カルカッタより愛を込めて・・・。

次のアピア40のライブは9月13日(金)です。また生配信があるので良かったら見てください。

サンティアゴ。

2014-06-30 13:18:50 | Weblog

 土曜日は私の大好きな作家先生のお孫さんが遊びに来てくれた。

 彼は七月初めからスペインに行くと言うので、その相談や彼はバンドもしているので音楽の話などをした。

 初めて彼に会った時は、まだ中学生でとても小さい男の子だったが、今はもう私よりも背が高く立派な体格している。

 しかし、作家先生の血筋であろう、のんびりと穏やかな性格はしている。

 その彼がまずサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路が行くと言うので、私はすぐにスペインの友達ハビィがそこで働いていることを思い出し、彼にメールした。

 彼はコルトバで今は働いているが、8月にはサンティアゴに戻ると言うので、二人が会えたら思っている。

 何しろ日本ほど治安の良い場所は海外には滅多にないだろうから、何かあった場合、いや、何もなくてもやはり知り合いがいた方が良いだろう。

 そして、何より、お孫さんの旅が素晴らしいものになることを心から願うのである。

 私がこのように思うのには、私のうちに大好きな作家先生の奥さんの優しさと愛の連鎖が生きているからであろう。

 奥さんへの感謝の思いが今となって、お孫さんの旅の無事、それを見守るものとなっているのであろう。

 負の連鎖よりは愛の連鎖を私は何よりも慈しみ、その価値を増せることに喜びを見出す。

 二十歳の男の子のお孫さんが自分の知らない世界に出で立ち、何をどう見るのだろうか、何をどう感じるのだろうか、そこに自己の変化を求めるだろうが、求めすぎる危険をも感じるだろうし、しかし、そのジレンマの中であれ、そこに行って見ると言う経験は若々しい生命の息吹きに何らかしらの影響を与えない訳はないのである。

 それが愛の連鎖のうちにあることを切に祈り願うのである。

 
 ちなみにこの日、うちのあんはお孫さんの来客に大喜びで、お孫さんと仲良しになった。

 彼もあんのことを「可愛い、可愛い」とたくさん撫でてくれた。

 
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「深い河」へ向かう。

2014-06-27 13:01:14 | Weblog

 最近遠藤氏のサスペンスもの、「闇のよぶ声」と「わが恋{おも}う人は」を読み終えた。

 「闇のよぶ声」は1966年12月の作品であり、ちなみにこの年の3月に「沈黙」が出されている。

 それからおよそ20年後に「わが恋う人は」1987年2月、「スキャンダル」の1年後に出されている。

 「闇のよぶ声」にはユングとの出会いの初穂を感じさせ、「わが恋う人は」では、それは完熟期に至っている。

 ふたつの小説に共通するものは怨みと復讐であり、そこで人間の拭い切れぬ運命と宿命を描いている。

 そこで私が思うに、遠藤氏はそんな運命や宿命が一人ひとりにあるにも関わらず、私たちは日々を健気に生きる小さき弱気者であると言いたかったのではないだろうかと。

 これはたぶん遠藤氏の多くの作品のなかにあるテーマかも知れない、弱気者と強気者、そして、それは二者同一であると。

 「わが恋う人は」は晩年の作品になるので、遠藤氏がトランパーソナル的なものへの興味、それはある意味自己の命の終わりを身近に感じてきたゆえへに自然に芽生えてきたものであろう。

 人間には晩年には晩年なりの成長が必要である、それは人生の叡智を見出すことへ最大のテーマになり、また遠藤氏ならば、復活の切なる願いをも感じたことであろう。

 遠藤氏の最後の長編「深い河」を「わが恋う人は」ですでに骨組は出来上がっていたように思われる。

 そして、「スキャンダル」にもマザーは出てくるのだが、「深い河」でのマザーの使い方は、そこにおのれの救いを無垢に求めたのではないだろうか。

 遠藤氏が生涯聖人と崇めた一人マザーからもらった手紙の言葉を何度も読みながら、苦しみに苦しみ抜いて書き上げた「深い河」であるから。

 私の部屋には今、遠藤氏の霊を慰めるようにアンさんの唄う「アレルヤ」が優しく流れている。
 

 
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ツル、カメ、ツル、カメ。

2014-06-24 13:01:10 | Weblog
 
 今朝、あんとの散歩を終えて、録画してあった「オカンの嫁入り」を見た。

 もうテッシュ箱を近くにおいて、鼻をかみかみしながら、涙をぽろぽろこぼしながら見終えた。

 最後の山場、白無垢のオカンに娘・月ちゃんが抱き付くシーンがある、そこで月ちゃんの鼻水が白無垢に付いてしまう、これはアドリブであろうと思うのだが、その名女優の二人の演技に舌を巻くのであった。

