カルカッタより愛を込めて・・・。

次のアピア40のライブは9月13日(金)です。また生配信があるので良かったら見てください。

ライブが終り。

2019-03-28 11:51:24 | Weblog

 昨夜アピア40でのライブも無事に終わり、ホッとしている。

 この解放感もなかなか良いものである。

 激しく歌って身体に残った筋肉痛と昨夜の残り酒がふんわりと春の風を気持ち良く浴びている。

 さて、少しゆっくりと何か書こうと思うと、決まって何かし始めてしまう。

 とりあえず、愛犬あんをこねくりまわしてから、いまシークワーサーとレモン、パッションフルーツに水をたっぷりとあげてきた。

 昨年、実がならなかったパッションフルーツは冬場を部屋のなかで過ごさせ、いまいち早く緑のカーテンになるべく、その根をはっているところである。

 今年こそ、その花を咲かせ、実をおがみたいと、私はせっせと水をあげている。

 シークワーサーは今年二本目を地植えした、その木にはもう小さな小さな花芽が顔を出してきている。

 私はそれを相手がきっと照れるくらい見惚れている。

 春の風がふんわりと流れて行く、そのなかで。

中学生から見た山谷。

2019-03-26 11:49:38 | Weblog

 先週の土曜日は梅田教会から若い子たちがボランティアに来た。

 そのなかに中学生の女の子二人が居た。

 自転車で一緒にカレーが配られる白髭橋まで行った。

 その間、私の後方から「キャッキャ、キャッキャ」と言う元気な声が聞こえ続けた。

 白髭橋に着き、カレーの配られる場所のすぐ傍で自転車を降りてから、私は彼女らに言った。

 「どんなボランティアがしたいの?マザーテレサは好き?」

 「マザーですか、好きです」

 「そう、ではね、マザーは神さまの目で見た仕事しか、意味がないって言うんだよ。神さまだったら、どうするかを考えて、良く見ることが大切だよ。自分の目ではない、神さまの目でね。自分が正しいと思っている行動でも相手を気付つけることがある、そのこともちゃんと考えるようにね」

 私がそう言うと、さっきまでの「「キャッキャ」言っていた子供の笑顔が瞬時に真面目な顔になった。

 しっかりと見て考えることが必要である、それは自らを深めると言う作用になり、そしてマザーが言うように愛が必要である。

 炊き出しに来るおじさんたちに愛を与えることは大人にだって容易ではない、ましてや、ボランティアに来ている人たちすべてが愛を与えようと考えている人ばかりではない。

 しかし私はチャンスがあれば、マザーテレサのボランティアであるのだから、食べ物を渡すだけではなく、愛を渡すことをするように伝える。

 中学生にとって、この炊き出しの場で愛とは何かとはすぐに分かる訳ではないだろうが、そうしたもの、分からないもの、曖昧なものも温め続けられるように、自らがそれを育てられるようにあればと、私は望んでいる。

 そしてすべての行動が私のものではなく、神さまの光りを漂わせるようにすることがマザーの願いであり、私はそのことを思う度に、まだまだと思う、これは生涯思うかもしれないとも思うほどであるが、そう言う意志は常に持っていたいと思うのである。

 中学生はどうおじさんたちを見たのだろうか、ゆっくりと聞いて見たかったが、その時間はなかった。

 ただ一人の子に私の「まつ毛が長い、羨ましい」と言われ、「キリンの目みたい」と言われた。

聖ヨゼフの祝日。その2。

2019-03-21 12:04:26 | Weblog

 私は一度だけシスターアグネスに会ったことがある。

 日曜日の日本人のシスタークリスティーの話しを聞いていた時、シスタークリスティーは「彼女がシスターアグネスです」と私たちの後ろを早足で通り過ぎようとしていたシスターアグネスを教えてくれた。

 私はすぐにシスターアグネスを近づき、握手をしてもらった。

 マザーよりも小さな小柄のシスターであった。

 黒縁のメガネの奥には優しい瞳があり、静寂を保っていた。

 もう20年以上前のことであるが、シスタークリスティーはその時のことを覚えていた。

 1997年4月9日にシスターアグネスは亡くなった、その時、私はカルカッタに居た。

 マザーは当時車椅子で生活していた。

 シスターアグネスが亡くなった日、私は午前中プレムダンで働いていた。

 ボランティアはお金を少しずつ出し合い、シスターアグネスのためにお花を買った。

 午後はマザーハウスでシスターアグネスの葬式のミサが行われた。

 シスターアグネスが働いていたシュシュババンのマーシーたちがたくさんそこには居て号泣していた。

 ミサが終り、すぐに遺体がシアルダーにあるセントジョン教会に埋葬された。

 この日、マザーは哀しい顔をしていた、そのことを20年以上経ってから、シスタークリスティーは「やはりマザーはシスターアグネスとの別れはとても哀しかったでしょう」と語った。

