カルカッタより愛を込めて・・・。

次のアピア40のライブは9月13日(金)です。また生配信があるので良かったら見てください。

山谷のクリスマスに来た人数。

2019-12-24 11:43:26 | Weblog

 山谷MC{マザーテレサの修道会の略}のクリスマスには多くのボランティアも来る。

 今年は何人ぐらい来たのだろうか。

 100人ぐらいは居たのだろうか、このクリスマスにだけ来るボランティアにも会えるのは嬉しいことである。

 プレゼントを配り終えたミサの時間だけ来る人も居たし、今年は総勢どのくらいMCに来ていたのだろうか。

 ただ昨年よりはミサに来た人の数も多かったように思えた。

 プレゼントをもらいに来たおじさんたちも昨年より多かった。

 450人分用意したプレゼントも終わってみれば、4つしか余っていなかった。

 この山谷のクリスマスは普段炊き出しに来ない人たちももらいに来てくれる。

 以前は路上生活をし、それから生保を受け、ドヤやアパートで暮らしている人たちも来てくれるのである。

 そうしたおじさんのなかには「普段はどうにかもう出来るようになったけど、このクリスマスだけ来たよ」と話してくれたおじさんも何人か居た。

 私は「たまには顔を見せにカレーの炊き出しも来てね」と何度なく話した。

 まったく見たこともないおじさんも数人居た、たぶん、新宿や横浜からも、このMCのクリスマスの噂を聞きつけて来たのだろう。

 そうした人たちにも会えるのはやはり嬉しいことである。

 誰が来ようと、私たちはウエルカムである。

 なぜなら、マザーテレサはジャッジをしない人だったからである。

 でも、どうしても何かしらの理由で他人をジャッジしてしまう嫌らしさと弱さが私にはある。

 クリスマスにはその私の嫌らしさと弱さを見詰める、認める、受け容れる力を願い、静かに祈りたい。

 山谷に来て以来25年以上になるが、来れば来るほど、私は私の未熟さを知り、愛の行いをする難しさを学ぶのである。

 それと同時に来れば来るほどに私自身が与えられていることを豊かに感じられるようになったような気がするのである。

 メリークリスマス。

 
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あの人の想い出。

2019-12-23 13:10:57 | Weblog

 山谷のクリスマスは無事に終わった。

 と言うか、一人のドヤから来た酔ったおじさんがクリスマスプレゼントをもらった後に道端に膝から崩れ倒れて寝てしまい、救急車を呼んだぐらいで済んだ。

 彼が倒れる前に「大丈夫?」と私は聞いたが、「大丈夫だ」と答えたので見守るだけにしていた、他の人たちに挨拶をしていた私の落ち度だと思わずにはいられないが、どうにか大丈夫そうだったので安心はした。

 私の集中力の無さ、思いやりの無さをまた改めて知ることとなった、そのことは有り難い私のへのプレゼントにもなった。

 今日はとても嬉しかったことがあったので、どうしてもここに書きたい。

 それは私にカテキズム{カトリック信者になる前に勉強するカトリックの教え}を教えてくれたダニエルのことを土曜日は遅れてプレゼントをもらいに来た女性と話題に出来たことである。

 「もうあのアメリカ人の人はここに帰ってこないの?」

 「えぇ、アメリカ人は居なかったけど、誰かな?」

 「背の高い人、私は彼と会うだけで癒されたの?彼はほんとうに優しかった」

 「あぁ、それはダニエルだよ。彼はイタリア人だよ」

 「そうなの、私ね、彼と私の犬と一緒に撮った写真を部屋に今も飾っているの。ほんとうだよ。彼に会いたい」

 「そうなんだ、うん、ダニエルは優しい人だったね」

 もうダニエルが山谷を離れてから、5年以上は経っているだろう、だが、彼女はダニエルに優しくされたことを今もなお忘れずにいる。

 それは愛の強さを私に示してくれた、その喜びに私は満たされ、胸を熱くさせた。

 ダニエルはもともとはザビエル会の司祭であったが、観想場所を探していて、山谷に約3年にいた、MC{マザーテレサの修道会の略}ブラザーたちと生活をともにしていくなかで新しい召命を受け、MCブラザー会の入会した。

