カルカッタより愛を込めて・・・。

次のアピア40のライブは6月でしたがお休みします。

最後の分かち合い。

2013-11-29 12:55:01 | Weblog

 ボランティアのOさんがとても申し訳なそうな顔をして、私に近づいてきて、こう言った。

 「先週はほんとうにすいませんでした。とても大事な話しをしているところで話してしまって・・・、でも、あの子にも話したいことがたくさんあって・・・。すいませんでした・・・」

 私は驚いた、と言うのは、Oさんがそのように思っていてくれたことや、私のなかでのそれはもう忘れ去れていたからです。

 それとは一週間前のダニエルとの最後の分かち合いの時のことである。

 私はMちゃんと連れて、イタリアに帰郷する忙しいダニエルに時間をもらい、私の洗礼のことやダニエルのMC入会までのことなどを分かち合いする場に誘った。

 それまで一緒にMCの施設二階でお茶を飲んでいたOさんも加わり、4人で行われた。

 しっかりと二人に分かち合いの説明をしていなかった私が良くなかったのだが、私とダニエルが大事な話しをしていることころで、二人はその話しに加わらず、まったく違った話しをその場でし続けたのである。

 私はその時確かに気がかりであった。

 これはもしかするとダニエルと私の人生のなかで最後の分かち合いになるかもしれないかけがえのない時間だった、それなのに隣で関係のない話しを二人はしていた。

 途中二人に話しを辞めてもらおうとも思ったが、ダニエルはいっこうに構いなしに私と会話をし続けてくれた。

 私は私のなかの心のブレを消そうとダニエルの顔をマジマジと見詰めなおした。

 そのうち、Mちゃんの話しも落ち着いたのか、私たちが大事な話しをしていることに気が付いたのかは分からないが、私たちの話しに感心を持ち始め、最後にはダニエルの話しをノートにメモまで取るようになってくれた。

 それで私はこの気がかりを忘れていた。

 そして、私はこの気がかりから、新たな学びを得た。

 それは自分の命をも他人に捧げるイエスの愛の教えが私にないことである。

 ダニエルとの最後の大切な分かち合いであれ、もしMちゃんの心に何か話したいことがあるのであれば、私は喜んでその時間を捧げなくてはならなかったはずであり、また心に気がかりを作り出していた。

 なぜ私が気がかりを作り出しかといえば、それは私に柔和な心が貧しいからである。

 如何なる時も自分を棄てて生きると言うことを、私はダニエルとの最後の分かち合いのなかで神さまはそれをさとすがために二人をその場に授けてくれたように有り難く思っている。

