カルカッタより愛を込めて・・・。

次のアピア40のライブは9月13日(金)です。また生配信があるので良かったら見てください。

鹿児島。その2。

2009-09-30 12:55:22 | Weblog

 「吹上浜」

 まず、市内から吹上浜を目指した。
 東シナ海を見たかったからだ。

 想像よりも早く市内から吹上浜の公園に着いた。

 大きな公園の駐車場はがらがらで誰も居なく、少し歩くと広い芝生の広場でゲートボールのようなことをしているおばぁーちゃん二人と木の下でご飯を食べている家族だけしか居なかった。

 あとは蝉時雨。

 海を目指して歩き始めた。どこをどう行けばいいか、道路脇にあった地図を見たがよく分からなかった。

 とりあえず、松林のなかの道を歩き始めた。

 海が見えなかったから、いつまでこの松林が続くのだろうか、その浜は砂丘にもなっていたのでほんとうに着くのだろうか、あと何キロももしかしたら歩かなくてはいけないのか、少し心配もしながら歩いていた。

 しばらく、歩くとなだらかな坂道が見えた。そこで空も見えた。

 そこで期待は瞬時に膨れ、心配は消え、笑顔と元気が出てきた。

 {つづく}
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鹿児島。

2009-09-29 10:48:33 | Weblog
 昨日、帰ってきた。
 成田に着くとその人の多さに圧倒されてしまった。川崎駅でも、そこに歩いている人たちの多さに何か違和感を感じてしまったり、不思議な感覚を覚えた。それはきっと鹿児島ののんびりさが自然と自分に移されていることの証しだと気が付いた。

 それが旅の楽しさを浮き上がらせ、また、そこから離れた寂しさを抱き合わせる。これも旅の一風変った土産の一つだった。

 さて、何をどう書こう。

 書きたいことは山ほど海ほどある。

 まぁ、それは思い出した順から書き出してみたいと思う。

 
 {芋焼酎}

 まず、驚いたのが芋焼酎が安い。そして、たくさんある。

 ディスカウントショップでは、同じ一升の焼酎がこちらと250~300円ぐらい安く売っている。

 それを眺めているだけで、自分の瞳は誰かがマンガに描けば、星を何個も付け足すだろう感じになっていた。自然と笑顔になった。

 鹿児島では焼酎を抱き合わせで売っている。これは画期的だった。そこまでして焼酎を売りたい思いなのか、それより年中バーゲンセールなのか、それ、いいねってワクワクした。

 実際、そうして売った方が何かの利益になっていくのだろうが、生まれて初めて見たので、それがどうにも面白かった。

 芋焼酎たちが自分のためにサプライズパーティーを開いてくれているようだった。自分の心は踊っていた。

 選ぶのにどうしても時間が掛かったが、間違えはなかった。

 最初の夜にその芋焼酎は空になった。

 とっても美味しかった。

 次の朝、空のボトルは微笑みながら、「美味しかっただろ~」そう言っているようにテーブルに立っていた。

 「ありがとう、それは美味しかった」言葉にせず、そうした顔を作り、身体で答えた。

 それは心地良い二日酔いの朝だった。

 {つづく}
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かけがえのない日々。

2009-09-23 13:06:35 | Weblog
 時は戻らない。

 過去は変えられない。過去に戻れない。

 しかし、私たちは過去を引き連れて、今に至る。そして、この瞬間に呼吸し生きている。

 天に旅立った人を惜しむ思い、その辛さは、それだけ、愛された思いから生まれ来るものである。痛みは感謝であると言っていい。もちろん、それが身体に馴染むまでは時間が掛かるだろうが・・・。

 大好きな作家先生が亡くなった。

 その家はその作品のままのあたたかな家庭だった。優しさと穏やかな空気がいつも流れていた。

 そこから学ばせていただいたものは、かけがえのない愛だった。

 そして、謙虚さだった。

 言葉にしたいことはたくさんあるが、これはまたいつか書いていきたい。

 ご家族のことを思うと、ほんとうに胸が痛む。

 ただただご冥福をお祈りしている。


 自分は明日から鹿児島に行く。月曜には帰ってくる。それまでは暫く書くこともお休みする。
 鹿児島では三月にインドへ行ったNPO「風に立つライオン」の人たちに会うつもりだ。その理事の堂園先生の堂園メディカルハウスにも行く予定。

 温泉や海、山、芋焼酎をのんびりと楽しもうと思っている。

 これも神さまからの贈り物のように思える。

 自分を癒し救ってくれるものを用意してくれていた。

 かけがえのない日々を生きれるように。
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クレヨンしんちゃん。

