がカレーを持ってくるからね」
 
 「ありがとう、テントも作れないんだよ・・・」
 
 その前日は刈り込み{三ヶ月に一度、その場で行われる掃除、消毒である。白髭橋より浅草寄りは一ヶ月に一度行われる。川沿いにあるテントなどをその持ち主は一度片付けなくてはいけない。その日、もし、その場にテントや布団などあった物は強制撤去される。}だった。

 彼はばらしたテントを元通りにすることが出来ないと嘆いた。
 
 「体を大切にしないとね、酒は止めた方がいいよ。それと福祉を受けるように調子が良い時にセンター{城北労働・福祉センター}に行かないとね。そうじゃないと糖尿なんか治らないよ」
 
 「うん、分かったよ。でも、いいよ。酒、止められないし、自分で治すから大丈夫だよ」
 
 「ここじゃ、治らないよ。薬がなければ糖尿は治らないからね」 こう話しても、それでも、彼はどうにかなると、まだ思っていた。

 他人と会話をしたり面倒な手続きするくらい彼におっくうなことはないのでしょう。

 めちゃくちゃないい訳でしょうがそうするしか出来ない人も現実にいるのです。
 
 この現実を受け止めて、さて、私には何が出来るのだろうか。
 
 何かが出来る、何かがしたい、そうすべきと言い聞かせものではなく、内から湧いて来るものを覚える。

 彼の孤独をもっともっと感じ、自身のうちに入れよう。

 彼の心と自身の心を合わせよう。

 そうすれば、何かが分かるだろう。

 甘い希望に寄り掛かることなく、彼の意に添うものを見付け出したいと願い、その場を去った。
 
 次ぎの週、カレーを待つ叔父さん達に挨拶をする前、彼に会いに行った。
 
 {つづく}

 
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