カルカッタより愛を込めて・・・。

次のアピア40のライブは9月13日(金)です。また生配信があるので良かったら見てください。

マザーテレサとタゴール。

2016-06-28 13:01:11 | Weblog

 仕事場には数年間にすで読み終えていたタゴールの詩集「ギーターンジャリ」があった。

 私は時間がない時に気分転換として短い詩を読むことは好み、久しぶりにタゴールの本を開いた。

 以前もその素晴らしさは感銘感動したことを覚えていたが、今回は何故かタゴールの意志がマザーの意志に似ているのではないかと思えてしょうがなくなった。

 その一つをまず紹介しよう。

 「あなたの足台はそこにある。もっとも貧しく、もっとも卑しい破壊者の住む所、そこにあなたは足を休める。
 
 あなたの前に跪こうとしても、私の礼拝はあの深い所には届かない。もっとも貧しく、もっとも卑しい破壊者とともに、あなたが足を休めているあの深い所には。
 
 奢る心にとってはどうしても近づけない。もっとも貧しく、もっとも卑しい破壊者にまじって、あなたが下賤の着物を着て歩いているあの場所には。
 
 私の心にはどうしても道がわからない。もっとも貧しく、もっとも卑しい破壊者にまじって、あなたが孤独な人のともになってやるあの場所の道が。」

 マザーは貧しい人は神さまだと言う、それをほんとうの意味で解釈し、実感として感じられるようになるには、まず貧しい人たちに会わなくてはならないだろう。

 だが、何度会ったとしても、マザーが言うように貧しい人は神さまだと信じることは容易ではない。

 奢る心では到底分らないのではある、がしかし、その奢る心を認めたところには、そこへ向かいたいと言う切なる希望、希求が存在し、謙遜が漂う。

 タゴールのそれに近いと思うマザーの言葉を紹介しよう。

 「自己からの解放

 主よ、私は信じきっていました、私の心が愛にみなぎっていると。でも、胸に手を当ててみて、本音に気づかされました。

 私が愛していたのは他人ではなく、他人の中に自分を愛していた事実に。主よ、私が自分自身から解放されますように。

 主よ、私は思いこんでいました、私は与えるべきことは何でも与えていたと。

 でも、胸に手を当ててみて、真実が分かったのです。私の方こそ与えられていたのだと。主よ、私が自分自身から解放されますように。

 主よ、私は信じきっていました、自分が貧しい者であることを。でも、胸に手を当ててみて、本音に気づかされました。

 実は思いあがりとねたみとの心に、私がふくれあがっていたことを。主よ、私が自分自身から解放されますように。

 主よ、お願いいたします。
  
 私の中で天の国と、この世の国々とがまぜこぜになってしまうとき、あなたの中にのみ、真の幸福と力添えとを見いだしますように。」



まだ・・・。

2016-06-27 13:19:04 | Weblog
 
 まだパソコンの調子が悪く、すぐに固まってしまったりする、またサポートセンターに電話しなくてはならない。

 昨日はジャイカの地球ひろばで行われた講演を知人に誘われ聞きに行った。

 そこに長い間コルカタのカーリーガートでボランティアをしているすみこさんも来ると言うので、すみこさんと日本で会うのは初めてだし、行って見ようと思った。

 すみこさんは変わりなくとても元気だった。

 「今日はすみこさんに会いに来たんですよ」と言うと、すみこさんはとても喜んだ。

 そして思い切りハグをした。

 

困っていました。

2016-06-24 00:32:24 | Weblog

 パソコンがいきなりWindows10をインストールし始めて、ネットに繋がらなくなってしまって、その復旧するのに何時間も掛かってしまって、ブログを書く時間がありませんでした。

 パソコンに詳しくない私はほんとうに困りました。

 これって何なんでしょうね。

 そうしたものに依存しきっていた所為なのか、勝手に操作されてしまうものの上に生きているのか・・・。

 まったく時間泥棒に出会った感じでした。

 しかしサポートセンターの人たちのご苦労が痛いほど感じました。

本なしの電車。

2016-06-21 12:36:30 | Weblog

 先週の土曜日、山谷に向かうのに私は本を持っていなかった。

 私は電車に乗る場合には必ず本を持ち歩くのだが、その本がジーパンの左のポケットにないと、何か腑に落ちないと言うか、そこがスカスカになっているような、バランスがうまく取れないと言うのか、侍が刀なしに歩く心細さを知らないまでも、それに似ていると感じてしまうようなところがあった。

