今朝、マザーハウスではお別れの歌を歌われることを避けた。
その間、一人でこっそりとマザーと話しをしていた。きっと、自分はみんなから歌を歌われれば泣いてしまうだろうことを感じていた。そして、もし、自分が涙を流せば、病院の訪問を落ち着いて、出来るかどうかがよく判らなくなる感じがしていた。だから、シスターカリーナ、シスタードルシアには申し訳なかったが、歌われることを避けた。
病院はほんとうに落ち着きながら、全員とお別れが出来た。言葉なんかでは到底表せない、愛というものよりも強いものを暖かく感じ合い、彼らとお別れが出来たと思う。それは生きていることはなんて素晴らしいということを心と身体で感じ得ていたのだと思う。
もちろん、亡くなったからと言って、それが素晴らしくなくなる訳ではないとも思う。ただ、今、生きていることを感謝し合えることの意味を感じた。
こんなどこの馬の骨かも判らない自分を大切に思ってくれた彼らは神によって支えられている。
手に触れ、身体に触れ、ただ、ありがとう、そう胸のなかで何度も唱えた。
ディスペンサリーでは、みんなから歌を歌われ、真っ赤なハイビスカスの大きな花輪を首にかけてもらった。
言葉が見当たらない。胸が熱くなった。
プレムダンに別れを言いに行った。
昼食前、会話の出来る患者にはすべて別れを伝えた。
長テーブルにご飯が用意されたので仕事をしようと外に出ようとすると、サドゥーがプレムダンに咲いていた花を自分に持ってきた。そして、何人か患者たちとマーシーたちが花をくれた。そして、お別れの歌をみんなで歌ってくれた。
これには参った。想像していなかった。それゆえ、涙が溢れてきた。右上にあったジュリアンの写真も眺めた。涙が増した。
ほんとうにプレムダンは暖かな場所。
そして、自分は幸せ者。
次にいつ来れるかは判らない。しかし、先のことは誰にも判らない。だから、その時を、今を大切にしていきたい。ここでそうしてきた。
この三ヶ月間、無事に働けた。働かせてもらった。ほんとうに自分へのご褒美だった。
幸せとはなるものではなくて、気付くもの、感じるものだと思う。そうしたことを良く感じ考えた日々だった。
日本に帰ったら、このブログも読み直し、書き直してみたいと考えている。その前に、桜をぼんやり眺めよう。多摩川にも行こう。
ここに書いてきたことがすべてではない。書けなかったこともたくさんあった。それは良いことも悪いこともそうだった。そのことも想像して欲しい。
今夜はお別れのパーティーがある。ほんとうに嬉しい。そして、悲しく寂しい。それら全部ありがたい。
ここで出会ってくれた人たちに感謝する。ありがとう。