カルカッタより愛を込めて・・・。

次のアピア40のライブは9月13日(金)です。また生配信があるので良かったら見てください。

アジも釣れる!

2022-09-29 12:40:20 | Weblog

 

 写真は二週間前のものである。

 ウルメイワシとアジの刺身である。

 この美味しそうに光り輝く刺身を私はまた食べたい。

 だから、明日は釣りに行く前にしっかりと包丁を研いでから行く。

 先週は釣りに行けなかったから、その分、もうドキドキウキウキが増し増しである。

 明日は二週間ぶりの釣りである。

 楽しみでしょうがない。

 昨日は愛車ラパンのオイルとオイルフィルターの交換した。

 だから、意味もなく、金曜日は魚が釣れると思った。

 ガソリンも満タンにし、タイヤの空気圧も整えた。

 準備は整っている、アジはたくさん釣れると思った。

 洗車もした、タイヤもピカピカにした。

 金曜日は何度も何度も竿に付けた鈴がなり、竿が海面に引き込まれるようにしなることになるだろうと思った。

 仕事から帰り道、雨に降られた。

 数ヶ月ぶりに洗車したその日に雨に濡れるラパンと会った。

 良いことが続かないように、悪いことも続かない。

 だから、私は微笑み、金曜日はアジがたくさん釣れると思った。

 この帰り道、京王ストアーに寄り、しょうが、みょうが、大葉を買ってきた。

 なめろうと作る準備は万端である。

 お刺身も綺麗に作れる。

 もうアジがたくさん釣れることしか考えられなくなっていた。

 


最近の釣果。

2022-09-19 12:06:54 | Weblog

 

 釣りとは魚がいて、いや、魚がいたとしても、魚が餌や餌だと認識したものを食べてくれないと成り立たないものである。

 そこに潮の流れや、海面下のドラマ{例えば、大きな魚に追われ、小魚が私の竿先の前を逃げ通るなど}、それに私の想像を超えたものとして、運、不運などもあるだろう。

 釣れない時には周りのゴミ拾いをして、魚を釣ろうとする釣り人までいるくらいだ。

 もちろん、私もその一人、釣れない時はゴミを拾い、魚が釣れる運をも拾おうとする。

 もちろん、魚が釣れた後も感謝の意の込めて、釣り場のゴミ拾いはして、グランドを去る野球児のように一礼を海にしてから帰るのである。

 ここまで書いて、釣りをしない人にも分かってもらるだろうか。

 釣りをすると言うことは童心に帰ることでもあり、帰れることもある。

 だから、隣の人ばかり釣れて、自分が釣れない場合は悔しくてしょうがなくもなる。

 あの手、この手を使ってでも釣りたくなり、最終的には魚が釣れるように祈っている次第である。

 そんな私も最近は自分で言うもの何であるが腕をあげてきたと思う。

 いつもそれなりの釣果を得て、帰宅できるようになった。

 もちろん、秋の釣りシーズン到来、やっとアジが釣れ始めた季節と言うこともあるが、努力もそこにはあるだろう。

 釣りに行ける金曜日が近づく度に、次はどのような仕掛けで行くか、コマセはどうするか、などなどの妄想は山ほどして準備をしているのである。

 その結果として、隣の人が釣れてなく、私が釣り始めるとすぐに釣り上げてしまうことがある。

 しかし、そこは童心を抑え、何事もなかったかのように、ヒットを打ち、平然としているイチローのように振舞うである。

 そして、喜びを内心、思いっきりと噛みしめながら、次のアタリを待つのである。

 それが楽しくてしょうがない。

 それを思い出す度、今なお、私は笑顔になってしまう。


山谷の不思議。

2022-09-13 12:34:03 | Weblog

 

 先週の土曜日、山谷のMC{マザーテレサの修道会の略}のボランティアのHさんから聞いた話しを紹介する。

 Hさんはその日、翌朝ブラザーたちの移動の手伝いをするため、MCの施設に泊まっていた。

 エアコンなどない施設である、その日はとても暑く寝付けなかったので一階のフロアにあるテレビを見ていた。

 すると、玄関のチャイムが鳴った。

 時間はすでにPM11:30である。

 「どうかしましたか?」Hさんが玄関のドアを開けて、外に立っていたおじさんに聞いた。

 「ダニエルさんはいますか?」

 ダニエルはすでに8年くらい前に山谷からフィリピンに移動し、現在は家族のケアのためにイタリアに帰っていた。

 そのことをHさんはおじさんに伝えると、彼はこう言った。

 「ダニエルさんに洋服をもらおうと思って」

 良く見ると、そのおじさんはバスタオル二枚、腰と胸に巻いていた。

 「さっき、向こうで身ぐるみをはがされて・・・」

 「えぇ、そうなんですか?とりあえず、中に入ってください」とHさんは言い、おじさんを施設のなかに入れた。

 また良く見ると、そのおじさんは靴も履いていなく、服をあげると、バスタオルの下は、ほんとうに何も着ていなかった。

 さて、不思議である。

 おじさんはどこから来たのだろか?

 どこで身ぐるみをはがされたのだろうか?

 何よりも、その二枚のバスタオルはどこで手に入れたのだろうか?

 もしバスタオルが手に入るのであれば、靴ぐらいは履いていても良いのではないだろうか?

 不思議である。

 だけど、面白い。

 そのおじさんはダニエルが居なくなったのを知らなかった。

 と言うことは8年ぶりくらいにMCの施設に来たのである。

 それも深夜。

 バスタオルだけを巻いて。

 おじさんは優しいダニエルなら、いつでも助けてくれると思ったに違いない。

 ダニエルはほんとうに優しい男であった。

 その記憶はこのおじさんのなかにも未だに消えてなく、愛の炎となり、輝ていているのかも知れないと、私はHさんの話しを聞きながら思った。

 


今日はマザー・テレサの記念日。

2022-09-05 12:37:20 | Weblog

 

 今日はカトリックではマザー・テレサの記念日である。

 世界中にあるマザーの施設では記念日を祝っていることであろう。

 私も私のうちで祝おう。

 何故祝う?

 愛があるから?

 その愛はマザーの愛と似ている?

 神さまが望むものと似ている?

 祝うだけで良いの?

 あなたにはすることがあるでしょう。

 「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」

 この聖書の言葉は写真のマザーのお墓に刻まれている。

 わたしはコルカタにいた時、毎朝夕、マザーのお墓に触れ、この言葉をじっと眺め、内省した。

 そして、そう出来ない私を何度も告白し、そう出来るように、マザーに願い、愛を乞い、祈っていた。

 その私はいまも同じである。

 徹底的に愛のない男である。

 だけど、いつもマザーが私を正しい道に連れ戻してくれる。

 導いてくれている。

 マザーは見捨てない。

 マザーは私のうちにいる。

 私がコルカタで働いている時に小さなメモ帳にいつも書いていたマザーの言葉がある。

 Don't search for Jesus in far lands. He is not there. He is close to you. He is in you.

 あなたも今日はあなたのなかにいる神さまを感じて見てはどうだろうか。