カルカッタより愛を込めて・・・。

次のアピア40のライブは6月でしたがお休みします。

あんにつもる雪。

2015-01-30 12:49:48 | Weblog

 ずっと待っていた雪が降った。

 昨年はカルカッタだったから、あんと雪のなかで遊ぶことは出来なかった。

 あんは雪のなかで遊ぶのが大好き、ほんとうに「雪やこんこ 霰やこんこ。降つても降つても まだ降りやまぬ。犬は喜び 庭駈けまはり、猫は火燵{コタツ}で丸くなる」である。

 ちょっと違うのはあんの場合、猫のように火燵でも丸くなのである。

 今日は一面真っ白になった多摩川の誰の足跡もないグランドであんと走り回って遊んだ。

 あんと私の貸し切りであった。

 あんはきしむ雪の感触をほんとうに楽しんでいた、その楽しそうなあんを見ている私も喜んだ。

 走っている時はあんの背中に雪はつもらないがゆっくりと歩いているとあんに雪はつもった。

 そのつもった雪をあんは前足でぬぐうのであるがすぐにまたつもり、結局ブルブルして雪を落とし、また雪はあんにつもった。

 帰り道、淡いピンク色のウメの花に雪がつもっていた姿が美しかった。

 あんはトコトコと歩いていた。

 私は目線をあんにつもる雪にもどした。


 
 Johnjiは帰りのドバイからメールで最後の夜のアドレーションの後、シスターメルシーマリアがジョンのところにきて、今日がTetsuが洗礼を受けてから一年が経ったと話をしたと言う。

 忘れ去られることを良しとする私もいるが、その反対の私もいて、今いっそう感謝の念が私を包む。

 マザーの導きにより洗礼を受けた幸せが意味を深めて行く。

 昨夜福島のリエさんから洗礼日の祝いに芋焼酎を贈ってくれた。

 嬉しくて美味しくて半分以上飲んでしまった。

 しかし、最近はあまり二日酔いにならない、その理由はたぶん体幹トレーニングにあると思う。

 不思議と身体も疲れにくくなってきているように感じるし、何気に腹筋がうっすら割れても来た。

 10年ほど悩まされてきた腰痛もストレッチ、それからインナーマッスルを鍛え、アウターマッスルを鍛え、インナーとアウターの連動を鍛え、またストレッチをすると言う体幹トレーニングはやはり効果はかなりあるようだ。

 今まで腰痛のストレッチや腹筋背筋を鍛えていたが、それは私の場合、その場しのぎでしかなかった。

 本気で腰痛を克服したいと思っている。

 ただ頑張りすぎないようにも注意している。

 さて、今日もこれから25分くらいだろう、体幹トレーニングをしよう。
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JohnJiからのメール。

2015-01-29 12:40:03 | Weblog
 
 Johnは私にマザーハウスで洗礼を授けてくれた親友である。

 18日のカルカッタ滞在を終えて、今ごろたくさんの愛の贈り物をもってオーストラリアのパースに帰ろうとしているところであろう。

 メールには今もなおたくさんの患者が駅には溢れていたとあった。

 その風景が私に鮮明に脳裏に映し出され、瞳を閉じれば、その映像が流れてくる。

 彼は昨夜のマザーハウスのアドレーションで私のために祈ってくれた。

 その祈りが私を完璧なまでに喜びへと導いていく。

 JohnJiとはジョン様と言うことである。

 私たちはお互いをJiを付けて呼び合った。

 そのカルカッタでの日々があまりにも懐かしく愛おしく思えて仕方がない。

 愛の記憶は決してなくならず、この心と身体に永続している。
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洗礼の日に。

2015-01-28 12:45:36 | Weblog

 今日でマザーハウスで洗礼を受けて一年が経った。

 マザーのもとで誓えた洗礼を私は生涯忘れないだろう。

 今日はマザーを慕いに慕い、祈りに祈ろう。

 MCシスターの言葉。
 「マザーは殉教を体験していたに違いありません。彼女の広範囲に及ぶ混み合った三等列車での旅行、ほこりと汚れにまみれたスラムへの毎日の徒歩通い、疲労、空腹、のどの渇き、プライバシーの皆無、つねにドアが開かれている部屋、酷暑の日にも扇風機なしの小さな部屋、狭い聖堂、幅が狭く固い鉄製のベッド、これらすべてと、それ以上のつらさをひと言の不平ももらさず過ごされたマザーは、ほとんど毎日にように、「すべてはイエスのため」と何のコメントもなく言っていました。そして何か特別な試練があったときには、私たちに「これはより深い愛のチャンスなのですよ」と教えられるのでした」
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もうそろそろ。