 いろいろと書きたいこともあるが、今時間はさほどないので私が心に残った一番のセリフの紹介に留める。

 それは映画後半にオカンが末期ガンだと分かり、余命一年であることが月ちゃんの知るところになる、そこでそれまでのオカンの到底受け容れられぬ行動に対して、月ちゃんは言う。

 「何でちゃんと話してくれなかったの?そうしたら、もっと上手く受け容れることが出来たのに・・・」

 オカンは答える「死ぬから受け容れるの・・・?そんなのぜんぜん嬉しくない・・・」

 月ちゃんは言葉を詰まらし沈黙する。

 オカンの心は「死ぬから受け容れる」のではなく、ありのままであってこそ、すべてを受け容れて欲しかったのである。

 そのオカンの真意を痛いほど月ちゃんは気付くのであり、自身の甘さも改めて思い知るのである。

 しかし、何よりも本気になり、本心を愛する娘に伝えるオカンの姿は月ちゃんへの比類なく、かけがえのない愛情からである。

 それを見たものは思い出すだろう、忘れがちになってしまっている何気ない時間の中にある幸せとそれを支えている命の限りを。

 私たちは幸せがどこから来るのかも忘れがちになってしまう、それは感謝の心から生まれることを。

 ならば、誰が誰を幸せにするのであろうか、それは自身の心に他ならない、自分が自分を幸せにするのである。

 しかし、その心はどうやって育っていくものなのか、それは他者からの愛に他ならない、そして、自分も自分の心を育てようとする意志が必要になっていく。

 ストーカー被害によって、パニック障害になり、電車に乗れなくなる月ちゃんがオカンと一緒にそれを克服するために電車に乗り込むシーンがある。

 そこで月ちゃんは「ツル、カメ、ツル、カメ」と心の中で呟く、この言葉は映画の最初の方にオカンが勤めている整形外科にやってきた野球少年の肘が完治するが、医師から大丈夫だと言われても、まだ不安を抱えている時に、医師がその不安を乗り越えるために教えた呪文のようなものである。

 映画はそれを痛み苦しむを乗り越える健気な人間の在り方として、起承転結の綺麗な繋がりで最後の方へ締めくくるために月ちゃんに心の中で呟かせ、またオカンがそれを以心伝心であるかのように声に出して、月ちゃんにあてる。

 その瞬間、今までの苦しみから解放された月ちゃんの顔は一瞬にして花開くように微笑み咲き、そこで一年以上電車に乗ることが出来なかった月ちゃんがオカンと一緒に電車の中に飛び入るのであった。

 その時の二人の喜びようとはあまりにも美しかった、病を持つ者、それを治そうとする者の心が一つであるかのように、いや、間違えなく一つであったその心は喜びを幾倍にしていくのである。