 私もシスターアグネスの埋葬には立ち会った、そのすぐ近くにいた車椅子に座ったマザーは硬い表情を変えないまま、土をのせられていくシスターアグネスを見守っていた。

 シスターアグネスの回想。

 「ある日、わたしはマザーテレサに言いました{セント・メリー校の時}。「このような奉仕活動を始めるのが必要だとおっしゃいますが、わたしたちにはすでにお手伝いをする準備が出来ています。

 {当時、マザーは7クラスの生徒を教えていて、貧しい人びとを助ける奉仕の大切さを教え、規則によってマザーは修道院の外に出れなかったが、授業のない土曜日の午後に実際の奉仕活動をグループでさせていた}

 思わず口に出さしてしまったのです。マザーテレサは微笑みを浮かべていました。わたしはハッと気が付き、黙ってしまいました。その時初めて、何かをお心に秘めておられると気が付きました。

 マザーがついにロレット修道会を去られた時、わたしは驚きませんでした。クリークレーンに移られた後、マザーは会いに来るようにと連絡をくださいました。

 わたしがうかがったのは、3月1日。その日のことは、今でもはっきり覚えています。マザーは準備が出来ていますか、とお訊ねになりました。

 わたしは、日にちを指示してくださるのをお待ちしていました、と答えました。

 マザーは、3月19日、とおっしゃいました。その日は聖ヨゼフの祝日です。わたしはその日を待ちかねました。ようやく新しい生活に踏み出した時、神に奉仕する幸せを感じました」

 {つづく}

 

聖ヨゼフの祝日。

2019-03-20 11:26:23 | Weblog

 昨日3月19日は聖ヨゼフの祝日である。

 私は特にこの日に喜びに満たされる。

 それはマザーテレサの喜びをわけてもらうからである。

 1949年3月19日、マザーのところにロレット{セント・メリー校}の教え子だったスバシニ・ダスが入会した日であるからである。

 彼女は後のシスターアグネスである。

 私はカルカッタにいる時、シアルダーの仕事に向かう前に一緒に働いていたボランティアにはいつもそのことを話した。

 マザーハウスからシアルダーまでバスに乗り、降りる停留所のすぐ近くにクリークレーン通りがある、マザーが初めて一人になり住んだアパートがある。

 {つづく}

楽しむことを。

2019-03-18 13:13:46 | Weblog

 ライブが近くなると、なかなかゆっくりとブログを書くことが出来ない。

 今日も仕事の前に家の近くのカラオケ屋で歌いに行ってきた。

 先週喉の痛みから少し体調が崩し、2年ぶりに耳鼻科に行ったので5日ほど筋トレも休んでいた。

 休養もやはり大切であろう、過信はしないようにとの身体からのメッセージだと了解した。

 私は普段、会社の車で利用者の家々に向かい、介護の仕事をしている。

 その間、コンビニのトイレを借りることが多い。

 ただ借りるだけではやはり忍び難いのでタバコを買う。

 私はホープのメンソールを吸っている。

 10本入りの小さな形のタバコがインドのタバコを私に思い出させるのでいつからかホープを吸うようになった。

 19時の仕事を終え、20時からの仕事に向かう途中に必ず決まったローソンに私は行く。

 「トイレを貸してください」と言うと元気な声でいつも「どうぞー!」と帰って来る。

 ここの店員は私がメンソールのホープを吸うのを覚えているので、トイレを終えて、レジまで行くと、2個のホープがレジの横のカウンターにすでに用意されている。

 店員は「2個ですか?1個ですか?」と、この前は微笑みながら聞いてきた。

 他のコンビニでもトイレを借りるたびに買っているのでその日は「1個」と言うと、1個ホープをタバコの棚に戻し、レジを微笑んではじいていた。

 私は少し照れながら「ありがとう」と言ってローソンを出て、喫煙所でホープに火を点けた。

 店員が私のことをどう話しているのか、分からないが、私は嫌な感じはしない、それよりも少し楽しい感じがするくらいである。

 きっと店員はちょっと楽しんでいるのだろう。

 そんな些細なことであるが、それは私に伝染するのであった。

 いつでもどこでも、楽しむことをしていた方が良いだろう。

 他人に嫌な思いにさせず、他人も自分も楽しませることをしていた方が良いのである。

 今朝カリンの小さな紅色のツボミが生まれていた。

 私はそれを楽しんだ。

 