 この日、私は探せばジーパンの左のポケットに入れる本はあったが、敢えて持ち出さなかった、と言うのは、友人たちにメールを送ろうと思っていたからであった。

 その前日の夜、私はアサダの両親に電話をした、今年のアサダの飲み会の日取りを決めるためであった。

 初めてこの文章を読む人には分からないと思うので、アサダのことを少し説明する。

 アサダは私が文化学院に通っていた頃の後輩であり、親友であり、弟のような存在だったが2001年7月17日に脳腫瘍で亡くなった。

 それ以来、私は毎年アサダの命日の一ヶ月ぐらい前になるとアサダの両親に連絡し、アサダの飲み会と称するアサダのお墓参りの日取りを決め、その幹事をしてきた。

 久しぶりにアサダ家に電話すると、変わりなく嬉しそうな声を出すアサダの父ツヨシと母ミエコの声を聞いた。

 私が毎年幹事として、みんなを集めてくれるのを心から喜んでくれている、その声を私は聞くと、その先、その向こうで、「よう、テツ兄ィ、調子はどうよ?好きな女は出来たの?今年もありがとう」と言うようなアサダの声が聞こえるような気がした。

 実際の声はツヨシの声で「てっちゃん、元気にしている?孫をおじいちゃんに早く見せてよ。奥さんと一緒にさ」と彼女もいない私にやはりアサダの望むのようなことを言うのであった。

 私はアサダの両親が喜んでくれるのは嬉しいこと、しかし、私もみんなに逢えるのは間違えなく嬉しいのである。

 だんだんと子供を連れて来るものが増えたり、みんなの容姿は変わっていくが、みんなが集まれば、その時間はいつもアサダの生きていた時間に瞬時にして戻るのであった。

 それは幼児帰りの退行のようなものではない、アサダの命と死の大切な意味を高めていくことであり、私たちのなかでアサダが生き続けていることの証明である。

 ほんとうにアサダは面白くて良い奴だった。

 だから、私たちは毎年このアサダの飲み会は腹がよじれるほど笑い、酔っぱらう。

 そんな今年のアサダの飲み会を想像し、思い出し笑いをしながら、みんなにメールを送った。

 本なしの電車に乗っても、山谷のある南千住までは、あっという間に着いた。

 

病院の車椅子。

2016-06-16 12:53:06 | Weblog

 最近あんは多摩川に散歩に行くのが好きなようだ。

 と言うのも、多摩川に行けば、たくさんの友達に逢えると思っているようだ。

 今朝も多摩川に行こうとあんに言うと、あんはトコトコと進んで多摩川に向かった。

 がしかし、みんなが多摩川に集まるのは夕方であって、午前中は誰も居ないのであった。

 それが分からないあんは多摩川でしばらく待つことをするがやはり誰も来ないのである。

 週末は私が夕方多摩川にあんを連れて行ってあげる、この前の日曜日もそうしてあげた。

 多摩川に行くとあんが子供の頃に良く遊んでいたアイちゃん{雑種}やサン{パピオン}、その他にもたくさん犬がいて遊んでいた。

 あんはそこに掛けって行くと、まずサンのお母さんに飛びつく、サンのお母さんはいつもあんにおやつをくれるので、サンのお母さんのことをあんは大好きのようだ、ずっとお母さんの傍を離れない、そんなあんをお母さんもとても可愛がってくれる。

 あんはもう子供の時のようにみんなと一緒に遊んだりはしないが、みんながいるのが楽しいようで、そこから帰りたがらなくなるのだった。

 日曜日、そこに車椅子で来ていた人がいた。

 アイちゃんのお父さんから、その男性のことを聞くと、バイクの籠に愛犬を乗せたまま、交通事故に会い、骨折し入院していたとのことだった。

 愛犬は無事だったらしい、この日、元気に走り回っていた。

 あんが食べ過ぎなくらい、いろいろな人からおやつをもらったので、もう帰ろうかと思っていたら、アイちゃんのお父さんから、「ちょっとあんちゃん、車椅子を押すから手伝って」と言われた。

 あっ、そうだ、私はアイちゃんのお父さんに自分の名前を教えたことがなかった、だから、あんちゃんと呼ばれたことに今更ながら何か少し恥ずかしいような気持ちもしたが、ここではほとんどの人が犬の名前ありきで付き合っている、例えば、私はいつもあんちゃんのお父さんと呼ばれたり、あんちゃんのお兄さんと呼ばれたりするのであった。

