カルカッタより愛を込めて・・・。

次のアピア40のライブは9月13日(金)です。また生配信があるので良かったら見てください。

潜伏キリシタンとカクレキリシタン。

2018-06-27 13:23:19 | Weblog

 帚木蓬生氏の「守教」を読み終えた。

 一番最後にある主要参考文献は約80冊あり、それに目を通していくとやはりあった。

 帚木氏が作中人物に語らせたマザーの言葉はいなますさんが訳された「マザー・テレサ 日々のことば」からの抜粋だったようだ。

 このいなますさんの訳された本は以前彼女より10冊ほど送っていただき、友達に配ったこともある、私にとって思い出深いものである。

 作家と言うものは一冊の本を書き上げるのにどれだけの心身を入れ込むのであろうか、それを思うといつも敬服する、主要参考文献だけで約80冊あるのだから、ほかにもきっとたくさんの本を読んでいるはずに違いないのである。

 例えば、参考文献にはラインホルト・ニーバーの本などはなかった、しかしこれはあまりにも有名な祈りなのでわざわざ文献などを載せる必要などはなかったのだろう。

 帚木氏もこのラインホルト・ニーバーの祈りが好きだったのだろう。

 「神よ、変えることのできないものを静穏に受け入れる力を与えてください。変えるべきものを変える勇気を、そして、変えられないものと変えるべきものを区別する叡智を与えて下さい」

 「守教」を続けていく上でこの言葉・祈りを作中人物に語らせるところはほんとうに信仰の美しさが光っていた。

 潜伏キリシタンとカクレキリシタンとは実は違う、しかし多くの作家はすべてをカクレキリシタンとしてしまっているようで未だに統一性はないのである。

 禁教が廃止されてもなお、先祖代々の教えを守り続けている人たちがカクレキリシタンであり、そして禁教廃止により、また新たに洗礼を受けカトリックになった人たちは禁教時代を潜伏していたと言うことである。

 現在も長崎にいるカクレキリシタンの人たちとその信仰は受け継ぐ人もなく、もうすぐに無くなってしまうのだろう、どうか記録として可能な限りにその存在を残していってほしいと私は切に思うと同時に願う。

 ちなみに小説には記載はなかったが今村ではすべての潜伏キリシタンがカトリックになった稀なケースである。

 それだけ信仰のもとで一致団結していた証しかどうかは分からないがその意味をこの小説「守教」を通して内省する価値はあるだろう。

 
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読んでいる本は。

2018-06-26 12:01:32 | Weblog

 いま帚木蓬生{ハハキギホウセイ}氏の「守教」を読んでいる。

 まだ最後まで読んでいないが最後のデザートのあと40ページぐらいのところまで来た。

 この本の素晴らしいところは約260年に及ぶ潜伏キリシタンの生活のこと、題名のようにキリスト{教}、{守}った、細かく言えば先祖から教を代々守り抜く姿が描いているところだと感じている。

 転び仏教徒になったものと表面的にだけ転んだものたちがどのように住み分け、生き抜いて来たか、帚木氏の言葉を借りれば、潜伏キリシタンたちは「薄氷の上を歩くような」危険のなか、受け継がれていき、時の流れととも薄れて行く記憶のなかであれ、先祖からの教えを守り抜くために命がけでカトリックの教えを独自の形になって行ったとはいえ、いや、神父のいない時代にはそうならざるを得なかった過程などが描かれていることには敬服した。

 ザビエル来日からキリスト教が伝わり、禁教になり、明治の開教まであまりにも長い歴史のなかで何を描けば良いのか、作家はほんとうに苦労したに違いない、しかし、作家の故郷の福岡の今村に潜伏キリシタンがいたことを証明したい思いはあったのだろう。

 長崎のように現存し、または記録に残っている以外にもやはり「守教」していた村々は日本の至る所にあったのかも知れない、もちろん、それは殉教者を出した村々に限ることかも知れないが。