2009-09-21 12:55:05 | Weblog

 とても残念なことが起きてしまった。
 しんちゃんの作家さんが不慮の事故で亡くなってしまった。

 ご冥福を祈ります。

 インドでもしんちゃんは放映されていた。ヒンディー語のしんちゃんを見て、自分はよく慰められていた。

 毎週金曜は一人暮らしのばぁーちゃんとしんちゃんを見るのが二人の楽しみにもなっていた。

 しんちゃんの映画は素晴らしいものが多い。かなり前だがしんちゃんの映画について書いたものを載せてみる。

 
 「クレヨンしんちゃんに涙。。」

 年を取る度、最近だんだんと涙もろくなってきた。
この前、テレビで放映していたクレヨンしんちゃんでもばっちり涙した。
 ここで、安易に馬鹿には決して出来ないしんちゃんの映画のクオリティーの高さがある。
 
 「色即是空 空即是色」の掛け軸の向こう側にある世界に時空のずれを直すために未来に行き、海獣と3分間で戦い、それに勝つという話しが主だが、ここには突っ込みたくなる深い人間の心理がある。
 まず、般若心経の掛け軸とは面白い。色即是空には「生じたものは必ず滅する」という意味があり、物事に執着はしないようにとの教えがあり、空即是色には色即是空の対句であり、こだわりを捨てた世界に広がる安らぎの境地を表している言葉だ。
 ここの前で海獣と戦うのを待ち、掛け軸の向こう側に行くと言うだけでも面白いものだ。
 しんちゃんの両親、ヒロシ、ミサエは正義の味方になり、海獣と戦うのであるが、ここに問題が出てくる。
 二人とも「正義の味方は弱いものに優しい」と正しいことを繰り返しているうちに、良いことをしていればそれだけでいいという歪んだ正義感に変わっていく。それに正しいことをしているという優越感に麻薬のように溺れていき、堕落した生活になっていく。。変身願望があり、自分に無いものを求め、変えられないものを変えられる幻想に溺れ、日常生活のストレス解消のために正義の味方になるというナンセンスを彼らの意識の中から消し去ってしまう…。

 どうしてそうなっていしまうのかといえば、今あるものに満足できない心があり、満たされていない心がある。それに対する問いはすべて般若心経のところに繋がる。

 さて、ラストシーンが素晴らしい。
 家族全員で戦い、もうダメかもしれないと最後の最強の敵を向かえる。
 しんちゃんの最後に戦うもっとも強い敵はなんとしんちゃんと同じ姿をした者だった。ここでスターウォーズを思い出した人もいるかな?ダースベーダの敵は…というところのようにも思えた。
 もっとも強い自分の敵は自分だということ。その自分に勝つということ。それは般若心経の教えが含まれている。
 映画を観ていた自分が一番感動したのは、悪戦苦闘しながら戦い、落ちていく敵を救うシーンでのしんちゃんのセリフだった。
 「正義の味方は強いものにも優しい…」そう親にいう、判ってもらいたいような顔をしながらいう、そして、親に認められる。親に褒めてもらえる。親に喜んでもらえる。親に抱きしめられる。どんな親であれ、子供はそうされることを何よりも望む。

 素晴らしいと思った。
 誰もが、自分よりは弱いもの、劣ったものには優しく出来るが、自分よりも強いものに優しくなかなか出来ないものだ。
 ヒロシとミサエのようなものが自分を含めた世間一般であると思うが、「正義の味方」は何から生まれるかと言えば、それは愛だろう。両親から認められるという実感を伴った愛だろう。
 そして、ヒーローは誰も出来ないようなことをする。「自分よりも強いものにも愛を持って接する。敵をも愛する」ということになるだろう。そんなヒーローに憧れ抱き続ける。

 最後に余談だが、最近やっと読み終えたエリクソンの「青年ルター」にはルターのこんなことが書いてあった。
 悪魔を倒すために必要なのはお尻と放屁。ルターは本気でそう思っていた。ここだけを理解しては危険ではあるが、その当時の迷信や魔女意識なども考えると理解出来そうにもなるが、興味がある人は調べるといい。そして、しんちゃんがお尻を出したりする行動をフロイトがいうような肛門期の話にも繋がると思う。