 私はあんをサンのお母さんに預けて、車椅子で来ていた人のところにアイちゃんのお父さんと一緒に行った。

 車椅子を良く見ると病院の少し大きい車椅子だった。

 その人は何とその車椅子で二キロぐらいの道のりを自走し、愛犬と一緒に来たのであった。

 それも松葉杖も持参してである。

 無理なく自走出来る場所まで送ると、その人はとても喜んでいた。

 「また一ヶ月後に」とその人は言った、と言うのはその日の内に介護タクシーでまた病院に戻るらしいのであった。

 その人は一時帰宅の短い間を愛犬の喜ぶ姿が見たいがために無理して多摩川まで車椅子で来たことを初めて知った。

 もし私がその人のようなことが身の上に起これば、その人と同じような気持ちになるに違いないことを思うと、その人の手伝いがほんの少しでも出来ただけでも、とても嬉しい気持ちになった。

 それでも、あんのことが心配ですぐにあんのところに戻った。

 あんは私がいなくなると、きっと心配するだろうと思って戻ったのだが、何のことない、大人しくお座りをサンのお母さんの傍でしていた。

 そして私はあんのことをたくさん撫でてあげた。

 

 

「喜んでいなさい」

2016-06-15 12:48:36 | Weblog

 外は柔らかな細かい雨が優しく降っている。

 大地は両手を広げ、喜んで迎え入れているようにしてある。

 私はゆっくりと深く呼吸した。

 この雨が祝福された雨だと知ると私は頬を濡らしながらも微笑んだ。

 「喜んでいなさい」とあの方の声が優しく聞こえたような気がした。

 その私の意志があの方の意志と交わり、意味を豊かに味わい深いものとした。

シスターたちの考えとは・訂正。

2016-06-13 12:31:28 | Weblog

 銃殺されたのは施設で働いていたワーカー12人とMCシスター4人、計16人であった。

 生き残った院長のシスターサリーはドアの後ろで隠れながら、ドアの蝶つがい間から見える悲劇を一時間見続け、ロザリオの祈りを唱え続けた。

 その間三度テロリストは彼女を探しに来たが、神さまのご加護があり、咳や一切の音を出さずに済み、見つからなかった。

 彼女の場所からはシスターたちが銃殺された場所は見えなかった。

 テロリストが去った後、シスターサリーはシスターたちの名前を一人ひとり呼び、惨劇の後を目の当たりにした。

 テロリストの殺害の的はキリスト教だったため、イスラム教徒の患者たちには傷一つ与えなかった。

 私は読み続けていく内に身体が強張って行くのを感じた。

 少し読んでは目を閉じ、身体のなかの内なるものを通してロザリオの祈りを唱えた。

 愛を求めた。

 私の悩み事は一切消えて行った。

 マザーの言葉を思い出していた「目の前の一人のなかのイエスを癒す」と。

 恨みではない、愛の必要性を望んだ。

 拭い切れぬ哀しみを愛に移行していくために。

 今こそ微笑みの意味が高められた。

シスターたちの考えとは。

2016-06-09 13:11:25 | Weblog

 コルカタのマザーハウスから世界中のマザーの修道会MCに向けてのイエメンでの銃殺事件についてのニュースレターを読んでいる。

 その一つは4人のシスターを含めた12人が銃殺された3月4日の前に、2016年2月1日付けのイエメンのアデンのMCでの現状を報告したイエメンからレターである。

 2015年2月終わりから戦争状態に入ったイエメン、その手紙ではすでにシスターたちは殉教も覚悟していた。

 司祭のいない時期を3ヶ月間を過ごし、インドからドン・ボスコの司祭Frトムが6月1日に来てくれたこと、その時の喜びなどがつづられていた。

 このFrトムは誘拐され、聖金曜日に殺されたと言う噂があるが、その遺体はまだ見つかっていない。

 一人生き残ったシスターサリーはドアの後ろに2時間ほど隠れながら、ロザリオの祈りを祈り続けた、その間、仲間のシスターたちやワーカーが殺されるのを見続け、その後、姿の変わった彼らの遺体と会わなくてはならなかった。

 殺されたシスターは手を後ろに結ばれ、頭を撃ち抜かれていた、その遺体に彼女は会わなくてはならなかった。

 殺されたシスターも間違えなく、ロザリオの祈りを唱えていただろう。

 「主よ、彼らをお許しください、彼らは何をしているのかが分からないのです」

 そう、シスターたちは信じ、祈り、殉教した。

 とても重い、重すぎる手紙である。

 だが、それだけではない、見たこともない信仰の力に溢れていた。

 何よりもFrトムと12人の殉教者のために祈らずには居られなくなった。

 許すと言うことを肌身で感じ考えずに居られなくなった。

 ロザリオの祈りを唱えていた。

青い目の男。

2016-06-07 12:19:58 | Weblog

 「アザがだんだんと落ち着いて来たね」

 「うん、あの時は参ったよ。もう若くないからさ、ちょっとした段差でこけちゃうんだよ。若い時はさ、さっと手が出たもんだけどね。年寄りはダメだ」

 小さなおじさんは人懐っこい愛らしい笑顔で転んでたんこぶを作った額を照れながらさすり、私にそう言った。

 彼は二週間前に転んで額に大きなたんこぶを作り、その後、アザが額から下の目頭、頬の方に移り、痛々しい様相になっていたがすでに痛みはなく、ただ見た目の恥ずかしさだけが残っていた。