 ダニエルは誰よりもへりくだり、謙遜と愛情深い微笑みを持ち、誰も区別することなく接していた、その姿はまさに神の愛の現存と言っても過言ではなないだろう。

 知人から聞いたことであるがたくさん本を書いている晴佐久神父もダニエルのことをこう言っていた。

 「彼はいつか聖人になるから、今のうちに髪の毛の一本ももらっておいた方が良い」と。

 いま私はダニエルのことを静かに思い出している。

 ダニエルの家族の体調が良くなく、今はフイリッピンからイタリアに帰っているが、久しぶりにメールを書いて見よう。

 いつも変わらぬ、いつもと同じように「ダニエル兄さん、元気でいますか?」から始まるメールを。
 
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六月二日。

2019-12-19 12:05:09 | Weblog

 これを書いたのはもう10年以上前のことである。

 二種類の日本に置ける貧困である。

 こうしたことが無くなった訳ではない。

 いまもなお、誰かがこのような現状に居るかもしれない。

 私たちには何が出来るのだろうか。

 微笑みを用いて、喜んで行いをすることで愛に繋がっていくのではないだろうか。





 「六月二日の出来事」

 山谷に行くのに電車に乗った。
 二人の女の子{15、6歳の子}のそばに乗った。
 一人の可愛い女の子の腕には包帯があった。きれいではないその巻き方に気がかかり、手首の方を見ていくと無数の傷跡があった。

 「リスカのあとだ」私は心のなかで呟いた。

 この子は昨夜も切ったのだろう・・・。どんな思いに苛まれながら、流れ行く血を眺めただろう・・・。流れ行く血の暖かさに何を思ったのだろう・・・。切っていくうちにだんだんと上のほうに上がっていくんだろう・・・。 もう何度も何度も切ったのだろう、切らざるを得なかったのだろう・・・。
 
 何かを感じ、何かを誤魔化し、何かを確かめ、その罪を背負うのか、逃れるのか、逃れたいのか、何のために、何の罰を受けようとするのか、罰を受ければ許されるのか、どこに行けばいいのか、誰が救ってくれるのか、救ってはくれないのか・・・。
 
 一つの傷が治癒すれば、一つの苦しみも晴れるのか。傷をいくつ作れば生きている実感を持てるのか、今まで持ったことはあるのか、それは何?わたしに持てるものなのだろうか?わたしは何者なのだろうか・・・? 生きていることに何の意味があるのだろうか・・・?生きている意味は必ず、あなたのなかにあるんだ・・・。

 彼女の声と私の声が相互に重なり合ったかのように私の脳裏に浮かび上がり続けた。

 電車を降りるまでの間、私はその子の痛みに対して祈り続けた。

 「どうか、今日は楽しい一日を。。」


 山谷の午前の炊き出しを終え、昼食を終えた午後、自転車に乗って、浅草方面にカレーを配りに行った。
 ある公園で、どうにも歩けそうもない衣服の汚れきった叔父さんにあった。
 彼は裸足だった。30センチほどの長方形の下水の網を持ち上げようとしていた。