 月ちゃんの愛犬ハチやその他の登場人物もとても良かった。

 そして、映画を観終わり、私はすぐに昼寝中の愛犬のあんをこねくり回しに行くのであった、「幸せだね!」といつもより増し気味にたくさん言って。

 今夜は休肝日明けである、晩酌時には「寅さん」を見るのである、これも今から楽しみである。

 
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山谷とは。

2014-06-23 12:57:45 | Weblog

 土曜日、炊き出しの白髭橋に向かった。

 首都高の高架下を急ぎ歩いている大きな体のおじさんがいた。

 彼の体重は100キロ以上はあるだろう、上半身は裸で背中には刺青があった。

 彼の短パンは落ちかけ、尻の割れ目を少し見えていた。

 私は彼に「おはよう」と言う前に「短パンをあげて!」と後ろから声を掛けると、「暑い、暑い・・・」と息を切らし答えながら、片手で短パンをあげた。

 それを見ていた韓国人のボランティア女性はくすっと笑っていた。

 彼はパニック障害を持ち、他にも病気を持つ男である、以前からは刑務所でパニック障害が出たと言うことを聞かされていた。

 障害と病気があるから、他のおじさんたちのように列に並べないと言い続けていたので、それは仕方がないことと思い、彼には列に並ばなくてもカレーをあげるようにしている。

 彼とは普通の会話は成り立つことはない、明かに心身の障害を持っていた。

 カレーの炊き出しが終わり、帰ろうとした時、また違った一人のおじさんが上半身を裸にし、涼んでいた。

 その彼の背中にも刺青があり、私は「あら、おじさん、背中には何をいれているの?」と聞くと、「弁天様だよ」と照れて答えてくれた。

 彼も病気持ちでお腹には大きなオペの傷跡があった。
 
 しばらく、彼の病気のことを聞いてから、大事にするように伝え、その場を発った。

 少し前に私に二本のタバコをくれたおじさんがいた。

 声を掛けると、そわそわしながら、最近いろいろと考えて眠れないことがあると言っては、始終胸にポケットに入れた紙やズボンのポケットに入れた紙を探し出し、それを開いては閉じたりし、いじりながら、その指を動かし続けながら、私と話した。

 私は彼に今度病院に行く時、医者に眠剤もちゃんともらうように伝えると、「そうか、医者に言えばいいんだね」と答えた。

 彼も明らかに心身症の何かを持っていることは疑えなかった。

 その日の朝、MCの近くまで行くと、警察車両がたくさんあって、進入禁止の警察の黄色のテープが道をふさいでいた。

 近くにいたおじさんたちに話しを聞くと死体遺棄の事件があったと言うことで、その内容を詳しく教えてくれた。

 おじさんたちの情報網は他にやることがないからかも知れないが、すでに十二分張り巡らされており、それはテレビのレポーターのそれと変わらないほどであった。

 先日、カルカッタであった子の母親が娘が山谷に行きたいことを告げると反対されたらしいことを知った。

 上記のような現実を知れば、母親なら子にそう言うのが普通かもしれない、山谷の歴史の根底に流れているものは暗黒の闇と思わざるを得ない、それが未だ根強くある。

 しかし、先週から長野からボランティアに来ている男性に「どうです?山谷は?」と聞いた。

 彼は答えた「みんながあまりにも普通に接しているので驚きました」と。

 思い込みとは一体どんな作用を一人ひとりに与えているのだろうか。

 罪人、病気に苦しみ、不器用にしか生きられず、世間から見捨てられたものは、果たして誰が見捨てているのだろうか。

 キリストの教えはマザーの思いそのものである、世間から見捨てられたものに愛の手を差し伸べていくことに他ならない。

 そして、愛の手を実際に差し伸べることの出来ない人も彼らを一層苦しめようとは考えていない。

 そこにはただ無関心があるだけかもしれない、マザーの言う愛の反対の無関心である。

 
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今日はここまで。

2014-06-22 17:57:14 | Weblog

 
 {誓いを超えた誓いへ}



 私は未だかつて、彼ほどに自分の死期を知る人を知らなかった。彼は完璧なほどに素晴らしい最後を自ら整え、魂とともに愛の生命を生き抜いた。それは美しすぎるほど美しく、神々しくあり、神に見守られたものであったに違いない。私はそれをどうしても疑えないのだ。

 彼はカルカッタのマザーテレサの施設プレムダンで働いていた。私は95年から彼を知り、彼に助けられてきた。彼がいつどのようにしてプレムダンに来たかは誰も知らない、なぜなら、彼は「喋らない誓い」を立てていたヒンドゥー教のサドゥー{修行者}であった。

 きっと何かがあり、プレムダンに来たことであろう、もしかすれば、最初は行き倒れて運ばれた患者だったのかもしれない。しかし、私の知る彼はいつもワーカーのように、患者たちの世話をしていた。それも誰もが嫌がるような嫌な仕事も嫌な顔一つ見せず、静かに行っていた。その姿には誰もが敬意を示した。シスターたちですら、そうであった。患者たちからは「サドゥーババ」と呼ばれていた。「ババ」とはベンガル語で「父」と言う意味である。

 その彼が歳を重ねていく上で病気にもなり、働けなくなったが、それでも、他の患者たちは彼への尊敬の念を無くすことは決してなかった。

 今年二月半ば、サドゥーは様態がかなり悪くなり、自らアイルランドのNGO「Hope」の病院に入院することを望み、入院した。私はそれを知り、彼を心配していたが仕事の忙しさを言い訳に見舞いには行かなかった。

 それから二週間ぐらい経った頃、サドゥーがプレムダンに戻ってきたことを知った。しかし、その退院が病状が良くなっての退院ではないことを知り、私は彼を知るボランティアと確信した。サドゥーは「死ぬためにプレムダンに帰ってきた」ことを。