沈黙の声。

2019-03-14 11:58:01 | Weblog

 いま遠藤周作氏の「沈黙の声」を読んでいる。

 この「沈黙の声」はどのように「沈黙」が書かれていったか、または出来上がっていったか、の指針となるエッセイを集めたものである。

 ほとんどのエッセイはすでに読んだものであるが、久しぶりに遠藤氏の文章を再読すると、私は水を得た魚のようにすいすいと読んでいる。

 昨日は「沈黙の声」のなかにあるユダのことを書いているエッセイを読んだ。

 イエスがユダをどう見ていたか、ユダの存在とは、その問いを遠藤氏はきっと何度も何度も思いめぐらせ、実際、その場所にも行き、ユダが見たであろう景色のなかで、ユダが感じたであろう、風や空気を浴びながら、自らの内にユダを生き帰らせ、対話をしたのではないだろうか。

 私は私でその時の遠藤氏を自らの内に想像していると、以前読んだ遠藤氏の対談集「日本人はキリスト教を信じられるか」のなかに出てきたカール・バルトの「イスカリオテのユダ」を読みたくなってしまい、昨夜、飲んだ時にはネットで買い物をしない約束を破り、この本を発作的に注文した。

 1963年の出版された本だから、きっとボロボロのが来るのだろうと思うが、それも楽しみである。

 「日本人はキリスト教を信じられるか」のなかで遠藤氏はキリスト教についてこう語っている。

 「生き続けろ、どんな屈辱を受けてもという考え方がもっともキリスト教的な考え方だと思う」

 「キリストの最大の教えは、裏切るなとか、そういう二次元的な問題じゃなくて、この人生を決して捨てるな、どんなに嫌なことをしようが悪いことをしようが、最期まで絶望せずに捨てるなということの一言に尽きるだろうと、だんだんそういう心境になっているのです」

 上記の遠藤氏の言葉を読んでいると、遠藤氏が「沈黙」のなかで、フェレイラ、ロドリゴ、キチジロウーにそう生きらせているように思えてならない。

 イエスは「あなたを絶対に見捨てない」と神の愛の内に。

義理チョコみたい。

2019-03-13 13:16:51 | Weblog

 フェイスブックのお蔭でカルカッタで出会った友達と容易に連絡を取れるようになったことはやはり嬉しい。

 パソコンがなかった時代、カルカッタにいた時は毎朝マザーハウスのレターボックスを見るのがミサの後の最初の行動であった。

 そして私宛ての手紙をそこに見つけると、一日中ほんとうに嬉しくなり、何度も手紙を読み返したことを今でも良く覚えている。

 今ではカルカッタにいる友達とも、ビデオ通話も出来れば、写真もすぐに送られるし、世界中にいる友達とも、同じように連絡を取り合うことが出来ることが普通になっている、そのことにすら感謝することを忘れるほどにである。

 私の誕生日にはたくさんの友達がメッセージをくれた。

 それは人によって義理チョコを誰かにあげるようなものかも知れないが、そうでないかも知れないし、そうであっても、私はただ嬉しいのである。

 メッセージを書く数秒の間であれ、私のことを何らかしら思ってくれたことに私は感謝する。

 もう何年も会っていない友達の場合、私がその友達のことを思い出す時間がそこには添えられているのである。

 カナダにいるフェルナンドは精神科医になっていた。

 シアルダーのディスペンサリーで一緒に働いていた時、医者だと思っていたが精神科医とは知らなかった。

 カルカッタの後で精神科医になったのかも知れない。

 とてもナイスガイで優しい男だった。

 彼と出会ったのはもう18年ぐらい前のことである。

 私は駅のプラットフォームで重病人を見つけ、ディスペンサリーで働いていた彼に重病の患者を連れてくると伝え、ディスペンサリーの車椅子を押して患者のところに一人で戻った。

 この時は一人で駅を回っていた。

 私が患者を車椅子に乗せた時は患者は呼吸をしていたが、ディスペンサリーに着く直前に呼吸は止まってしまった。

 悲嘆にくれていた私は彼は慰めてくれた「自分も行けば良かった」と。

 彼はそのことを覚えているだろうか、それは分からないが、私のその記憶は消えていない。

 またどういった経緯かは思い出せないが、私とフェルナンドともう名前は思い出せないがベルギー人若い女の子と三人でパークストリートにピザを食べに行ったことも思い出す。

 ベルギーの子はまったく英語が話せなかったが、不思議と私たちは仲良くなったのであった。

 私たちはピザを食べながら、たくさん笑ったことを私は思い出す、言葉もちゃんと通じていないのに、でも、やはり言葉よりも大切なものもあることを私は思いかえせるのである。

 もらった義理チョコを本命チョコだと過信はしていないが、本命チョコにように勝手に頂いても一向に構わないのではないだろうか。

 私は誕生日のメッセージをそのように有り難く頂いている。

 暖かい春の陽射しのもと、スノーフレークは咲き始めた。

 