 本を読んでいて、ハッとしたことがあった。

 それはどうみても、これはマザー・テレサの言葉だろうと思う言葉が出て来り、またラインホルト・ニーバーの祈りなども出てくると私にはとても面白く思えてならなかった。

 さて、たぶん、今日か明日には読み終えると思う、また読み終えてから何か書きたいと思っている。
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今年の緑のカーテン。

2018-06-25 11:32:18 | Weblog

 今年も私の家の緑のカーテンは順調に育っている。

 今年は西洋朝顔、朝顔{白}、夕顔{白}と{赤}、ゴーヤ、パッションフルーツと、私の経験のない豪勢な緑のカーテンを見ることになると日々楽しみにしている。

 成り物も二つ植えた、ゴーヤは中長ゴーヤにし、その苗を買った時に近くに居たパッションフルーツも思わず衝動買いしてしまったのであった。

 パッションフルーツがなっているのを私は今まで見たことがないし、そして食べたこともない、フルーツ時計草と呼ばれるその花を見ないうちから、すでに収穫を想像してしまっている。

 今日は梅雨の合間のカンカン照り、このように日本の夏もこれだけ暑いのだから、きっと実を付けてくれることを願っている。

 日本が決勝リーグに出場することを願うように願っている。

 これは限りなく信じているに近いのである。

 寝不足なんて、そんなの関係ない、と言い放ち、間違えなく強くなった日本代表に感謝と喜びを持って賛美する。
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黄疸。

2018-06-24 12:15:06 | Weblog

 先週土曜日、山谷のMC{マザーテレサの修道会の略}の施設の近くで道路端に座っている黄疸の出ているおじさんに出会った。

 「これからカレーを配るよ。白髭橋においで」と言ったが、彼は頷いただけで私がカレーを配り終えても同じ場所に居た。

 私は彼が気になり、MCに戻って来てから話しに行った。

 彼はズボンを重ねて履き、上着も何枚か重ねて着て、汚れて小さくなったマスクで口だけを隠し、帽子を深くかぶり、顔を見せないようにしていた。

 彼の洋服から出た肌は黄色になっていて手の甲、腕にも浮腫が見られた。

 私は彼の傍で目線を合わせるようにしてしゃがみこんで彼に話し掛けた。

 「カレーを食べませんか?」

 「良い、お腹が空いていないから」

 「そうなの、だったら、空いた時に食べるようにすれば良いよ。カレーを持ってくるよ」

 「いや、すいません、食べれないから本当に良いんだよ」

 「何か必要なものはない?」

 「うん、大丈夫です」

 「そうなの、分かった。ではまたね」

 彼は始終ペコペコと頭を下げながら私とは目線を合わせずに答えていた。

 それから一度MCの施設に戻ったがやはりどうしても気になって何か彼が食べるものは無いかと思い、探していると枝豆の形になった一つスナック菓子があったのでブラザーにこれをおじさんにあげるために持ってって良いかと聞いてから、そのお菓子と要らないと言われたがカレーをビニール袋に入れて、近くにいたボランティアの女性を一人連れて、また彼のもとに戻った。