 その後、彼はプレムダンでカトリックの洗礼を受けた。名前はジョセフメリーである。洗礼を受けたと言うことが、彼自身が間近に死を覚悟していることを誰もが感じたであろう。彼はヒンドゥーのサドゥーとしての誓いを超えて、永遠の誓いの中へ、その時歩もうとしていた。

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これから。

2014-06-22 16:32:45 | Weblog

 今日は日曜日なのに生憎の雨、しかし、梅雨では仕方がない、それにいつも恩を受けている空にケチをつける訳にはいかない、こうした天気の日の休みにやろうと思っていたことをこれから始める。

 アピアのフライヤーの原稿を書くのだ。

 しかし、決まって、これまた思い通りにはならない。

 午前中は合羽を着て、自転車で教会に行った。

 帰って来て、昼食をとり、さぁ、これからゆっくりと腰を据えて原稿を書こうと思った、がしかし、昨日の山谷に行く電車の中で読み始めた遠藤氏の「わが恋う人は」がとても面白くて、昨日のうちに上巻を読み終えていた。

 これを読み始めてしまえば、原稿を書く時間が少なくなると知っていたにも関わらず、その下巻に手を出してしまった。

 さらに雨が止んだので、今度はあんと散歩に行きたくなった、雨はまた夜には降り出してしまうかもしれない、チャンスは今しかない、と言うような決断が私に沸き起こり、「あん!」と呼ぶとあんは軽快に私の部屋に来た。

 読みかけの下巻を机にふせて、あんと散歩に行くことにした。

 三沢川、天神山の方へ向かった、雨上がりの木々から薫る匂いを吸い込みながら、思い通りになるならないなどと考えている自分の小ささを許した。


 さぁ、これからアピアの原稿にサドゥーのことを書く、すでにカルカッタで書いたものをどう組み合わせ、何を消し、何を足すのか、いろいろと思いを馳せてみたい、何度も書き直してもみたい。

 2000文字の制限の中で私の駄文ではあるが可能な限り最良の駄文を残したい、あの名もなき聖者であるサドゥーと出会えた名誉に恥じないように。
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そんな人間に。

2014-06-20 13:04:23 | Weblog

 タゴールの詩 果実採りより‏

 {危険から守られることを祈るのではなく、恐れることなく危険に立ち向かうような人間になれますように。

 痛みが鎮まることを祈るのではなく、痛みに打ち勝つ心を乞うような人間になれますように。

 人生という戦場における盟友を求めるのではなく、ひたすら自分の力を求めるような人間になれますように。

 恐怖におののきながら救われることばかりを渇望するのではなく、ただ自由を勝ち取るための忍耐を望むような人間になれますように。

 成功のなかにのみ、あなたの慈愛を感じるような卑怯者ではなく、自分が失敗したときに、あなたの手に握られていることを感じるような、そんな人間になれますように。}

 私はこのタゴールの詩が好きでよく読むことがある。

 私が今日こうしてブログにこのタゴールの詩を載せることは皆さんも察するところでしょうが、その意味はそれだけではない、いつ何時であれ、ただ個としての自己に意識を向け、個から大いなるものへの解放、そして、決して見捨てることのない目に見えぬお方との切なる信頼感から生まれる健気で気高き勇気を育めるような人間、苦しい時にこそ、その絆が強く結ばれてあるように、無いものから在るものへ変換、弱気ものから強気ものへの変換、それは復活の約束へと導かれていくように思えてならない、本能的にも望んでいることかも知れない。

 不可能のうちにも可能性はあり、知っているものよりも知らないものの方が我が身の役により良く立つことを思い起こさせる。

 タゴールの言うそんな人間になるように励む。

 苦しみの時にこそ、そう励むのである。

 そうする意味を私たちは十二分に知っているのだろう、いや、知っているつもりだけなのか、問うと見よう。

 ただ痛みは忘れようとするのではなく、痛みを大切に抱きしめるようにすることによりの変化を望むのである。

 変わらないものはない、より良くなろうとする意志により、きっと良くなっていく。

 信じる信じないではない、やるかやらないかではないだろうか、それを信じるのである。
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陽のエネルギー。