祈りの日。

2019-03-11 10:38:41 | Weblog

 あれからもう8年が経つ、あの時、私はカルカッタに居た。

 私はその日、私の誕生日を祝ってくれるママ{ニュージーランド人の女性、私のゴッドマザーに後になる人、ママは18年間カルカッタでボランティアをした}の家に行って、津波の映像を見た。

 それ以来、私の誕生日は祈りの日となった。

 だから、私は今日も命の意味を全身全霊で静かに深め、どんな小さなことにも感謝の種を見つけ、望まぬことがあろうとも笑顔を向けようと試み、それを喜んで行いたいと思っている。

スノーフレーク。

2019-03-07 12:05:02 | Weblog

 家から100メートルぐらい離れたところに幼なじみの石坂宅があり、その前には子供の頃によくザリガニを捕ったドブ川がある。

 そのドブ川沿いの5メートルくらいの間にスノーフレークが何か所にわたってあった。

 私は何年も前から、この時期、その前を通る度にこのスノーフレークを私の家にも植えてみたいとずっと思っていた。

 白いティーカップの縁にグリーンの点を付け、逆さにしたような小さなその花の姿は何とも愛らしくて、花言葉を調べてみれば、「純粋」「純潔」「汚れなき心」「皆を惹きつけれる魅力」などと出てくる。

 なるほど私も惹きつけられた一人だと思った。

 先週の金曜日、玄関前に二本の小さなオリーブを植えた、その前に少し空間が出来、そこにスノーフレークを植えてみたいと思った。

 土曜日、山谷のボランティアを終えて帰って来ると、石坂が自宅で車をいじっていたので声を掛けた。

 そしてスノーフレークをわけて欲しいと言ったが、石坂は花にはまったく興味がなく、誰が植えたか分からないと言っていたが、私の思いとしては石坂の家の前にあるものだし、石坂に言えば、勝手に持ち去ったことにはならないだろうと思い、「じゃ、ちょっともらうね。あとでシャベルを持ってくるよ」と言って、家に帰ってから、すぐにビニール袋とシャベルを持って戻った。

 人通りの多い所なので一人でシャベルを持って革ジャンを着たスキンヘッドの男が草花をほじっているのは異様な光景だと分かっていたが石坂には「怪しすぎる」と笑われた。

 しかし石坂が居てくれて、私の恥ずかしさは石坂が少し引き取ってくれたようだった。

 すぐに家に戻り、オリーブの近くにスノーフレークを植えた。

 春の長雨のおかげでしっかりと根が付いたスノーフレークはいま少しづつ蕾を膨らましている。

 

今日から四旬節。

2019-03-06 12:53:41 | Weblog

 今日は灰の水曜日である。

 今日から四旬節が始まる。

 カトリック信者でない人には何のことだがさっぱりだと思うので、ネットからコピペしたものを載せてみる。

 {四旬節(しじゅんせつ、ラテン語: Quadragesima)は、カトリック教会などの西方教会において、復活祭の46日前(四旬とは40日のことであるが、日曜日を除いて40日を数えるので46日前からとなる)の水曜日(灰の水曜日)から復活祭の前日(聖土曜日)までの期間のこと。この期間をとおして節制と回心につとめ、自分の生活をふり返ります}

 前回コルカタにいた時、ケンとファビオは甘いものを一切食べず、イネスは大好きなコーラを飲まずに四旬節を過ごした。

 私は食べ物は今まで通り食べていたが回心に努めた。

 私は信者になり、こうした時期があることが有り難いと思っている。

 この時期は絶えず私がカトリック信者になろうとした意志や決意、その過程を思い出させてくれる時であり、自らを内省する思いを強くさせてくれる。

 今年の四旬節は何をするのか、私に問えば、昨年と同じようなものになるかも知れないが、それはそれで良いのだと思っている。

 昨年の四旬節にしていた一つのことは四旬節を終えてもずっと続けえていた、それは仕事の合間に立ち寄るコンビニのトイレが汚れていれば、軽く掃除をすることである。

 誰にも見られず、私はそれをし、トイレの神さまはきっと喜んでくれていると勝手に思い、私は喜んで、それをしていた。

 こうしたことを書いていると、クレヨンしんちゃんのある言葉を思い出してしまう。

 「努力することは、うんこをするのと同じだ。1、踏ん張ること。2、毎日すること。3、水に流すこと。4、その姿を決して人に見せないこと」

 うまいことを言うな~と、どうしても思ってしまい、それだけに留まらず、微笑んでしまう、クレヨンしんちゃんの素敵な言葉である。

 あなたはそう思わないでしょうか?

 そして毎日、何を努力するのでしょうか?

 私はトイレ掃除以外のことは神さまとの内緒にしてもらい、日々、それをこっそりと喜んで努力しようと思っています。