 私は「神さまに会いに行きましょう」とその女性を誘った。

 歩きながら、私は彼の様態を彼女に話した。

 「貧しい人は神さま」とマザーがずっと言っていたことも話した。

 彼の所に着くと、私はさっきと同じように彼の前でしゃがみこんで、「良かったら、これを食べないかな」と言ってビニール袋からスナック菓子を見せた。

 すると、少し彼の顔が喜んだように見えた。

 もしかすれば腹水も溜まっているだろう、身体に入るものと言えば、柔らかいものしかなかったかも知れないが、彼はカレーも一緒に受け取ってくれた。

 カレーは食べれないかも知れないが、誰かにあげても良いし、鳩や雀にあげても良いとも思った。

 何かの慰めになれば、それで良いとも思った。

 しかし、同時にどこまで関わって良いのだろうかとも考えた。

 私の善意が彼を傷付けてはいないのか、私が彼にしたことはほんとうに神さまにしたようにしたのか、最良のことをしたのか、どうなのか問わざるを得なかった。

 彼はまったくと言うほどに社会と断絶した場所に生きていた。

 体調が悪くなっても、誰に救い求めたり、面倒を掛けたりするのが空腹や病気の痛みより、どうしようもなく嫌なのであろう。

 私たちは非力であると告白せざるを得ないが、にもかかわらず、まったくの非力にする必要もない、ほんの少し、微細なものであれ、そのなかに思いを込めて働けるのである。

 私はそれを内省しながらMCに戻った。

 一週間後の昨日、彼には会わなかった、どうしているのだろうか、彼のために祈らざるを得なかった。

 
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うるうるした。

2018-06-20 13:24:36 | Weblog

 私はやはりワールドカップを見るのが大好きである。

 お蔭でここのところは少し寝不足になっている。

 昨夜は仕事を終え、車の中でPKの得点を知り、車のなかで一人吠えた。

 それから自転車をいつもより力強く漕ぎ、急いで家に帰り、いつも帰宅後すぐに行く愛犬あんの散歩をせず、後半20分からテレビの前に座り、ビールを開けた。

 そしてすぐにコナーからの半端ないヘッドにまた吠えた。

 信じられない、日本がコロンビアにほんとうに勝てるかもしれない、胸のなかで、うずうず、どきどき、荒波のように巻き起こり、それと同時にまだ何か起こるのではないか、コロンビアにゴールを入れられるのではないか、その不安が拭い切れないままアディショナルタイムまで続いた。

 アディショナルタイムは5分と表示されてから、もう祈りに時になった、時計の秒針が進むのを何度も見続けながらテレビにも釘づけになり、待ちに待った奇跡の時が訪れた。

 咆哮し、自然と瞳がうるうるしてきた。

 あんに日本が勝ったことを知らせ、すぐにあんとビールを持って祝杯をあげながら散歩に出た。

 胸のなかにはじんわりと喜びが溢れる、それをつまみにビールに口に流し込んだ。

 いつもお客が何人かいる近所の長崎ちゃんぽんにはお客は誰も居なかった、きっとワールドカップをみんな見ているのだろうと、私は喜び勇んで私の心象を勝手に投影していた。

 あんはそこの近くウンチをした。

 帰り道、すれ違う人はあまり居なかったが、すれ違う人に「日本が勝ちましたよ!」と言いたい気持ちになっていたが、そうはしなかった。

 その代り、落ちていた誰かのタバコの吸い殻を拾って帰った。

 嬉しさ、喜び、感動をありがとうと何度も心のなかで呟き続けた。
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再会の祈り。

2018-06-19 12:04:43 | Weblog

 土曜日のMC{マザーテレサの修道会の略}白髭橋のカレーの炊き出しには当たり前のことであるが、毎週必ず来てくれる人とそうでない人がいる。

 久しぶりに来る人は路上生活から生活保護を受けるようになり、生活が安定し、顔を出さなくなる人や、また病気になり来れなくなったり、刑務所に入り来れなくなったり人たちもいる。

 なかには亡くなり、炊き出しに来なくなった人もいるだろう。

 会えなくなった人たちをいつもどうしているのだろうかと思わずにはいられない。

 先々週の土曜日、一度最後まで炊き出しのカレーに並ぶおじさんたちに挨拶をし終え、また列の最初の方に声を掛けながら戻ると、うずくまり座っている人がいた、さっきは気が付かなかったが以前良く炊き出しに来ていたおじさんだった。

 彼は私の顔を見ると、苦しそうにだがゆっくりとその腰をあげた。

 「久しぶりです。どうしていたんですか?」と私はそう言いながら両手を彼に差し出した。

 彼も私の両手を握り、「脳梗塞をして入院していたんです。どうしてあなたに会いたくて、やっとどうにか来ることが出来ました」と満面の笑みで言ってくれた。

 「嬉しいです。ずいぶん長い間、来なかったのでどうしているのかと心配していました」

 「たぶん、二年ぶりぐらいになります。ありがとう、嬉しいです。また来ます」

 「うん、来てください。ほんとうに嬉しいです。良く来てくれました」

 彼はいつも一人でいたが、聖書や何かを気になることがあると小さなノートやチラシの裏にメモし勉強したり、文庫本を読んでいたりした。

 そして紳士的でとてもユニークなところもあり、ある時はアンズの花が咲き、「これに何がなるのか?」と私が言うと、「一枚円札がなるんですよ」と笑いながら言い、「みんながすぐ採っちゃうから見張っているんです」とも言った。

