カルカッタより愛を込めて・・・。

次のアピア40のライブは9月13日(金)です。また生配信があるので良かったら見てください。

それでもなお、人を愛しなさい。

2022-01-26 12:02:15 | Weblog

 ケント・M・キースの「逆説の10ヶ条」を載せておきましょう。

 1 人は不合理で、わからず屋で、わがままな存在だ。

   それでもなお、人を愛しなさい。

 2 何か良いことをすれば、隠された利己的な動機があるはずだと人に責められるだろう。

   それでもなお、良いことをしなさい。

 3 成功すれば、うその友だちと本物の敵を得ることになる。

   それでもなお、成功しなさい。

 4 今日の善行は明日になれば忘れられてしまうだろう。

   それでもなお、良いことをしなさい。

 5 正直で率直なあり方はあなたを無防備にするだろう。

   それでもなお、正直で率直なあなたでいなさい。

 6 もっとも大きな考えをもったもっとも大きな男女はもっとも小さな心をもったもっとも小さな男女によって撃ち落とされるかもしれない。

   それでもなお、大きな考えをもちなさい。

 7 人は弱者をひいきするが、勝者のあとにしかついていかない。

   それでもなお、弱者のために戦いなさい。

 8 何年もかけて築いたものが一夜にして崩れ去るかもしれない。

   それでもなお、築きあげなさい。

 9 人が本当に助けを必要としていても、実際に助けの手を差し伸べると攻撃されるかもしれない。

   それでもなお、人を助けなさい。

 10 世界のために最善を尽くしても、その見返りにひどい仕打ちを受けるかもしれない。

   それでもなお、世界のために最善を尽くしなさい。



 私には今この文章を読む必要があると思い、祈る思いでこの文章を声に出す。
  
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最良のものを。その2。

2022-01-20 12:31:40 | Weblog

 コロナ禍になり、山谷のMC{マザーテレサの修道会の略}に来るボランティアは明かに減った。

 そうした中にも関わらず、彼{フランス人神父}はずっとボランティアに来ていた。

 しかし、彼は日本語をほとんど話せなかった。

 それ故におじさんたちとは挨拶ぐらいだけで会話をしたりはしなかった。

 彼がしていたのはゴミ拾いだった。

 彼がボランティアの中で一番歩いていた。

 ゴミを拾うために他のボランティアが行かない遠いところまで行き、カレーの食べ終わった容器を拾っていた。

 だから、カレーを配った場所から施設に戻る時間になっても、彼の姿がないことが度々あった。

 私は思う、彼は心込めてゴミ拾いをしていたのだと。

 彼は自分が出来る最良のことをし続けていたと。

 彼は神さまのために美しいことをしていたと。

 私はそうしたことを見れたことがいつも嬉しかった。

 マザーはこうも言っていた「何も出来ないのではない、出来ることが違うだけ」と。

 私たちは厳しい現実の前にして、何も出来ないと思うことも度々あるだろうが、諦めてはならない、やはりそこで良く考える必要がある。

 考えるとは次の瞬間に新しい自分になり得ることも可能にする。

 考えるとは新しい発見の礎にもなり、答えは一つではないことを証明する。

 その根底に「最良のものをしたい」と言う祈りが流れていれば、何も出来ないと立ち止まることはない。

 あなたには出来ることが必ずある。

 それを微笑んでやれば良い。

 結局は全てあなたと内なる神との間のことなのですから。
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最良のものを。

