一緒に働いているアイリッシュのバーニーはほんとうに凄い、ほんとうに素晴らしい、もうすぐアイルランドに帰るので、あと数日しか一緒に働けないが、今回も一緒に働けて、私はほんとうに幸せである。
バーニーの素晴らしさは書き切る事など決して出来ないが、いま時間があるので少し書こうと思う。
バーニーは今日もソヌーの仕事を探していた。
シアルダーの病院の傍に住むソヌーとは11歳の男の子、私もソヌーがほんとうに小さい頃から知っている。
バーニーは彼を学校に行かせるために仕事をさせ、その給与で学費を払うようにしようとしている。
そこまで他人の人生を背負う大きな愛がバーニーにある。
もちろん、ソヌーの家族のケアもしている。
何年か前はソヌーの姉の仕事も探し、その面接の前にはシラミ除去のシャンプーまでも用意してあげたり、ソヌーの母親の調子が悪ければ、病院や薬のことも手助けする。
もちろん失敗や騙されたりもするが、それでも決して見捨てたりはしない。
今日は国の病院にいる2人の男性患者を退院させ、他の場所に移そうとした。
2人とも歩くことが出来ない。
1人は15歳ぐらいのハンディキャップの話すことも出来ない男の子である。
もちろん家族は居ない、毎日朝、駅に行く前にボランティアが彼の服を着替えさせ、食べ物をあげている。
誰もケアをしてくれないので朝行くと糞尿まみれでびしょびしょになり寝ている。
今日は2人を退院させようとしたが許可がおりなかった。
インドを知らない人は何故と思うだろうが、ここでは多々あることである。
今日バーニーはかなり失望しただろうが、今夜2人のために祈っているだろう。
今日はシリアスな患者をプレンダンに私一人で運んだ。
メリーは病気でここのところ、駅の仕事を休み、他のみんなは駅を回り終えたあと、病院から患者を退院させるなどのそれぞれの仕事に向かっていた。
シリアスな患者とは、簡単に言えば、もう亡くなりそうな虫の息の患者のことである。
患者は70くらいの男性、昨日、私が会った時には座ることも出来、あげた食べ物も食べることが出来た。
たが、気になって、昨日は二度会いに行った。
二度目にチャイと水をあげ、二個目のゆで玉子もあげた。
彼はパンをチャイに付けて、しっかりと食べられたので、その日はプレンダンに運ばずに、近いうちに運ぶことをみんなで決めた。
しかし今日は昨日とは全く違い、目は目ヤニで開かず、仰向けになり、手足をひっきりなしに動かしていた。
昨日は身体を覆っていたショールは彼から離れたところにあり、ルンギはめくり上がり、下半身を露わにし、服も尿で汚れていた。
私が彼に話し掛けていると、彼を心配した綺麗なサリーを着たお金持ちであろう女性が話し掛けて来た。
私がこの患者をマザーテレサの施設にこれから運ぶと言うと、そうしてくださいと言い、彼にも心配しないで良いからと少し離れたところからだが話し掛けてくれた。
アイミイが車イスを持って来た、ブレーキなどない駅の車イスなので、その女性に車イスを押さえておいて欲しいと頼むと、すぐに手を貸しめくれた。
タクシーに乗せるまで、アイミイには手伝ってもらい、私と患者はタクシーに乗り、プレンダンに向かった。
しかし今日はインドの何かの休日でちょうどパレードがあり、車は激しく渋滞していた。
タクシー運転手は全く動かないところでも、周りのタクシーに向かって、道を譲ってくれ、患者が死にそうなんだと怒鳴っていてくれた。
車が空いていれば十五分で着くのだが、五十分ぐらい掛かってしまった、その間、患者の息が止まるのでないかと何度も思い祈り続け、そして心の中で謝り続けた。
私が昨日のうちに運ぶことを決めていれば、こんなにも苦し
まないで済んだのに、私があなたを苦しませた、あなたのことが気になっていたのに、私が迷ったばかりに、あなたは瞳も開けられず、暗黒の苦しみの中へ送り込んでしまった。
私をどうか許して欲しい…、彼の肩をしっかりと支えながら、汚れきった彼の顔を見つめ続けた。