 私は「じゃ、自分にもおすそ分けしてくださいね」と言い、私たちは笑い合った。

 しかし久しぶりの再会であったが、「あとでまた」と私が言ったにも関わらず、カレーを食べているだろう彼には会うことが出来なかった。

 そして先週の土曜日にも彼の姿はカレーの炊き出しの列のなかには見当たらなかった。

 私にはいつも残される、祈ることが残される。

 それは祈ることは決して無くならず、誰にも奪われるのことのない愛の継続の証しであるかのようである。
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べッティーとの最後の思い出。その6。

2018-06-18 11:22:48 | Weblog

 私は下を向き、べッティーの少し前をうな垂れるようにして歩いていると、ほんとうに不思議なことだが、神さまは私にチャンスを与えてくれた「ほら、お前のしたいことをいましなさい」と言ってくれたようだった。

 何が起こったかと言えば、それは大したことではない、私の左足の上にカラスの糞が落ちたのであった。

 私は立ち止まって振り返り、「べッティー」と私と同じように下を向いて歩いていた彼女の名前を呼び、糞の落ちた左足を見せた。

 笑いながら、私はその左足を見せた、するとその瞬間に今まで瞳に溜めていた涙は一瞬のうちに渇いていた。

 べッティーもそれをクスッと微笑んだ。

 私はすぐにウエットティッシュで糞を拭き取り、また歩き始めた、今度はべッティーの隣で歩き始めた。

 そして私はべッティーに言った。

 「べッティー、私は辛ければ辛い時ほど、マザーが一緒に居てくれることを感じる、そこにもちろん神さまも一緒。一緒に歩いていることを感じるんだよ。シアルダーはマザーが仕事をし始めた場所だから、そこで働いていると、どこにもマザーの面影が見えるようでね、マザーも同じような痛み・哀しみ・不条理を感じたに違いないことが手に取るように分かるんだよ、その時はマザーは私と一緒に居てくれるんだよ。私は物凄く辛い時、マザーの数限りない痛みを思うことにより、また歩く勇気を与えられる。私たちはいまマザーのカルワリオを歩いているんだよ。神さまも一緒に、愛に満ちたカルワリオをね」

 べッティーは微笑んで頷いてくれた。

 それから私たちはマザーと神さまと一緒に歩き出した。



 「あしあと」

 ある夜、私は夢を見た。私は、主とともに、なぎさを歩いていた。
 
 暗い夜空に、これまでの私の人生が映し出された。
 
 どの光景にも、砂の上に二人のあしあとが残されていた。
 
 一つは私のあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
 
 これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、私は砂の上のあしあとに目を留めた。
 
 そこには一つのあしあとしかなかった。
 
 私の人生でいちばんつらく、悲しいときだった。
 
 このことがいつも私の心を乱していたので、私はその悩みについて主にお尋ねした。

 「主よ。私があなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道において私とともに歩み、私と語り合ってくださると約束されました。
 
 それなのに、私の人生の一番辛いとき、一人のあしあとしかなかったのです。
 
 一番あなたを必要としたときに、あなたがなぜ私を捨てられたのか、私にはわかりません」
 
 主はささやかれた。

 「私の大切な子よ。私はあなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みのときに。あしあとが一つだったとき、私はあなたを背負って歩いていた。」


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べッティーとの最後の思い出。その5。

2018-06-14 12:00:02 | Weblog

 ウドルはしばらくしてから落ち着きを取り戻してくれた。

 私はシスターに明日日本に帰ることを伝え、別れの挨拶してからウドルたちとプレムダンを去った。

 大きな鉄板のドアの外に出ると、私たちがいま味った哀しみなどに一切関係のないホコリ舞う灼熱の雑踏があり、来るときとは違う違和感を感じずには居られず、そこに順応するには時間が必要だった。