 「叔父さん、カレーを食べて」
 「あぁ・・すごくお腹が空いているんだ・・」
 「そうなんだ、ゆっくりと食べてね。またね」そう言って自分はその場を立ち去った。

 浅草の東橋まで配り終え、帰りにもう一度、彼に会いに行った。

 彼は下水の鉄の網を上げ、ゴミの入ったビニール袋で底にある汚れた水をすくい飲もうとしていた。。

 彼がなぜ鉄の網をあげていようとしていたことがそのときになって判った。。

 「喉が渇いてしょうがないんだ。。」そう呟いた。

 私はカラダのなかに重く固まったものを極度に感じていた。言葉になる前の、言葉にはできない、表すことのできない何かが、そこにはあった。

 命、生きる、人間、尊厳、生きようとする力、その本能、治癒力・・・、まざまざと感じざるを得ない思いになっていた。

 「叔父さん、ちょっと待ってて、何か飲み物を買ってくるよ」 

 私はペットボトルのスポーツドリンクを買ってきた。

 泥だらけの手でそのボトルをつかんでは「おいしい、、おいしいよ」って飲んでいた。500ミリのスポーツドリンクはすぐに飲み終わってしまった。そのボトルに水を入れようと水道を探したが、その公園では見つからなかった。
 もう一本をスポーツドリンクを買ってきた。
 まだその渇きは終わらないようだった。

 一人のボランティアにブラザーの施設に行って、何か履くものをあったら持って来て欲しいと頼んだ。

 その間、叔父さんといろいろと話してみた。
 「今日は何日かな?」
 「八日かなぁ・・」
 「何月?」
 「五月・・」

 彼のなかでは五月八日だった。六月二日なのに・・・。
 どこからの病院を抜け出してきたのか?追い出されたのか?はっきりとその理由を話せるような状態ではなかった。

 ブラザーのところには履き物がなかったのでサンダルを買ってきてくれた。喜んでそれを受け容れてくれた。そして、彼と別れた。

 彼と別れた場所から十メール離れたところに寝袋で寝ている知り合いの叔父さんに彼のことを頼んだ。
 「ダメそうになったら、救急車を呼んで」 そう言うと快く受け入れてくれた。
 
 どんな境遇にあろうと、誰かのためにあれるということで人は生きる力をつける。もちろん、履き違えれば、破壊をもしてしまう。がしかし、私はおじさんたちにそうした力があることを感じられる。そうした力を彼ら自身の生活のなかの一部に密接にあるように思える、痛みを知る彼らだからこそ、人情深く優しいのである。

 「また会おう・・」あらゆる思いを包みまとめ、私は祈りながら、その場を離れた。


 
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逃げの祈り。

2019-12-18 12:32:11 | Weblog

 私は誰かが私のために祈ってくれることに喜びを感じるようになった。それと同時に「私のために祈ってください」とも友達には言えるようになった。それは祈りを信じる証しが私のなかに成長し成熟したからに他ならない。

 祈りとは誰かを思うこと、大切に思うことであり、そう思われるだけで幸せではないだろうか。

 ならば、誰かを幸せにする力は誰もが持っているのではないだろうか。

 しかし、依然として、下記の文章を思わずには居られない。



 「逃げの祈り」  2008/06

 マザーテレサのところでボランティアをするようになり、よく聞く言葉がある。

 「あなたのために祈ります」

 私は今回、この言葉を慎重に使おうと思っていた。
 それはかなり前から、この言葉を使うときの自己の心理と状況、相手の期待、望み、影響など、気がかりになっていたからである。

 祈りはとても強く必要なものとしてあり続ける。しかし、この言葉を発したがために相手の苦しみを言葉に出してあげられなくなる瞬間があるのではないか。また、それに付き合うことができない、付き合いきれないと感じ、その場しのぎのために逃げるようにして使うことはないか、よく考えるようにしてきた。

 祈りを押し付けのように使ってはならないと思う。
 マザーが言うように最良のものを与えると考えているならば、祈りとともに行動も必要である。

 教会やマザーのところ、宗教に救いを求めるものに実際多いのは心理的苦悩を抱えてくる者たちである。それは当たり前のことでもある。この世の中に悩みのない者などいないだろう。
 それが祈りで治ればいいが、そうでない場合も多いのではないだろうか。

 人間は肌で感じるレベルで、相手の感覚を読み取るようなところもある。相手の問題が大きければ、意識せずとも巻き込まれないように逃げることもする。それと同様にして、自己の苦しみと相手の苦しみを同化させ、その相手の苦しみを思っていると勝手に思い込みながら、実は自己の苦しみのなかでしか動けずに、結果として、自己も相手も苦しみを増させてしまうこともしてしまう。