プレンダンにどうにか息絶える前に着いた。
近くにいたボランティアに彼をタクシーから下ろすのを手伝ってもらった。
彼は担架に載せられ、そのまま点滴がされた。
シスターやワーカーたちも大切に彼をケアしてくれた。
もう誰もボランティアは居なくなり、私は一人で帰った。
帰り道、私は足元から数歩前しか見ることが出来なかった。
そう身体が固まったようになり、上を向く力もなく、重い十字架を背負って歩いているようだった。
しかし背負っているものが十字架だと、感じていくと、あの方が私と一緒になり、背負ってくれているような気がして来た。
気が付くと祈りの中にいた。
一人の弱ったヒジュラーが駅にいる。
どうも転んだようで右手がかなり腫れて痛がっていた。
ちなみにヒジュラーとはオカマのことである。
この前、バーニーがテツはどう呼んでいるの?と聞くので、ディディ(お姉さん)と呼んでいると答えた。
なぜなら、彼女は女性として生きているからである。
彼女の名前はプジャー、今日名前を聞いた。
たがプジャーはあまりに汚れている、髪の毛はぐしゃぐしゃだし、ヒゲも生えている。
明日ディスペンサーで身体を洗うように言うとプジャーは頷いた。
身体を洗い、キレイな服を着れば、美しくなるから、と言うと白い歯を見せ笑っていた。
ディスペンサーでみんなでもしプジャーをMCの施設に運ぶのあれば、どこに運ぶのか、話し合った。
私はもちろん女性のみのシャンティダンが良いと言うと、ジョンはプレンダンで女性病棟と男性病棟の真ん中が良いんじゃないかと言った。
私はそれに付け足して言った、もしプレンダンに運ぶのあれば男性病棟が良い、男だらけでプジャーはハッピーだろうと。
みんな笑っていた。
しかしプジャーはいつも一人でいる。
普通ヒジュラーは数人で行動するものであるが、プジャーにはきっと何かがあったのだろう、にも関わらず、美に対する意識や笑顔を忘れていなかった。
明日ゆっくりプジャーと話すのが楽しみである。
そう言えばプジャーは足も痛くて歩けないと言っていた。
ディスペンサーまで行くには車イスが必要だが、今ディスペンサーには車イスがない、近いうちに私たちが買わなくてはならない。
今朝マザーハウスの門の前にはあの老犬がいた。
傷にはちゃんと薬が塗布されていた。
今日はシアルダーから施設に運ぶ患者はいなかった。
今朝シアルダーのサウスステーションにジョンと向かっていた時、弱った老人に会った。
服は汚れシラミがたかり、どう見ても歩けそうではなかったが、彼はビリーを欲しがった。
ビリーとは1番安い巻きタバコである。
私はビリーは戻って居なかったがタバコを持っていたので、タバコでも良いかと聞き、タバコとマッチをあげ、サウスステーションに行った。
サウスステーションを回り終え、集中場所に集まると、バーニーも彼に会っていて、彼をプレンダンに運ぼうと言った。
私は少し渋ったと、言うのは、プレンダンの男性病棟はいっぱいで、まだその彼はシリアスな状態でなく、ビリーを欲しがるくらいだったからだ。
渋る私の態度にバーニーは、彼は明日には死んでしまうかもと脅した。
そして2人でもう一度会いに行った。
あげたパン、バナナも彼は食べていなかった。
ただしっかりとタバコは吸い終えていた。
バナナすら食べれないほど弱っていることが分かり、私も運ぶことに決めた。
プレンダンのシスターは彼を受け容れてくれた。
私は数日前に私が運んだ右足腐り骨が見えていた患者を探した。
その患者は2日間何も食べ物が食べれない状態で点滴をシスターがしているところだった。
シスターたちが優しく食べ物を食べるように勧めたが、何も欲しがらなかった。
彼は私のことは覚えていた。
たが始終苦しそうだった。
私は優しく彼の頬、そして額に触れ、祈るばかりだった。
マザーハウスの門の前には右前足の悪い老犬がよくいる。
その老犬の首には大きな傷がある。