 それをどうにか取り戻そうと私はウドルに言った「子供とあなたのためにスイーツを買おう」と。

 すぐ近くにあったケーキ屋に私たちは寄った。

 「何でも好きなものを言って。そうそう、駅にいるデナーダスの友達の分も買おう」と言ったが、ウドルの子はまだ心を開いてくれず、恥ずかしそうにしていた。

 ウドルも泣き顔から笑みを取り戻し、子に何が良いのと聞いていた。

 ウドルの子はケーキより安い飴玉を欲しがった、その飴玉とケーキを私は買ってあげた。

 パークサーカスの駅でシアルダーに戻るウドルたちと別れた。

 「また三年後{近年は三年に一度三ヶ月間コルカタに行っている}に帰って来るかも知れないから、元気でいるんだよ」と私が言うと、ウドルは「ありがとう!ブラザー!」と言ってくれた。

 プラットホームの雑踏のなかへ子の手を引きながら紛れ込んでいくウドルの姿を見てから、私とべッティーはオートリクシャーの乗り場に向かった。

 パークサーカス駅の傍の掘っ立て小屋の集まりの市場を頭をかがめ抜け、チャーナンバーブリッジの下を通り、通りの反対側に歩いていた。

 私にはもうべッティーを見ることが出来なかった、と言うのは、我慢していた涙が溢れて来たからであった。

 二度あることは三度あると良く言ったもので、今回のこのケースのように、私が運んだ患者が見舞いに行きたいであろう友達を連れて行けずに患者がすでに死んでしまっていたことである、亡骸にも会えずにである。

 その二回とも患者が亡くなったことを私は彼らに伝えた、その時、号泣したもの、悲嘆にくれ天を仰ぎ見るもの、その哀しみも私を覆い尽くしていた。

 後悔せずには居られなかった、もっと何か出来たのではないか、プレムダンのボランティアに随一運んだ患者の様態を聞くことも出来たはず、私の心配りの少なさが同じ過ちを繰り返してしまった。

 私たちは疲れと哀しみから無言で重い足を引き吊りながら歩いていた。

 しかし、私は何かをべッティーに言いたかった。

 ウドルが去ったいま、私が癒す必要があるのは一番傍にいたべッティーであった。

 {つづく}

 
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べッティーとの最後の思い出。その4。

2018-06-13 11:45:31 | Weblog

 プレムダンの鉄板の大きなドアから入り、門番に挨拶すると、私とべッティーは止められなかったが、ウドルと子は止めれらてしまった。

 シスターから許可はもらっていると言ってどうにか一緒に入れてもらえた。

 これも彼の仕事であると思いながら、慣れない場所に来たウドルは緊張し始めていたので「大丈夫、心配しなくて良い」と私は言った。

 女性病棟の入り口のところで二人を待たせ、私は責任者のシスターに会いに行った。

 シスターは忙しくマーシーたちに指示をしているところだった。

 私がシスターに声を掛け、挨拶すると、少し怪訝な顔をしていた。

 「デナダースはいますか?」と聞くと、「彼女は死んだ」とシスターは答えた。

 「いつですか?」

 「もう一週間前です」

 私が愕然となり、言葉に詰まっていると、「あなたに連絡を取ろうと思っても、ケイタイの番号も知らなくて連絡は出来なかった。前、働ていたクレアはちゃんと番号を教えていたから、患者に何かあった時は連絡することが出来たけど・・・」とシスターは言った。

 私は私にほんとうに連絡をする必要があれば、マザーハウス{マザーテレサの修道会の本部}に電話をすれば必ず連絡は取れるはず、しかし、そこまではしないのか、と思いながら、今はこの感情は必要ではない、過去を変えられる訳ではない、その思いは口先から出すことをすぐに辞めた。

 「分かりました。次からシスターにボランティアの電話番号は伝えるようにします。デナーダスの友達と子を今日は連れて来ているんです」

 「どうします?あなたがデナーダスの死を彼女らに伝えますか?それとも私が伝えた方が良いですか?」

 私は私から伝えても良いとも考えたが、言葉が確実に通じるシスターから、デナーダスの死の時を知り、ケアをしていたシスターから伝えてもらった方が良いと考え、「シスターから伝えてください」と答えた。