 クレヨンしんちゃんをこうした感じで見れば、また一味も二味も違うと思う。

 涙もろくなるのは、それだけ生きることを体験し実感し理解し出来てきたある種の表れではないかと思う。そして、その涙の手伝いをするのが焼酎でもあるのが事実でもある。

 
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高尾山。

2009-09-20 12:46:50 | Weblog

 昨日はかおりちゃんと高尾山に登った。

 もう中学のときの遠足ぶりに登った。ケーブルカーを使わずに下駄で登った。

 駅前でおにぎりとワインを買った。ビールがいいなって少し思ったけど、歩いているうちに温まってしまうことを考えれば、ワインにした。

 少し歩くとチーズを買えば良かったかと思いながら登り始めた。

 川に沿って登っていく六号路を選び、のん気に歩いていた。

 歩いて行くとかなりちゃんとしたハイキングだと気付き始めた。それでも、辺り一面、そして、視界の上までも広がり包み込まれるような自然のなかに入ると、自分のうちにも自然の呼吸が始まりだし、辺りと一体化するような生き物の一つであることに気付き、その小さなものであることから大いなるものへの畏敬の念に囚われていった。

 ここに来ることを選んでくれたかおりちゃんに感謝した。

 山から下りてくる人と「こんにちは」と挨拶をする。それが何だか照れくさいようでもあったが嬉しい思いにもなった。それは普段の非現実であるからだろう。道で知らぬものと会っても挨拶などしないのが現実であり、その状態からまた何かを気付かせてくれるもののようでもあった。

 休み休み歩いた。途中、川のほとりで昼食を取った。
 たくさんの小さな子カにを抱いたサワガニも捕まえてみたりして遊んだ。ワインもおにぎりも美味しかった。

 ゆっくりと呼吸して、その空気を頂いた。それまでも美味しかった。


 また歩き出す、やはり下駄で歩いているものなど誰一人居ない。通りすがったおじさんに「下駄なの、強いね。」と言われた。そのあと、ほんとうに少し下駄では辛い道もあったりもした。

 体力が無くなっていることを体感しながら、「まだかな、まだ到着しないかな。」何度も声に出しては、下駄を前に出し続けた。最後の木の階段がやけに長く感じた。

 それでも、頂上付近に着いたときには、恥ずかしいけど、少し満足も得られた。長い間感じ入ることの出来なかった達成感を感じた。

 帰りケーブルカーで降りた。天気はいま一つだったがたまには山に行くのもいいと思えた。

 少し筋肉痛ではあるが、さて、今日は仕事に行こう。

 強い陽射しも爽やかな今日である。

 
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今宵。

2009-09-18 12:45:51 | Weblog

 夕顔は一輪花開く。随分、長い間楽しませてくれた。その感謝の思いでつぼみを眺めている。

 花開くかどうか分からない小さなつぼみもあるが、もう枯れた大きな種も付いている。

 来年はこの種でまた夕顔を楽しもうと思っている。硬い種は少しやすりで削ってから発芽させるようだ。

 うまく出来るかどうかは分からないが、それも楽しみに感謝の思いでつぼみを眺めている。

 つぼみがなくなったあともしばらくその種を育てるために枯れるまで水をあげよう。

 その命を全うし、新たな命の繋がりを保てるまで水をあげよう。

 目に見えず、手に触れることの出来ない期間も、それは心に大事に保管していくことになる。

 忘れることはない甘い香りも夜開く華やかな白い大輪も、種とした形に姿を変え、季節を越えていく。

 感謝の思いとともに季節を越えていく。

 命の繋がりを保ったままに。
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祈っている。その3。

2009-09-17 12:15:26 | Weblog
 彼の辛さが切なさになり、自分のなかに入り込んできた。
 何の約束もなく、何の楽しみもない、空腹のまま、身体の痛みも感じたまま、嬉しいことも弱音を吐く友達もいない孤独の日々を暮らしている。時に空しさ、寂しさ、痛み、孤独を酒で拭いきることが出来ないまでも、誤魔化そうとしているだろう。
 
 思い出す、彼が美味しいお酒は沖縄でとぅーちゃんとかぁーちゃんとで飲んだ酒以来飲んでいないと話していたことを。
 彼はそのあたたかな日々をずっと夢見ているだろう。

 胸に想いが詰まった。苦しいほどに詰まった。

 この現実をどうにかしたいと思う、またそれはそこから逃げ出していくような感じにも成りえてしまう。いや、そうではなく、いま出来ることのなかでどうあったら良いのかに立ち戻ろうとしていた。

 苦しいほどに詰まった想いのなかで、自分は言葉を掛けていく。それだけで、それだけに想いを込めて掛けていく。

 「またさ、ちゃんと顔を見せに来てね。カレーを食べに来てね。心配しているよ。」

 「うん、ありがと。また来る。」

 「待っているよ。またね。」

 彼は笑顔で見送ってくれた。痛み苦しみを持つ者の笑顔は、その意味から限りなく純粋な笑顔が生まれ、それに魅了されてしまう。

 自分も祈っている。
 「どうか、助けてあげてください。どうか。どうか。」

 命を繋ぐ切なる祈りは、限りなく純粋である。それに触れるだけ、命は輝き始める息吹を与えられる。

 「ありがとう。ナンクルナイサーおじさん。」
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祈っている。その2。