2014-06-19 12:44:57 | Weblog

 職場には誰かが何処かでもらってきた観葉植物があった。

 それを誰も面倒をみていなかったので、私が可愛がっていた。

 鉢替えもして元気良くなっていった。

 インドに行く前に職場のSさんに自分が居ない間、ちゃんと面倒みてくださいねと伝えた。

 その時、彼女は「野田さんが居ない間に、誰も面倒をみなくて枯れちゃうかもしれませんよ・・・」と冗談半分で言った。

 そして、インドから帰り、職場に戻ると、何と可哀想なことに幹だけになり、葉は全部枯れていた。

 職場には女性が多いのだが、どうも植物に関心のある人は少ないようである。

 私はからからに乾いた鉢にすぐに水をあげた。

 Sさんは済まなそうに「この前まであっちにあって、元気にしていると思っていたんです・・・」と言った。

 私は「あぁ~あぁ、やってくれましたね・・・」と言い、冗談半分に少し責めてみた。

 だが、幸運なことにまだその観葉植物は枯れてはいなかった、からからに乾いた鉢にどうにか生命を保っていた。

 私は蛍光灯の光りに近いところに鉢を置き、また水のやりすぎにも注意し、観察をしながら見守った。

 あの観葉植物の栄養ドリンクも鉢にさした。

 すると、二本あった幹の一本は腐りなくなっていたのだが、その土のあたりから、新しい芽が二本を出てき、また違ったところからももう芽が出てきた。

 私は嬉しくなった。

 その芽たちは「ありがとう。僕はまだ大丈夫だよ」と、嬉しくて何度も覗き込んで見ている私の笑みをみて、そう答えるように小さな愛らしい葉を出し、全力で意思表示しているように思えた。

 元気がないものが元気になっていくその姿自身、人であれ、植物であれ、何であれ、陽のエネルギーを放つのである、行いなど何も出来なくても、それは決して無ではない。

 陽のエネルギーは微笑みとして姿を現し、それは愛となる。

 また微笑みは陽のエネルギーを出すのである。

 あなたがもし元気がなければ、微笑むことです。

 その相手は人間だけと言うことに限らず、木々、草たち、風たち、太陽、その他にもたくさん、あなたを微笑ませたいと待っていることでしょう。
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アサダの飲み会。

2014-06-18 13:01:17 | Weblog

 毎年この時期になると文化学院の友達にメールを流す。

 今年のアサダの飲み会の日程である。

 「また暑い夏がやって来たと言うことで毎年恒例のアサダの飲み会もやって来る!

 今年は7月20日の日曜日、2時上尾集合!参加の有無を伝えてほしい。

 また暑い夏にアサダを語ろう!」

 昨日仕事の合間にこのメールを送った。

 アサダは2002年7月17日に脳腫瘍で亡くなった私の弟のような親友である。

 奴が亡くなって、気が付けば、もう13年経つが奴との思い出は不思議なぐらいに色あせない。

 昨日は仕事の移動中、アサダのことを思い出していた。

 文化学院の時、私たちは清里の寮に行った。

 行く前からもうバカ騒ぎだった、くだらない冗談の言い放題であった。

 その夜、私が風呂から上がり、身体を拭いているところにアサダたちが来て、私の裸体を激写して走って逃げた。

 私はすばやく股間だけは隠し、何の逃れた。

 数日後、出来上がった写真を見れば、私は満面の笑みで「やめろー!」と声が聞こえそうなくらい、はしゃいでいた。

 秋になり、文化祭で私たちは焼き鳥屋をした。

 そのポスターにアサダとロータは私の股間を隠した裸体の写真を大きくして何枚も重ね、そこに「夜露死苦」と書いた。

 私は「お前ら、やめろー!」とは言いながらも爆笑していた。

 信じられない話しかも知れないが、その当時は少しもてた時期でもあったのか、そのポスターを盗む子もいたくらいだった。

 私たちは焼き鳥を売りながら、ウーロンハイとコークラムを密売した、と言うのは高校生もいたのでアルコールを売るのは禁止されていた。

 しかし、私たちにそんなことは一切関係なかった。

 時にあまりに酔いすぎている者が店の前に居れば、「コラ!シッシ!」と追い払い、酒を売り続けた。

 焼き鳥を買いに来た学長のハッチは焼き鳥を買い、「酒はないのか?」と聞くので、今では覚えていないがたぶん売りはしなかったと思うが、学長はアルコール販売禁止などと言うことに一切関係を持っていなかった。

 アサダはそんな酒の密売を続ける私を「文化のアルカポネ」と言いふらしまわった。

 焼き鳥屋は常に大爆笑で大繁盛した。

 その売上は全部夜の錦華公園の飲み会に使われた。

 アサダに買えるだけのビールを買ってくるように言いつけると、奴は大きなビニール袋にたくさんの缶ビールを買い込み、背中に背負って、「良い子にしてたか!」と言いながら帰って来ては、そこに集まった文化の学生たちにビールを配った。