2015-01-27 12:53:54 | Weblog

 もうそろそろマリオがマドリッド空港から旅立ち、コルカタに着いている頃だろう。

 不安と喜びが複雑に絡み合い、空港からサダルストリートまで付けば、故郷に帰ってきた安らぎを感じているのではないだろうか。

 彼は昨日メールで「私のいないカルカッタは同じではない」と心細い心境を伝えてきたが、きっとそんなことはすぐに忘れるかもしれない、彼はまた新しいカルカッタを体験するのである。

 明るい面もあれば、繊細な面もある彼である、英語の不自由さに苦しむこともあるだろう、だけど、微笑むことを忘れないでいてほしいと私は祈っている。

 彼は一緒に働いていたのにFBで私の洗礼のことを知ったのである。

 それまで仕事場ではみんなと洗礼のことも話していたが、英語は分からないとその話に耳を真剣に傾けていなかったのであろう。

 彼は夜私のFBを見て、私が洗礼を受けることを知ると、一人で涙をぼろぼろ流して喜んだそうだ。

 明くる朝、満面の笑みで私をハグした彼を忘れることは出来ない。

 そして、マザーを初め、多くの人の祝福で迎えられた洗礼式のことは忘れることは出来ない。

 生涯そうありたいと願うのである。

 
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カルカッタへの手紙。

2015-01-26 13:10:20 | Weblog

 私がマザーハウスで洗礼を受けて、28日でちょうど一年になる。

 改めて感謝の思いをマザーハウスのシスターたちへ伝えたい思いでシスタークリスティーに宛てに手紙を書いている。

 そして、この手紙はシスターたちを通してマザーへの手紙になる。

 私のどこを切ってもマザーへの感謝の思いが溢れ出て来るような思いをつづりたいのだが、なかなかうまく言葉が出てこない。

 しかし、うまく言葉が出て来る必要はない、なぜなら、この思いは必ず伝わっている確信もあるからである。

 今日もその思いで私は微笑みを生む。
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心にしみる言葉。

2015-01-23 12:47:56 | Weblog

  Love one another as I have loved you.

 これはマザーのお墓に刻まれている言葉である。

 カルカッタにいた時、毎朝夕マザーのお墓に手をあてて、じっとこの言葉を読みながら、いつもマザーに「マザー、私にはそう出来ていません。ごめんなさい・・・」と言ってたことを思い出す。

 私のマザーへの告解だった。

 マザーとの会話の最後にはマザーのお墓に額をあて目をつむり、「どうか今日をあなたの望みのように生きれるように私を動かしてください」と祈り、心の在り処を見つめ直し続けた。

 場所は変われど、今日もこの思いで。

 心にしみた言葉が行いとして現れるように微笑もう。

 
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今日の読書。

2015-01-22 01:34:03 | Weblog

 読んでいたフランクルの本に出てきた彼の言葉が胸にとまった。

 「決断するのはつねに人間である。では、人間とは何であるのか。つねに決断する存在である。では、人間は何を決断するのか。次の瞬間に自分が何であるのかを決断するのである。」

 一つの円を描くような彼の真実の言葉、それは輪廻の意味の含みもあるのか、繰り返される歴史の黄昏なのか、復活期待を意味するものなのか、自由を託されていることの意味なのか、その可能性だけには限りはないことへの救いがあると言うことなのか・・・。

 だが、それだけが人間ではないと言うことを感じながら、にもかかわらず内省しながら深く味わいたい言葉である。

 人間はつねに決断し、その決断の責任を負うことも人間なのだろうが、そこに絶望と希望があるのならば、私は切に希望だと叫びたい。
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マザーテレサのノヴェナ。その2。

2015-01-20 13:27:17 | Weblog

 あなたは上記のIさんのことをどう思っただろうか。

 私はこの日帰り際にブラザーノアスからマザーテレサのノヴェナ{九日間の祈り}と言う小雑誌を数枚もらった。

 これはMCのマザーテレサの列聖会{Fr.ブライアンMC 編著}から出されている非売品である。

 昨年のクリスマスにようやく日本ではドンボスコ社から出されたもの、片柳君の撮ったマザーの写真が使われていた。

 その表紙にはマザーの言葉「イエスこそ、すべてにおけるすべて」とあった。

 このマザーのノヴェナは昨年カルカッタから帰る時、最後のアドレーションに出た後にシスターメルシーマリアから英語版のものはもらっていた。

 ブラザーノアスから日本語訳のマザーのノヴェナをもらった時、メルシーマリアが丁寧にこのマザーのノヴェナの使い方を説明してくれたあのカルカッタ最後の夜のことを鮮やかに思い出した。

 山谷から地元の駅まで、これを二度読み直した。

 そこにマザーが1983年にローマで入院していた時書き留めた、黙想があった。

 「イエスはあなたにとってどのような方なのか?」と言う問いに対する答えの中でマザーはこう答えていた。

 「・・・・イエスは癒されるべき、病む人。イエスは愛されるべき、孤独な人。イエスは受けいれられるべき、望まれない人。・・・・イエスは微笑みかけるべき、物乞いの人。イエスは話を聞いてあげるべき、酔っぱらい。イエスは守ってあげるべき、知的障害児。・・・・イエスは友であるべき、薬物依存者。・・・・イエスは訪れるべき、牢獄の人。イエスは世話をするべき、お年寄り・・・・」