 以前、山谷に来ている二人のシスター{二人とも違った修道会のシスターである。}に、このことを話してみた。

 一人の若いシスター{30代}は「逃げの祈り」について訊いた。
 彼女はしばらく思い込んだが、「祈りにも素晴らしい力はあります。」そう答えた。

 もう一人初老のシスターは「確かにそうして祈りを使ってしまうことがあったと思います。」そう答え、深く自己を省みていた。

 マザーはいつも目の前のその人に似合うものを提供してきた。祈りだけではない、その人の、その状況のなか、一番良いものを与えるように努めてきた。

 シュシュババンでこんなことがあった。
 ある子供が母親を亡くし、シュシュババンに来た。
 その子は母親が亡くなってしまったことで、どうしても泣き止まなかった。
 そこでマザーはシスターのなかから、その子の母親に一番に似ているシスターを選び、他に何もしなくていいから、その子を抱き続けなさいと命じた。そして、祈った。

 もちろん、これですべて解決する訳でもない。母親は母親であり、そのシスターではない。しかし、切なる思いから、そのなかでマザーは最良のものを与えようと努めていたことがよく判る。

 逃げの祈りに気付いている方がいいと私は考えている。
 
 どうしても使ってしまうことが有り得てしまう。
 今回、カルカッタの病院の訪問をしているときにはほんとうに気をつけていた。

 祈りを大切にする、神を信じているインド人の前ですら、その言葉が相手にはまらないときも度々あった。

 アイリッシュのバーニーは献身なカトリックであるから、よくこの言葉を彼らにかけていた。ベンガル語が私より不自由な彼女にとって、そこにはそれ以上の言葉が見つからない思い、苦悩、戸惑いから発した瞬間もあったように思う。その言葉を発して、どうにか、次の患者のところへ足を向けることが出来るがために使っていたことも確かであろう。

 患者が無理に自分自身を納得させるような瞬間も何度も観てきた。

 こう思うのは私も、そこで逃げの祈りを発してきた影から来る思いでもあろう。だからこそ、今回はそこで、その瞬間、私は何を感じ、何を逃げ、何を誤魔化し、そして、何が相手にとって良いものか、何が相手にとって良くないものか、何が今出来るのか、そう感じれるだけ感じ、考えられるだけ考え抜いていた。

 何の言葉を発せずに、ただ、その人の前にあたたかさを持って立ち、その痛みを出来るだけ共有出来るように思い続けた。

 誠実さは伝えるためには、どう自分があればいいか、何度も何度も考えた。

 言葉の必要性ない瞬間もある。思いにならない言葉を身体全体で表し、それを伝えることも人間には出来る。表情から、思いを伝えることが出来る。体温から愛を伝えることが出来る。

 今日出来なかったことは明日には。
 今日伝えられなかった思いは明日には。
 今日傷つけられた心は明日には。
 今日誤解された思いは明日には。
 今日逃げた出してしまった心は明日には。
 今日大切に出来なかったことは明日には。
 今日乱してしまった心は明日には。
 今日の弱さを明日の強さに。
 明日はないかもしれないけど、明日には。
 今、出来なかったことは次に出会う人には。
 今日愛を通い合わせた思いを明日にも。
 そう希望を持ち続けた。祈り続けた。
 
 自分は逃げの祈りからも学び続けた。
 逃げの祈りを使うとき、結局は相手から逃げるようにして、自分からも逃げている瞬間が多いのではないか。精一杯になっている自分の瞬間に気付く必要もあるだろう。祈りを自身の都合の良いものとしてのみ使っていることに気付く必要があるだろう。

 深く自己を省みることにより、私たちはゆっくりと成長していくのではないか。そして、それは誰にでも与えられているものではないか。

 答えはひとつではない。そして、答えは自分たちの内側にある。あり続ける。

 最良のものを作り出すためには切なる思いで行いをし続けることにほかならない。

 それがあなたに出来ないことはない。その可能性を誰が消すことが出来るだろうか。
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今年の山谷MCのクリスマス。

