仕事場には数年間にすで読み終えていたタゴールの詩集「ギーターンジャリ」があった。
私は時間がない時に気分転換として短い詩を読むことは好み、久しぶりにタゴールの本を開いた。
以前もその素晴らしさは感銘感動したことを覚えていたが、今回は何故かタゴールの意志がマザーの意志に似ているのではないかと思えてしょうがなくなった。
その一つをまず紹介しよう。
「あなたの足台はそこにある。もっとも貧しく、もっとも卑しい破壊者の住む所、そこにあなたは足を休める。
あなたの前に跪こうとしても、私の礼拝はあの深い所には届かない。もっとも貧しく、もっとも卑しい破壊者とともに、あなたが足を休めているあの深い所には。
奢る心にとってはどうしても近づけない。もっとも貧しく、もっとも卑しい破壊者にまじって、あなたが下賤の着物を着て歩いているあの場所には。
私の心にはどうしても道がわからない。もっとも貧しく、もっとも卑しい破壊者にまじって、あなたが孤独な人のともになってやるあの場所の道が。」
マザーは貧しい人は神さまだと言う、それをほんとうの意味で解釈し、実感として感じられるようになるには、まず貧しい人たちに会わなくてはならないだろう。
だが、何度会ったとしても、マザーが言うように貧しい人は神さまだと信じることは容易ではない。
奢る心では到底分らないのではある、がしかし、その奢る心を認めたところには、そこへ向かいたいと言う切なる希望、希求が存在し、謙遜が漂う。
タゴールのそれに近いと思うマザーの言葉を紹介しよう。
「自己からの解放
主よ、私は信じきっていました、私の心が愛にみなぎっていると。でも、胸に手を当ててみて、本音に気づかされました。
私が愛していたのは他人ではなく、他人の中に自分を愛していた事実に。主よ、私が自分自身から解放されますように。
主よ、私は思いこんでいました、私は与えるべきことは何でも与えていたと。
でも、胸に手を当ててみて、真実が分かったのです。私の方こそ与えられていたのだと。主よ、私が自分自身から解放されますように。
主よ、私は信じきっていました、自分が貧しい者であることを。でも、胸に手を当ててみて、本音に気づかされました。
実は思いあがりとねたみとの心に、私がふくれあがっていたことを。主よ、私が自分自身から解放されますように。
主よ、お願いいたします。
私の中で天の国と、この世の国々とがまぜこぜになってしまうとき、あなたの中にのみ、真の幸福と力添えとを見いだしますように。」