2009-09-16 12:58:43 | Weblog
 
 彼は以前下血がかなり長い間続いていた。それでも、病院には行かずにずっと耐えていた。その頃、彼はこう言っていた。

 「オレみたいなものが病院に行っても、すぐに出されてしまうんだよ。知っているんだ。オレさ。
 でも、オレだけじゃないもん。みんなたいへんなんだ。それでも、がんばっている。オレだけないもん。ナンクルナイサー。」

 彼は苦笑いを優しい笑顔に変えながら話していた。その顔に魅了された。
 それから三ヶ月前に会うまで一年以上会えなかった。彼は入院していた。そして、また路上に戻っていた。

 胃の調子がまた悪いのか、お腹を押さえながら話した態度とその顔色の悪さから、そう感じた。体調も良くない様子だった。

 「あとで食べるんだね。ゆっくりと食べればいいよ。あとね、このあと二時間ぐらいすると食べ物を配りに来る人がいるから、食べ物をもらうといいよ。パンとか野菜とかもらえると思うよ。」

 二週目と四週目に食べ物をその場所に配りに来るチャリーさんのセカンドハーベストのことを教えた。

 「うん、ありがと。」

 「こっちに並べば良いからね。」

 ふらつく身体の彼の手を取り、少し歩いた。

 「ここで待っていれば良いからさ。まずは座って。」

 彼はゆっくりと地面に座った。自分もそばに腰を下ろした。

 「どうしていたの?ちゃんと食べていた?入院とかしていなかったかな。」

 「辛いよ、辛いよ。オレみたいにこうした生活をしていると、やっぱり辛い。だから、いつも祈っているんだ。助けて。助けてって、祈っているんだよ。」

 「そうか、辛かったか。助けてって、祈っているんだ。」

 「うん。」

 彼は背中を丸め、両手を合わせて、そう言っていた。

 {つづく。}
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祈っている。

2009-09-15 12:19:14 | Weblog
 
 いつものようにカレーに並ぶおじさんたちに挨拶していくと、両手を差し出し、笑顔で一歩前に足を出してくる人がいた。その人はナンクルナイサーおじさんだった。

 「良く来てくれた。ありがとうね。」

 「うん、来たよ。」

 「どうしていたの?ナンクルナイ?」

 「うんうん、ナンクルナイサー精神だよ。」

 「そう、でも、ちゃんとご飯を食べに来てね。」

 「うん、ありがと。」

 三ヶ月ぶりぐらいだろうか。久しぶりに会えて嬉しかった。彼も嬉しそうだった。少し会話をしたあとに、またあとで話しをしようと約束して別れた。

 カレーが配り終えてから容器を集めていると、彼は一人で背中を丸め座り、フェンスに寄り添うようにしてカレーを食べていた。

 その姿を少し離れたところでずっと見ていた。彼のそばを何人ものおじさんやボランティアは通ったが、誰とも目を合わせようとはせず、隠れるようにしてカレーを口に運んでいた。

 その姿、孤独が浮き彫りにされていた。自分の内には痛みを伴う何かがうごめいていた。それを直ちに処理したいのか、どうしたいのか、自身に問いながらも、答えることもせず、その痛みを感じながら、ただ彼が彼の時間で食事を終えることを待っていた。

 スプーン三口ほどご飯を残して、彼はフェンスに捕まりながら、やっとのことで立ち上がった。それを見計らって、彼に近寄り声を掛けた。

 「どうしたの?カレー、食べ切れなかった?」

 「うん、あとで食べるよ。」お腹を押さえながら、少し顔をしかめながら答えた。

 {つづく。}
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真新しい日々。

2009-09-14 13:28:29 | Weblog

 土曜は久しぶりにナンクルナイサーおじさんに会えた。

 浅草神谷バーに初めて行った。

 季節外れの夕顔が大切な来客者を喜ばせた。

 昨日は晴天の秋空の下、ミニでドライブをした。

 山のなか、川のほとりで焚き木をし、マシュマロを焼いて食べた。

 温泉に行った。

 イワナ、ヤマメを肴に芋焼酎を飲んだ。

 穏やかな時の流れのなかに居た。

 真新しい日々を生きている。

 生きさせてもらっている。

 目に映るすべてと内なるすべてからメッセージはこの今も贈られ続けられている。

 それに静かに答えていく真新しい日々を生きている。
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