 別に焼き鳥屋を手伝った友達だけではなく、そこにいる者全員に配った。

 若気の至りとでも言うのか、バカ騒ぎは夜通し行われた。

 そんなことを思い出しては、昨日一人車の中で大笑いした。

 大笑いとともに少し涙も出た。

 ほんとうに楽しかった、類を抜いて奴といる時は楽しかった。

 もうあの時は帰らない、しかし、変わらない、今も私を楽しませもする。

 そんな狭間で私は何とも言えぬ哀愁を味わい、瞳からは涙が出てきたのだ。

 「だら、れば」で話すこと、考えることは普段私の望むことではないが、昨日もしアサダが今も生きていたらと想像した。

 アーティストのプロモーションビデオを作っていたアサダはもうプロデューサーになり、交友関係も増え、そうすれば、私に新しい友達を何人も紹介してくれただろう。

 若気の至り時期を過ぎた私たちはどんな飲み会をしているのだろうか。

 アサダと遊びたい、小さく呟いた。

 それが不可能であることを重々承知でも、そう思わずにはいられなかった。

 親しく大切な人が亡くなると言うことは、すべての思い出を生涯背負うこと、逃げたり、忘れたりもしながら、でも、いつも一緒にいること、何だが、私にはそれは神さまと一緒にいるような思いと同じではないかと思えてしまう。

 アサダとともに生きた私の青年期は書ききるなど有り得ない、枯れることのない泉である。

 この瞬間、こうしてアサダを思うことがアサダから常に贈られ続けられるギフトである。

 アサダにはよくこう言った。

 「兄さんが愛を教えてやろう!」

 今はこう思う。

 「アサダが愛を教えてくれている」
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ワールドカップを見ながら。

2014-06-17 12:42:02 | Weblog

 昨夜は休肝日、パソコンをチェックし、読みかけの「クワトロ・ラガッティ」を一時間ほど読み終え、ベッドに入る。

 やはり気になっていたドイツ対ポルトガル戦を見ると、目が冴えて、眠らなくてはならないのに声も出れば、無意識に足に力などが入ってしまった。

 こうしてワールドカップを見ていると、私はいつもカルカッタで会った友達のことを思い出す。

 昨夜はドイツのグレッグはきっと生中継でこの試合を見ているだろうことを思うと、彼の喜ぶ顔が目に浮かんだ。

 反対にポルトガルのドッワなどはペペの退場シーンに悲嘆の声をあげ、苦いビールを勢いよく口に運んでいることだろうと思った。

 グレッグはサッカー好きだから、満面の笑みで現在居ることであろう。

 そんなグレッグの喜んでいる姿を思い出すと、私も嬉しくなったりする。

 またスペインのマリオ、ハビは悲嘆にくれていることだろう。

 彼らはスペインは5点の大量失点に神に祈ってばかりいるのかもしれない、特にマリオはサッカーに関わる仕事をしている、彼は日本の有力若手の選手をスペインのクラブにサッカー留学をさせている、無類のサッカー好き、いや、レアルマドリードの大ファンで今回のカルカッタの滞在中もずっとレアルが駆った負けたなどに一喜一憂していた。

 そして、彼の前でバルセロナのことを褒めたりするのは禁句であった。

 彼は「バルセロナはスペインじゃない!」とギャーギャー言う始末だった。

 しかし、ワールドカップとなると、今のマリオの気持ちはどうなのだろうか?

 やはり国土の問題などを超え、優勝に向けて応援していることと期待する。

 他にはイタリアのアンジェロ、神父のパスカーレなどはイタリアの初戦勝ち点3を取ったことにニコニコでいるだろう。

 オランダのヤンはもちろん喜んでいるだろう。

 私のワールドカップの見方は超一流のスーパープレーに歓喜することはもちろんのこと、このように友達の様子を思い浮かべる喜びと楽しみもあるのだ。

 
 今こうしてブログを書いている時、石坂から多摩川にうなぎを釣りに行こうとメールが来た。

 私も見たが日曜の鉄腕ダッシュを見たのである。

 見た人もいると思うが、私にとってはとても興味深い番組だった、と言うより、あのような釣りや魚の番組を見るのが私は大好きである。

 さらに言えば、私が慣れ親しみ遊んだ多摩川のことなどは大好物と言っていい。

 何よりも綺麗になった多摩川をほんとうに嬉しく思っている。

 あぁ、釣りに行きたくなってきた。
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