 シスターと私はウドルのところまで一緒に行き、私はウドルをシスターに紹介した。

 シスターは優しくデナーダスの死のことをウドルに伝え始めた。

 ウドルはシスターに微笑み、挨拶をした後、デナーダスの死を知ると落したグラスが割れるように泣き崩れた。

 子は訳も分からず、母親が泣きだした悲嘆の感情を受け、ウドルの着ていたサリーの端をつかみ、ウドルにくっついたままだった。

 私は泣き崩れるウドルを真正面から見ていた、隣にいたべッティーのことは目には入らなかった。

 しばらくシスターはウドルを慰めてくれた。

 シスターが去った後もウドルは泣き止まなかった。

 べッティーが小さな声で私に言った「テツ、チャペルに行きたいんだけど」と。

 私はすぐにべッティーがチャペルで祈りたい、もしくは泣きたいと思っていたことを感じたが、「べッティー、いまはこのウドルの傍にいなさい」と言った。

 私たちが何も出来ないのではない、このいま、ウドルの哀しみを分かち合うことが出来るのである。

 私たちは私たちの感情を超えなくてはならない、平和の道具、癒しの道具として、この身を使うことをすることがマザーの教えであることをべッティーに分かってほしかった。

 べッティーは「イエス」と小さな声で答えてくれた。

 {つづく}

 
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べッティーとの最後の思い出。その3。

2018-06-12 11:59:46 | Weblog

 べッティーが駅の仕事に参加するようになり、私はすぐにプレムダン{マザー・テレサの施設}にべッティーを連れて行き、男性病棟の責任者のシスターと女性病棟の責任者のシスターに紹介していた。

 それとシアルダーから運んだ患者たちやデナーダスにもべッティーを会わせていた。

 その時、デナーダスは私の顔を見ては涙を流した、「誰も見舞いに来てくれない。友達に会いたい」と寂しがっていた。

 すでに彼女の娘は一度面会に来ているとシスターから聞いていたが、私は彼女が会いたいと言う友達の名前を聞きメモした。

 彼女が会いたがっていた一人がウドルだった。

 そう言えば、ウドルが一番、私に「どうかあの人{デナーダス}を助けてください」と言い続けた女性だった。

 私は最後の駅の仕事を無事に終え、べッティーを連れて、ウドルと待ち合わせた場所に向かった。

 私が居なくなった後、べッティーに時間がある時はウドルをプレムダンに連れて行ってほしいと考えていた。

 ウドルは4歳ぐらいの小さな可愛い女の子と待ち合わせた場所でちゃんと待っていた。

 私はその小さな子を見て、なぜウドルが私との約束を破らざるを得なかったかをしっかりと理解した。

 路上で煮炊きをするような貧しい生活をし、小さな子までいるウドルにはデナーダスを心配し見舞いに行きたい気持ちはあったとしても、やはりなかなか行けなかったのだろうと。

 ウドルの子はとても恥ずかしがり屋で私たちと目が合うとすぐに目を逸らし、ウドルの後ろに隠れた、それがとても愛らしく思えて、私とべッティーは何度か顔を合わせ微笑んだ。

 たぶんインド人以外の人と一緒にいることがその子には生まれて初めてのことであったのだろう。

 ウドルはすまなそうに笑っていた。

 シアルダーの次の駅パークサーカスにプレムダンは隣接して立っている。

 駅のプラットホームから施設の入り口は反対側にあり、少し歩かなくてはならなかった。

 私とべッティーはプラットホームを普通に歩いていたのだが、ウドルの子は小さい子ゆえ歩くのが遅く、私たちが振り返り、ウドルを見ると、早く歩きなさいと子をせかし、終いには手を繋ぎ、速足で歩き始めた。

 私は「急がなくても大丈夫だ」とウドルに言うと、またウドルはすまなそうに笑った。

 {つづく}
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