以前、ダライラマの講演に行った時に、彼に一番最初にこう言った。
「私もあなたたちと同様に破壊心を持った者です。」
自分はずっとこの言葉を語るダライラマの謙虚さを忘れない。
自分のうちにも破壊心はあってしまうものである。
だが、認めるものと認めないもの、また受け容れているものと受け容れられないでいるものとはかなりの違いがあるだろう。
仕事場では感情的になる人の力に振り回され、周りのものはそこに自己の過去の怒りを投影し、その否定の渦に呑み込まれて怒りのうちに我を忘れ、自己と周りを破壊していく人たちがいる。
短気は損気である。
自分で自分を苦しめていく。
短気な人、否定的な人はどれだけ他人に迷惑を掛けているかと言うことは知り得ない。
なぜなら、その根底には「私は悪くない」と言う歪んだ正義の盾・心の武器を硬くない固持しているからだろう。
それはいじめと何も変わりはしないものだろう。
戦争の初めと何も変わりはしないものだろう。
だが、怒りの感情のなかに居る者には決して気付けない。
マザーの言うように自分の感情を乗り越える必要があるがそこを観ることは出来ない。
昨日知人がこんなことを話してくれた。
彼女は以前働いていた施設では「蹴落とし会議」なるものがあったと言う。
信じられないことだが、そこに働いていたものは皆ベテランであったと言う。
50代の彼女らは何かを失い、また謙虚さなどとは程遠いものになってしまっていたのだろう。
人間は周りの環境に良いものにも悪いものにも生きるために適応し順応してしまう。
怒りの人の傍や環境の悪いところに居れば、そこに染まってしまうだけでなく、恨みの感情も密かに蓄えてしまう。
そこで自己を見失わず、そこから離れる勇気を持つ者は自分を救う。
このような否定的で短気な母親を持った子たちはどんな成長をするのだろうか。
胸を痛まずには想像すら出来ない。
人の感情は人に移る。
自分たちはほんとうは何を伝えたいのだろうか。
怒りなのか。
愛なのか。
それを問い続けることが必要ではないだろうか。
それに答えて行くことは大切なのではないだろうか。
にもかかわらず、人間は容易くそれを忘れてしまいがちになる弱いものでもある。
だから、マザーは言う。
いつでも祈っていなさいと。
自分は愛を伝えたい。
自分は心を伝えたい。
あなたはどうだろうか。
愛ある人のそばにいてほしい。