この前、その老犬の首の傷に朝の門番のシスターがパウダーの薬を振りかけていた。
それを見て、ニコッとすると、そのシスターもニコッとした。
私はその後、その老犬にこっそりビスケットをあげた。
昨日はハウラーのボランティアのアメリカ人のケンが愛犬の写真を見せたので、私も愛犬アンの写真を見せ、愛犬に会えいお互いを慰め合った。
ケンは柴犬を知っていたので、「おう~、シバ、シバ!」と言っていた。
思わずあんの写真をたくさん見せた。
昨日の朝はブラザージェフがマンサタラからパークストリートまで自分とジョンジーを迎えに来てくれた。
ミサを終えてから、ブラザージェフは施設を案内してくれた。
ブラザーたちのマザーハウスである施設の歴史も教えてくれた。
そして、マザーから最後の贈り物も見せてくれ、その経緯を話してくれた。
それはマザーが毎日触れていた、小さな額に入ったイエスの肖像画だった。
ブラザージェフは、マザーハウスで午後にマザーから、それをもらった。
その時、マザーはいろんな人と話していた。
ブラザージェフがロスに行くために夜、空港に行くと、チェックインを済ませた後、自分の名前を呼ぶアナウンスが聞こえ、呼ばれた場所に行くと、マザーが亡くなったことを知らされた。
そして、ブラザージェフはロスに行くことを辞め、マザーハウスに向かった。
こうして小さな額に入ったイエスの肖像画が、ブラザーたちに贈られた最後のマザーからの贈り物となった。
私はマザーが自らの死期を知っていたように思えてならない。
毎日触れていた大切な物を大切なブラザーに手渡し、あとを頼むような思いがあったのではないかと思う。
それと最後の最後まで与え続けたのがマザーである。
マザーは生涯現役だった。
ブラザージェフはその日がマザーと会う最後の日になるとは夢にも思わなかった。
明日はジョンジー(私は私に洗礼を与えたくれたオーストラリア人司祭ジョンのことをジョンジーと呼ぶ。ジーとは、日本語で言えば、さま、と言うことである。だからジョンさまと言うことになるが、もっとも久しく仲が良い、兄弟のような親友なのでお互いをジーを付けて呼び合っている)とマンサタラのブラザーの家のに行く。
マンサタラはMCブラザーの本部であり、ブラザーのマザーハウスである。
明日の朝、ジョンジーがマンサタラでミサをあげるので、私も呼ばれた。
この前、ブラザージェフとバルナバス、バルナバスの友達のブラザーと食事をした時に、私がまだマンサタラには行ったことがないと言うと、是非来て欲しいと言ってくれたので、明日行けることになった。
明日は朝、ブラザージェフがパークストリートまで迎えに来てくれる。
さて、もう寝よう。
隣にあるバーからもれる音がかなり大きいが、疲れが、それを遠ざかることを期待して。
昨日はシアルダーを終えた後、マザーハウスのシスターから頼まれた患者のことでHOPEの病院に行き、ホテルに帰って来たのか2時だった。
もう何処にも行きたくないほど身体は疲れきっていたが、とにかく何か食べなくてはと、ホテルの前にあるティルパテで焼きそばを食べた。
いつも2皿食べるのだが、疲れ過ぎていて食べる気もしなかった。
すぐにシャワーを浴び、洗濯は後回しにして、お茶を飲み、一息ついた。
それで疲れがどこに行くでもなく、変わらずに全身にまとわり付いていた。
もうシュシュババンのオリエンテーションに行く時間だった。
ほんの少し横になったがベッドに吸い込まれそうになり、慌てて起きた。
覚悟を決め、気合いを入れ、外に出た。
激しく鳴るクラクションの音、舞い上がる噴煙、おびただしい人の流れに覚悟と気合いは木端微塵になったが足を止めることはもう出来なかった。
祈りが始まった。
私は私のこの疲れ、そこに渦巻く弱さを乗り越えたい、いつも望んでいたが、それが難しかった。
だが、いまちょうど試されていると思うと、私は疲れきった私を試してやろうと思った。