2019-12-16 13:00:54 | Weblog

 今週末21日の土曜日で山谷のMC{マザーテレサの修道会の略}の炊き出しは終わり、新年の白鬚橋でのカレーの炊き出しは1月11日になる。

 毎年12月23日が天皇誕生日で祝日だったので、その日に山谷のクリスマスをしていた。

 今年からは休みではないのでクリスマスの前の土曜日21日に行う。

 この日はいつもの土曜日の炊き出しと違い、山谷のMCブラザーの施設でクリスマスプレゼントとお弁当を配る。

 この日だけは普段炊き出しには来ないドヤに住む人たちも多く来るので、今年は450人分のお弁当とクリスマスプレゼントを配る予定である。

 それでも毎年だんだんとおじさんたちに配るクリスマスプレゼントの数は少なくなってきている。

 一時期多い時には800人分のクリスマスプレゼントを用意してこともあった。

 私は知る限りではやはり派遣村が出来た時が一番炊き出しに人が集まった。

 あれから数人は山谷に住むようにもなった。

 しかし多くおじさんたちは路上生活に病気などの理由で耐えられなくなり、福祉を受けるようになってきている。

 それゆえ炊き出しに来るおじさんたちの人数は少しずつ少なっているのだろう。

 山谷も20年くらい前まで残っていた脂ぎったギラギラした汚れた危険な印象はもうどこを探してもあまり見当たらない。

 以前はクリスマスの列に並ぶおじさんたちの間でケンカも良く合ったが、気が付けば、ここ数年ケンカなどは見たことがない。

 荒々しく山谷でもう生きることは難しくなっているのかも知れない。

 酔いつぶれれて路上で寝ている人もほんとうに少なくなった。

 私としては何か寂しい感じもするが、それも良しとし、それは時の流れのなかに静かに消えて行ったのだろうと思っている。

 だからと言って、貧しい人たちが居なくなった訳ではない、慎ましく健気に生きているおじさんたちは居るのである。

 どうか良かったら、彼らに愛を渡しに来て見てはどうかしょうか。

 誰かに愛を与えることは簡単ではありません。

 しかし、それをしようと、またしてみたいと思い、その場所に行って見ることから始めないと何も始まらないでしょう。

 愛を与えることが出来なければ、心を込めて、片付けをしたり、掃除をしたりすることも愛に繋がるでしょう。

 あなたの人生の時間をほんの少し、マザーテレサが言う神さまに捧げに来るのも、クリスマスを迎える喜びになると思います。

 21日朝8:30くらいからお弁当を作り始め、あらかじめ用意していたプレゼントと一緒に10:00から配る予定です。

 その後12:00からミサがあり、食事会となります。

 良かったら来てください。

 
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21年前の約束。

2019-12-12 11:54:18 | Weblog

 昨日は学芸大学にあるアピア40でのライブだった。

 ここ最近、体調を崩してはいたが、どうにか歌そうだと安堵はしていたものの、微かな不安は拭い去れることはなかった。

 踏み切りで捕まり、一本電車を乗り過ごしてしまった南武線の駅のプラットホームでスマホを開くとメールの着信があった。

 「こんにちは~ 東京に来ています。今夜ライブ観に行くわ~」と松本に住んでいる山田君からだった。

 私はただただ嬉しかった。

 山田君がライブに来てくれる、会うのはもう10以上ぶりになる、心の奥底から滲み出してくれるような喜びを感じた。

 一本乗り過ごした電車だったが、すぐ五分後に快速電車が来ることも知り、私はとてもついていると思えた。

 体調の微かな不安は山田君のメールを筆頭に、五分後に来る快速電車と繋がり、拭い去ることは可能だと思えて来た。

 病は気から言うが、病は喜びで癒されるのも間違えではないと思えた。

 この喜びを味わい、私は電車に乗り、再読していたドフトエフスキーの「二重人格」のラストシーンのなかに入って行った。

 この世の中をどう見るか、どう捉えるか、身体的にはどうなのか、精神的にはどうなのか、私は私の体調の微かな不安を通して、また山田君に会える喜びを持って、それに向かい合いながら、学芸大学に着く前に読み終えた。