 マザーはしっかりと言っているのだった。

 Iさんはあなたのイエスなのだと・・・・、いや、Iさんに限らず、私の出会う人たちはすべてイエスなのだと・・・・、だからこそ、あなたの中の最良のことをその人にしなさいと言い続けたのである。

 だが、私を含め、多くの人がマザーを慕いながらもマザーの本意とのズレがあるように思えてならない。

 しかし、このズレと対面することにより、マザーはまたこうも言っていたことを思い出すことによって救われる「あなたの抱えている苦しみをすべてイエスの足元に捧げなさい。あとのことはすべてイエスがしてくださいます」と。

 私たちは祈り悔い改めることにより救われていくのである。

 柔和になることにより、そう努めることにより、また誰かを救っていけるのである。

 その可能性を持たない者はいない。

 あなたの「小さなことに大きな愛を込めて」の行いがマザーと神さまを喜ばすに違いないのである。

 私はそう確信し、その確信によって微笑みを持つ。

 最後にもう一つマザーの言葉。

 「私たちは成功するために呼ばれたのではありません。信じるために呼ばれたのです」
 
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マザーテレサのノヴェナ。

2015-01-19 12:41:18 | Weblog

 先週の土曜日の白髭橋の炊き出しでHIV患者のIさんに会った。

 その一週間前の今年初めての炊き出しの時にも彼は彼の友人のNさんと一緒だった、その時には挨拶だけでゆっくりと話すことは出来なかった。

 「Iさん、どうですか?身体の調子は?」私はやけに浅黒くなったIさんの顔色が気にかかり、彼の前に立った。

 「いや、良くないです・・・」

 「どうしたんですか?薬はちゃんと飲んでいますか?」

 彼は少し顔をしかめ苦しそうに答えた。

 「薬を20日間飲むのをやめちゃったんですよ・・・」

 「どうしてですか?」

 「ドヤでケンカして、そのまま出てしまったんですよ。クリスマスの時に・・・。隣に住む住人に、黙っていたらいつもうるさくしやがってって思って。ついに言っちゃんです。それでそのままドヤには帰っていません・・・」

 「んじゃ、看護婦さんにも会っていないの?」

 「はい、でも、この前体調が悪くなって、急遽病院に行って一週間分だけ薬をもらってんですよ」

 「そうだったんですか・・・。もう、Iさん、この時期のアオカン{路上で夜を過ごすこと}じゃ、辛いですよ・・・」

 「うん、だから、雨の時は友達のところに泊めてもらったりしました。だけど、死んじゃいますよ・・・」

 「うん、ほんと、死んじゃいますよ・・・」

 HIV患者は例え一日でも薬の服薬を中断するだけで、どれだけ危険であるかは彼は知らない訳はないが、どうにもならなく自暴自棄にもなったのであろう、もう死んでも良いとさえ思ったかもしれない、その痛みと苦しみは頬を差す冷たい風のように否応なしに鋭く痛く感じられた。

 私は彼の肩を強く握るようにして言った。

 「お願いですから、Iさん。しっかりね」

 「はい、ありがとうございます」と彼は苦笑いを見せた。

 彼は今週役所と病院に行くらしい、そこでまた今後の立ち直りのために、この冬を乗り切るためにどうにかしてほしいと私は切に彼に願った。

 {つづく}
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愛の現象。

2015-01-16 12:54:42 | Weblog

 今朝パソコンを開き、フェイスブックを見ると、マザーの公式のホームページより、マザーハウス訪問のダライラマの写真がアップされていた。

 その写真の一枚にはサリーの上にショールを頭にかぶったシスターゲルトルードがダライラマの手をしっかりと握っている写真があった。

 それも彼女の定位置{御堂ではない}の場所、そこにダライラマは赴き、彼女と言葉を交わしたのだろう。

 彼女はナンバー3のシスターである。

 もう随分お年をとっているが変わらずにお元気そうなその姿には神さまの愛が漂っているのが伺え、そして、純粋無垢な微笑みで辺りを包み込んでいる。

 おそらく総長のシスタープリマの案内であったかもしれないが、愛と喜びをもって、ダライラマもシスターゲルトルードもいたことが私には容易に伺える素敵な写真だった。

 私は生前のマザーの雰囲気をシスターゲルトルードのなかにも伺えるのである、それは微笑みである。

 マザーの周りにはいつも花が咲き乱れるように微笑みが溢れた、いまシスターゲルトルードの周りにも同じその神さまの愛の現象が伺えるのである。

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