2022-01-18 12:35:04 | Weblog

 『あなたの中の最良のものを』

 人は不合理、非論理、利己的です。

 気にすることなく、人を愛しなさい。

 あなたが善を行うと、利己的な目的でそれをしたと言われるでしょう。

 気にすることなく、善を行いなさい。

 目的を達しようとするとき、邪魔立てする人に出会うでしょう。

 気にすることなく、やり遂げなさい。

 善い行いをしても、おそらく次の日には忘れられるでしょう。

 気にすることなく、し続けなさい。
 
 あなたの正直さと誠実さとが、あなたを傷つけるでしょう。

 気にすることなく、正直で誠実であり続けなさい。
 
 あなたが作り上げたものが、壊されるでしょう。

 気にすることなく、作り続けなさい。

 助けた相手から、恩知らずの仕打ちを受けるでしょう。

 気にすることなく、助け続けなさい。

 あなたの中の最良のものを、この世界に与えなさい。

 たとえそれが十分でなくても、気にすることなく、最良のものをこの世界に与え続けなさい。

 最後に振り返ると、あなたにもわかるはず、結局は、全てあなたと内なる神との間のことなのです。

 あなたと他の人の間のことであったことは、一度もなかったのです。

 {マザー・テレサ}

 上記の言葉はコルカタのシュシュババンの壁に書いてあるマザーの言葉として有名である。

 しかし、たぶん、マザーはケント・M・キースの「逆説の10ヶ条」をどこかで読み、その言葉に感銘し、少しフォーマットを変えて祈りの言葉にしたようです。

 気になる方はケント・M・キースの「それでも、人を愛しなさい」を読むと良いでしょう。

 経緯はどうあれ、私はこのマザーの言葉が好きである。

 そして、いつも「最良のもの」をと努めようとする意志が私を励ましてくれている。

 この「最良のもの」とは決して一般的なことではない、誰かのそれと比べるものでもない、その人自身が出来る中で可能な限りの最善のことを言う。

 例えば、それは苦手な人に微笑むことも「最良のもの」と呼べるであろう。

 長い間、山谷のボランティアをしたフランス人神父のことを書こうと思う。

 私はいつも彼を見て、彼は最良のことをしていると思っていた。

 {つづく}
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ウォークマンから。

2022-01-10 12:40:38 | Weblog

 このウォークマンは10年くらい前に買ったもの、コルカタにも2回持って行った。

 土曜日の朝、私は山谷に行く前に頭を剃る、その時に必ずこのウォークマンで音楽を流している。

 おまかせコースと言うものがあり、朝の時間帯にあった音楽を流してくれる。

 ウォークマンの中に入れた曲は何回か少し入れ替えもしたが、もう随分と聞き慣れた曲である。

 それでも、私のお気に入りの曲ばかりなので、山谷へ向かうと言うか、出かけるテンションを上げてくれる。

 頭も剃り、シャワーも浴び、今度は二階にて身支度をしていると、ある声が聞こえてきた。

 それはいつも聞いている音楽ではなかった。

 ウォークマンに入れてあったベンガル語の教本のCDの音であった。

 おまかせのコースにしている時にベンガル語の教本のCDがかかったことは今まで一度もなかった。

 それだけに驚いた。

 驚いたと同時に身震いするほどの懐かしさが私の全身を包んだ。

 私はいつもコルカタに着くと、汚染された空気、雑踏に身体を合わせるため、2週間ぐらいは必要だった。

 その間は無理をせず、午後は仕事をせず、ゆっくりとベンガル語を勉強していた。

 何年も使われたであろう、誰が使ったはまったく分からない、疲れた枕に、まず洗いたての枕カバーし、その上に自分で洗ったガムチャを敷き、それは私の匂いをマーキングして、私の縄張りするかの如く、居心地の良い場所を作り、そこでベンガル語を勉強したのであった。

 その光景が今までコルカタの別れの時、友達から身動きできないほどのハグされたかのような嬉しさと喜びと感謝の想い、愛に包まれた。

 私ははっと気が付いた。

 私はこんなにもあの場所に帰りたいと思っていたのだと。

 涙が出るほどにあの場所に帰りたいと思っていたのだと。

 しかし、それは叶わない。

 次がいつかは分からない。

 それに私はまた次があるからと思いながら仕事はしなかった。

 滞在予定が長い、短いに関わらず、その日、その日を最後の日、この場所を離れる日だと思い、仕事をしてきたのである。
 
 それは今でも同じである。

 目の前の人をケアする場合、私の出来る最良のことを思い、きっと後悔はするだろうが、にも関わらず、極力後悔しないように、最良のことをしようとは努めている。

 そうしたことを内省しているとベンガル語の教本のCDは、いつしかアンさんの曲に変わっていた。

 山谷に行くと、時間を間違えてきたボランティアが来た。

 彼女もコルカタに行き、コルカタに帰りたいと思っていた。

 私はコルカタとマザーの話しをした。

 ハッとした。

 あの方はこうして私を慰めてくれていると。

 最近はまったくと言うほど、マザーやコルカタの話しなどしていない私をあった。

 その私があの場所の話しをするだけで、どれだけ癒されるか、それすらも私は知らなかった。

 私は渇いていた。
 

 
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今年もよろしくお願いします。

2022-01-06 12:31:32 | Weblog

 今、カーテンを開けると、外に雪が舞っていた。

 大晦日も釣りに行く前に同じような雪が舞っていた。

 私は年末年始の休みが今年は大晦日しかなく、せっかくの休みなので雪が舞っていたが釣りに行った。

 しかし、案の定、お魚も正月休みと言うことで坊主だった。

 坊主が坊主になったとかじかんだ手で友達にラインした。

 釣り納めが初坊主だったいうことで、今年はきっとたくさん魚が釣れそうな気がしている。

 大きな魚を釣りたい。

 今年はスズキとワラサを釣るのが夢である。

 それともう一つ夢がある。

 私は長い間マザーテレサのボランティアをしてきた。

 それで分かったことがある。

 私には徹底的に愛がないことを知った。

 ボランティアはそれを私に教えてくれた。

 気が付けば、人の目や人の評価が気になり、認めてもらいたいと思っていたり、いつも自分のことばかり考えていたり、面倒だと思いながら行動していたり、そんな自分を知る度にヘドが出る思いがしていた。

 それを知っているからこそ、私は私の行いの中に、どれだけ愛情を込めることが出来るのか、どれだけ丁寧に行いが出来るのかを自分に試すことをもしてきた。

 祈る思いでそれをしてきた。

 そうして気付いたことがある。

 ほんとうはそのどっちもないところが良い、無私のところが一番だと思うようになった。

 私ではない、あの方が私を使っている時こそ、素晴らしいと、美しいということを。

 だが、それは簡単ではない。

 きっとこれからも同じ過ちを犯すだろう。
 
 だけど、祈る思いで無私の状態になれるように、また祈りに祈る。

 もちろん、それを喜んで行い、微笑みとともにである。
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