 短い時間ではあったがなかなか良い時間を過ごせた。

 ライブはいつもの通り楽しく歌えた。

 しかし私の前の演奏者が津軽三味線を弾く山影さんだったこともあり、その空気と言うか、その後で歌うのにはプレッシャーもかなりあり、だが、仕方がない、私は歌いに来たのだと言うことを私自身に誇示し、私は一曲目のインドのグジャラートで覚えたグジャラート語の讃美歌を歌い始めた。

 コードはGで始まるのだが、ゆっくりと祈りながら歌い始めると、Keyが外れていることに気が付いた。

 このままゴリ押しして歌い切ることは辞めた方が良いと瞬時に思い、また津軽三味線のライブの後の空気を換えるためにもアカペラを歌うことにした。

 アピアでアカペラで歌うのは初めてであったが、それはそれで良かったと思った。

 ライブ後「てっちゃん、変わらないね~」と山田君はニコニコしながら言ってくれた。

 「20年前の約束をやっと果たせたよ。てっちゃんのライブに行くってカルカッタで言ったもんね」

 「1997~1998年だったから、もう21年前になるよ。早いね、時が経つのはさ」

 私と山田君はカルカッタのマザーテレサのボランティアで会ったのは、まだお互いが若かりし頃だった。

 その時、お互いの間の関わりは何も変わっていない、愛と喜びと感謝の関わりである、まったく有り難いことである。

 この日、ライブには3年ぶりにヘアメイクしている康君も来てくれた。

 康君とも8年前にカルカッタであったマザー繋がりの友達である。

 康君も「テツさん、変わらないね」とニコニコしながら言ってくれた。

 あと会うのは15年ぶり以上になる文化学院の友達のヒガシも来てくれた。

 私の心を喜びに溢れた日にみんながしてくれた。
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びっこのイエス。

2019-12-10 11:58:41 | Weblog

 白髭橋のカレーの炊き出しに来るおじさんたちのなかにびっこを引いたおじさんがいる。

 彼はびっこなので早くは到底歩けない。

 いつもカレーの列の最初の方にいる彼は11時から配られるカレーを随分前から待っているのだろう。

 それは余った二度目のカレーをもらうために他ならない。

 炊き出しのカレーは余った場合、二度目のカレーを配ることになっている。

 それは一度目の列の後ろに並ばなくてはならないが、彼の場合、びっこを引いているので急いで二度目のカレーをもらおうとするおじさんたちに何人かに抜かれてしまう。

 彼はただひたすらに痛むであろうと足を引きずりながら、彼の全力を使い、この二度目のカレーの列に並ぶのである。

 私は彼がどうにか二度目のカレーをもらえた時は、胸をなでおろし、彼に「良かったね」と声を掛ける。

 だが、いつもその間、私は悩んでいる。

 彼の代わりにカレーの列に並ぼうか、彼のために一つカレーを用意していようか、特別扱いしても良いのではないか、いや、彼はそれを喜ぶのか、誰かに嫉妬されはしないか、えこひいきと陰口は言われないだろうか、などなど、私は彼を案じる。

 彼は誰かに追い抜かれても、わざわざ並んだ二度目のカレーをもらえなくても、私が話しかけると、不平不満は絶対に言わない、いつも穏やかに私を見上げて微笑んでくれる。

 彼のびっこを引き歩く姿は十字架を担いだイエスのように私には見えるのである。

 神さまは私を通して、彼を愛していると感じずにはいられないのである。

 マザーテレサの言葉。

 「私たちは、貧しい人たちの中でもっとも貧しく惨めな姿に変容されたイエスを二十四時間見て、愛し、奉仕しながら、世界の真っただ中で観想者なのです」

 
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路上の詩人。その2。

2019-12-09 15:08:23 | Weblog

 私は彼の斜め前に腰を降ろし、歩道の縁に座った彼を少し見上げる形で話しを聞いた。

 彼の話しは終始、支離滅裂ではあったが、その内容の主な趣旨は自分のこの現状はほんとうの自分ではない、自分には名誉、誇りをあり、乞食ではないとひたすら伝えたがっていた。