シュシュババンには50代の日本人の女性が2人いた。
私は疲れきった私を隠しきり、オリエンテーションが出来た。
シュシュババンでボランティアすることになった英語の全く出来ない2人だったので、彼女たちがボランティアする幼児の所に連れて行った。
ちょうど幼児たちの祈りの時間だった。
まだまだ祈りに集中出来る歳ではなく、騒いでいた。
でも、そこで幼児たちに触れると、疲れきった私は何処かに行き、癒やされて行くのを感じた。
カーリーガートで働き疲れたマザーがシュシュババンに行き、子供たちに会い、疲れを取っていたことを思い出した。
それを実感した。
2人の女性も深く嬉しそうだった。
子供たちの笑顔の力とはなんと素晴らしいものかと改めて深く感じた。
今日は木曜日なのでボランティアはお休み、掃除洗濯をしてゆっくりと過ごしている。
昨日は忙しくてブログを書くことは出来なかったので、まず昨日書きたかったことから書いてみる。
火曜日の夜はアドレーションの後、パスカーレのフラットでデナーを食べた。
パスカーレはフランチェスコ会のイタリア人司祭で1996年からカルカッタにいる、私の古い友達の一人である。
マザーハウスから、一緒にパスカーレのフラットに行くと、すでにサラダとパスタのソースは出来上がっていた。
イタリアのチーズも出してくれた。
食事の後、パスカーレはプロジェクターでたくさんの写真や動画を説明しながら見せてくれた。
そのすべて美しいものであったが、なかでも、亡くなる三日前のプレンダンを車イスで訪れたマザーの写真には胸が締め付けられた。
当時男性病棟の責任者だったシスターポリタが嬉しそうな顔をして付き添っていた。
マザーはこの日すべての患者を祝福したそうだ。
マザーは最後の最後まで現役で働き、その身体をすべてイエスに委ねていたことを目の当たりにした。
ダイヤダンの子供たちのドラマも素晴らしかった。
パスカーレは一人ひとりの子供の名前を言いながら、この後、その子供がどこに行ったか、いまどうしているかまで話してくれた。
盲目の子供を養子にもらったアメリカ人のボランティアのことも教えてくれた。
ほんとうに感慨深く、それらの写真や動画を見た。
パスカーレは愛の行いを伴ったシンプルなマザー愛の素晴らしさをずっと話してくれた。
ただパスカーレは名声、名誉、お金のために写真を撮ったりするために来るボランティアを嫌っていた。
これはパスカーレだけでなく、ジョンもそうである。
1994年から何度か来ている韓国人のボランティアが朝のミサで写真を撮ったことで、ジョンは、彼は変わったと、お喋りなあまり彼と話さなくなった。
韓国人の彼はもちろん私の友達である、そして彼はライターでもある。
だから、写真を撮る必要もあったのかも知れない。
ただやはり古いボランティアはそうしたことを嫌う。
なぜなら、マザーも好まなかったことであるからだ。
シスターメルシーマリアも朝のミーティングで許可を取っての施設での撮影であれ、フェイスブックなどの公共の場には患者たちの顔を出さないで欲しいと言っていた。
患者たちへの配慮、マザーを悲しませないことなどがその意向である。
パスカーレの家から帰り道、20年以上経つ、マザーと出会ってから年月を振り返った。
あまりにも美しい想い出が次から次へと波のように、私の胸に打ち寄せてきた。
マザーのカレンダーが欲しいと思っていた。
フリーストリートの本屋にはあったが、そこでは買いたくなかった。
パウロ会の本屋に行ってもマザーのカレンダーはなかった。
すると、朝、これから駅に向かおうとしていると、シスターメルシーマリアに呼ばれた。
「日本語のカレンダーがあるから」と。
見ると片柳君の日めくりのマザーのカレンダーだった。
山谷で貰わなかったので、持っているとも言えず貰った。
縁があるのかな、とも思った。
このことを山谷のMCで話すと、きっとみんな笑うだろう。
その訳は書かないことにしておこう。