 小柄な彼は白い髭を綺麗にいつも整え、鼻下と口の周りは綺麗に剃っている、身だしなみも綺麗にしている、そして、三匹の猫と一緒に暮らしている、会う度に「猫の方が元気だよ」と私の好む良い笑顔で話してくれる。

 その私の好む笑顔とは私の想像し切れぬ人生の荒波を健気に耐え抜いて来た深みのある味わいに満ちた素敵な笑顔であり、私にあたたかなものを与えてくれる。

 「また転ばないように気を付けてね」と言って、彼に挨拶をし、私は後ろを振り向き、そこにいた男性と話しをしようと近寄った。

 私に背を向けて地面に座っていた彼は女の子座りをしていた。

 私が近づくと、私の気配を察し、彼は振り向いた。

 「えっ・・・」と思った、彼の瞳は青かった。

 「もしかして外国の人?」とぽろりと思わず出てしまったように聞いた。

 彼は私の方を向いて、私の顔をしっかりと見て頷き、「English?」と言った。

 それから私は彼と英語で話した、彼は日本に来たばかりで日本語はほとんど話すことが出来ずに、お金をセーブするために路上で寝起きしていて、そこで出会ったおじさんがお腹が空いてしょうがなかった彼をこのカレーの炊き出しに連れて来てくれえたとのことだった。

 しばらくすると水を飲みに行っていたおじさんが帰って来て、いろいろと彼のことを話してくれた。

 そのおじさんはギターケース一つしか持っていない彼のことが心配でしょうがなく、彼の世話を焼いてくれていた。

 彼はとても大人しく落ち着いていた、と言うより、おっとりとしていた感じがした二枚目の男性だった。

 20代前半であろう、カルフォルニア出身で日本で英語の先生をしながら旅をしたいと思い、来日したとのことだった。

 彼は積極的に今の現状をどうにかしようと焦るタイプではなく、やはりおっとりとして受動的な、なすがままに生きているような様子だったが、静かな明るさと柔らかさは漂わせていた。

 彼はフィリップと言う名であった、私はTetsuと教え、握手をし笑顔で別れた。

 彼の世話を焼いてくれている優しい面倒見の良いおじさんと一緒に、ここ白髭橋のカレーの次は上野の炊き出しに向かった。

 彼は日本を素敵な国だと言っていたが、路上生活し、英語を話せない路上のおじさんから何を与えられ、何を受け取っているのか、彼の旅には興味深いものがあった。

 普通の旅では味わえない、おせっかいなほどに優しい貧しい人から、普遍的な人間的な愛を感じ、それに満足しているようにも私には思えた。


 

Hallelujah。

2016-06-02 12:59:32 | Weblog

 「お前は頑張っているか?」と私は私の尻を叩くようにして問う。

 「それなりにやっているよ」と私は安易な答えを出さずに「そうだな、もう少し頑張れる」と答える。

 ほんの少し頑張った先にある私に出会うために地道に大切に今日を生きることをしようと試みる意志が私を勇気づける。

 私が諦めることが苦手になったのかも知れない、徐々に私は私に真面目になったのかも知れない、それは言葉を変えれば、まだまだ変わりたい、成長したい、好奇心なるものが活きていることのように思う。

 まだ見ぬものを見ようとし、見えないものを信じようとする。

 「それは何故?」

 私は大いなるものを感じるからなのか、それらを信じたい欲求からなのか、それらに答えて行きたいと無意識がそうさせるのか、分からない、分からないが、分からないことこそ、私に必要に思える確信はある。

 他人からどう思われるかなどを超えて、小さな挑戦を私は私に試みる。

 まずひとつ唄を覚えたいと思った。

 「Hallelujah」である。

 この唄の一番と二番はなんと旧約聖書のことが歌われている。

 どんな思いでこの唄を歌うべきか、日々試行錯誤しながら口ずさんでいる。

 次の6月30日のアピアのライブではこの唄を歌おうと思っている。