 私は思った、彼の語るそれは彼の生きる術であり、生きる証しであり、生きる気力である、自分は誰にとやかく言われるのことのない人間であると言うことを伝えたがっていた。

 私には十分にそれが伝わった。

 かなり長い時間、彼の話しを聞いた、その間、私の近く通る炊き出しのカレーを食べ終えたおじさんたちは私にお辞儀をしたり、手を振ったり、挨拶をして通り過ぎて行った。

 だが、きっとその誰一人、彼の目には映らなかったのかも知れない、彼は私を自分自身を証明するものとして捉えて、決して離さそうとはしなかったからだ。

 話すことで彼は彼の脳裏の中で理想の彼になって近づこうとしていたのかも知れなかった。

 ただ何度も「オレは乞食ではない」と言って鼻で笑い飛ばしていた、そうしなくて今を生きて行けないのだろうと私は思った。

 気が付けば、辺りには私たち二人の他、誰も居なくなっていた。

 私は切りの良いところで、いや、そんなところはなかったが、彼のところから離れ、自転車を取りに行った。

 そして、まだまだ話したらないだろう、彼に声を掛けて帰ろうとすると、彼は持っていたビニール袋から、おもむろに何かのチラシを出し、ポケットに入っていたのかも知れない赤のボールペンをいつの間にかに持ち、私の名前を聞いていた。

 私が苗字を教えると、そのチラシに私の名前をなぐり書き、「詩を書いてあげる」と私に有無も言わせぬ、そのチャンスすらを与えぬスピードで言った。

 最初に彼は素早くこう声に出しながら殴り書いた。

 「みんな同じ色をしている 何の色 サラリーマン」

 彼のサラリーマンに対する明らかなコンプレックスと羨望を私は感じた。

 彼は言葉にした詩に物足りなかった様子で次の詩をすぐ殴り書き始めた。

 「人と人の出会いは 神の気まぐれなり」

 そして、そのチラシを私の方に履き捨てるように差し出した。

 彼は私の感想などは何一つ求めず、すべて彼のなかで完了完結されたもののようだった。

 私はただ「そうだね、ありがとう」と言い、「また炊き出しに顔を見せに来てね」と言うと、もごもごと何かを言うようにして頷いた。

 彼のこの現状は彼が考えるに、ただ神の気まぐれだとし、そうすることで自らの境遇を無意識にどうにかしても売れ容れようとしたものが詩として現れたのか。

 私には何も分からなかった。

 ただ彼は必死に詩人として生きていた。

 私に残されたものは胸の痛みと祈りだけだった。

 いや、違う、弱い人間の強さもであった。
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路上の詩人。

2019-12-05 12:06:06 | Weblog

 彼は生活保護を受けながら、五回フランスに競馬を見に行っていた。

 私は以前何度もそのフランスの写真を見せてもらったことがあった。

 彼はフランス語を話せないが、どうにか手振り身振りで競馬を取材しているような、その旅行を楽しんでいた。

 彼はそれを良くボランティアたちに自慢していた。

 そして彼は詩人でもあり、自分の作品が国会図書館にあると良く言っていた。

 
 先週の土曜日、カレーの炊き出しを終えてから、足の不自由な白い髭を伸ばしっ切った男性がブラザーに手を引かれるように炊き出しの場所に来た。

 いつも後から来た人が居ても、カレーを渡せるように、五個ぐらいのカレーは残してある、それを彼に渡した。

 私は彼に声を掛け、彼の話しを聞いた。

 数分後、私は彼の正体がようやく分かった。

 彼は上記に書いたフランスに良く行っていた男性だった。

 出会うのは数カ月ぶりだろう、その変わりようは激しく、以前の趣はなく、以前よりも話している内容も分かりづらく、その会話は支離滅裂していた。

 彼は生活保護を切られ、路上生活を余儀なくされていた。

 最初は役所の悪口が続いた。

 ほんとうに何を言っているのかが分かりづらかったが、役所では「水でも飲んでろ!」と言われたらしい。

 その前後の話しの内容までは分からなかったが、それはたぶん彼が一番傷付いた言葉だったのだろう、はっきりとした口調を憤怒をあらわにしていた。

 私は彼にとりあえず座ってもらい、ゆっくりと彼の話しを聞くことにした。

 彼は話したいことが床にこぼしたパチンコ玉のように相互に口に出す前にぶつかり合い、まっすぐ真意を伝えることが不可能であったが語らずには居られない心境であることは鋭く私の心を貫いた。

 彼はすべてを盗まれたと言い、持ち物は何もなかった。

 ただ汚れたビニール傘とふるさとの会が配っていた古着をビニール袋に入れて持っていた、そのみすぼらしい姿は死の様相をまとっているようにも見えた。

 {つづく}
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パパ様。

2019-12-03 11:38:36 | Weblog

 カトリック信者のほとんどが教皇のことをパパ様と呼んで、愛情深い親しみを持っている。

 それはパパ様の前では聖書で言われる「幼子」のようになることが証ししていると思う。

 パパ様が来に来日した土曜日はMC{マザーテレサの修道会の略}山谷のブラザーと西新井のシスターたちはバチカン大使館のレセプションに呼ばれた。

 17:45分にパパ様は大使館に着くとのことだった。

 私は山谷のMCブラザーの院長セバスチャンにパパ様の写真を撮ってくるようにお願いした。

 しかし私には一つ心配事があった。

 セバスチャンは背が低く、うまく写真を撮れるかどうか心配ではあった。

 と言うのは、セバスチャンはマザーテレサが亡くなった時、最終誓願のためにちょうどカルカッタに居て、マザーのお棺を運ぶ名誉に授かったのだが、いざマザーのお棺を運ぶその時になると、前もって決まっていた人以上の人がマザーのお棺に集まり、背の低いセバスチャンはお棺を運ぶのではなく、どうにかお棺に触れられるような形になってしまったと、セバスチャンから聞いた。

 私はそれで「それは聖書の長血の女のようだね」と言ったものだった。

 今回もそれと同じようになるのではないか、と思ったら、私の予感は少し外れたが、セバスチャンのスマホの写真を見せてもらうと、パパ様はとても近くにいるのだが暗くて、あまり良く写っては居なかった。

 またマザーの時と同じように切なく、だが、微笑ましいエピソードになってしまった。

 パパ様が大使館に到着し、MCシスター純愛がパパ様に花輪をあげたらしい。

 これはとてもシスター純愛は嬉しかっただろう。

 まさにイエスの幼子のようになり、喜んだに違いない。

 ドームのミサの始まる前もパパ様があの手すり付きの車で近くを通ると走って近寄るシスター純愛の動画を見たが、やはり幼子そのままであった。

 私が思うに、聖書には急いで何かをすると言う大切なテーマがある。

 「走って向かう」ただひたすらに神さまのもとに、信じきるその思いで「走って向かう」のである。

 体裁など何も気にせずにである。

 私はそれに無性に魅かれるのである。

 ここで何年かは知らないがローマでのマザーの逸話を紹介しよう。

 その時、マザーはシスターとバチカンに教皇との謁見に向かった。

 だが、その途中、路上でホームレスに会い、マザーは話し掛けた。

 マザーはホームレスの話しを慈しみ深く聞いていたのであろう。

 シスターはマザーに「もう教皇様との謁見の時間になります」と言った。

 マザーはシスターに「教皇様に伝えてください。私はいまイエス様と話しているので遅れますと」と言った。

 マザーにとって貧しい人はイエスそのものである。

 私はマザーのようには到底なれないが、マザーのこの思いをいつでも忘れずに私のこの身体を使いたいと願っている。

 マザーは言う「貧しい人の関わりは神さまの現存の証しである」と。
 
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