 またOさんの優しさにも敬服した。

 ダニエルとの最後の分かち合いも素晴らしいものであった。

 だが、このダニエルとの分かち合いに終わりはない、私の命が尽きるまで続くであろう。

 遠くはなれ逢えなくても、祈りのうちに。

 
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何故。

2013-11-28 11:52:05 | Weblog

 この前炊き出しのために白髭橋を渡り、炊き出しを配る場所まで向かう途中に一人のおじさんがワンカップの酒瓶を前に転がし酔い潰れていた。

 彼はズボンは小水で濡れていた。

 その彼にあとでカレーを持ってくるからと伝え、私はその場を去った。

 カレーを配り終え、彼のもとに戻ると、彼はまだ横たわったまま寝ていた。

 寒さのためにだろう、お腹を折るように身体を丸め寝ていた。

 まだかなり酔っていた、そのままでは酔いも覚めず、とにかく、暖かいうちにカレーを食べてもらおうと彼を起こすと、彼の手にはしっかりと財布だけは握り締めていた。

 それだけは盗まれないようにしていたのだろう、またそれだけ盗みの多いことも知っていたのだろう、彼は皮の厚い手でしっかりと財布を握り締めていた。

 辺りには尿臭が漂っている、冷たいだろうがそのことは彼は何も言わず、ただありがとうと言うばかりであった。

 そして、田舎から米を送ってもらうから、ぜったいあなたがあげるから、と目もまだ開けきらぬ酔いのまま、ただ感謝の言葉を口にし続けた。

 私は良いからカレーを食べてと、彼を起こし、どうにか腰を据えると、彼はまたありがとうと言い、尿臭漂う手を差し出した。

 私は彼としっかりと握手をした。

 私はカルカッタのボランティアのオリエンテーションの時や、その他でもマザーのことを話す時に、良くマザーが日本に初来日した時、山谷に来て、路上で酔い潰れた人たちを見て、マザーが何を言ったかを質問する。

 すると、大体の答えは「働かないで、そんな酔っ払って!」または「汚い・・・」と言うものだった。

 私は答えを教える。

 マザーは「どうしてこの人はそんなに酔わなくてならなかったのか・・・」と言い、その人の心の孤独を思いやったことを伝える。

 ここでマザーを愛していると思いながらも、にもかかわらず、まったくマザーと逆の心を持つ自身に気が付くのです。

 もちろん、誰もがマザーがしてきたことが簡単ではないことを知りつつもです。

 マザーの心の焦点はいつも目の前の相手の心に当てているのです。

 もちろん、尿臭便臭や身体をうじ虫にむしばられている臭いは酷いものであったろうが、マザーにはそんなことは関係ないのである。

 マザーは他に類を見ないほどの肯定的な人でした。

 そのマザーを私たちのうちに生かすためには、私たち一人ひとりはまずどうすれば良いのだろうか、その問いをあたため続けていく必要があるのだろう。

 
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信頼関係。

2013-11-27 12:34:51 | Weblog

 少し前にNHKで「イヌ・その秘められた力」と言う番組の再放送、晩酌の間、見ていた。

 その番組でなんと犬にはガン細胞を匂いで嗅ぎわける力もあると言うのでまったく驚いた。

 そして、そのなかで飼い主のアクビにつられて犬もアクビをすれば、飼い主との信頼関係が出来ているとあったので、これを知ってしまった私はやはりあんとの信頼関係を知りたいがために実験したのである。

 次の日、私はあんの前でアクビをした。

 しかし、あんはあんまり反応しなかった。

 それより、私があんのアクビにつられ、アクビをしたぐらいであった。

 翌日ブログを書いている時、あんは私の傍で日向ぼっこしながら幸せそうに寝ている、ちょっとあんに声を掛け、昨日よりも大胆に少し声も出しながら私が大きなアクビをするとあんもアクビをしたのである。

 私がどれだけ喜んだがお分かりであるだろうか。

 私はもうニコニコであんを「いい子だね~いい子だね~」とこねくり回したであった。

 そして、今日もあんは私の傍で日向ぼっこしながら幸せそうに昼寝している、その前に私はまた大胆に少し声を出しながら大きなアクビをしたら、またちゃんとあんもアクビをしたのである。

 私は今日もニコニコであんをこねくり回すのであった。
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きれいな容器。

2013-11-26 12:52:42 | Weblog

 炊き出しの食べ終わったカレーの容器を集めていた。

 カレーはプラスティックの容器にプラスティックのスプーンを付け、輪ゴムでまとめられた状態でおじさんたちには渡される。

 私はその容器の回収時、おじさんに声を掛けていく。

 一人のおじさんが話す友達もなく、背中を丸め、ただ無心でカレーを頬張っていた。

 彼はその三週間前と翌週、寒いのに短パン、裸足でサンダル姿だった。

 あまりにも寒そうに見えたので、服をもらいに施設の方に来て欲しいと声を掛けたぐらいだったが、彼は申し訳なそうにただ頷くだけだった。

 その日彼はまだ短パンだったが、靴下は履いていた。

 しかし、やせ細り、首周りから肌荒れを見るとアトピーだと言うことがすぐに分かった。

 何かを話す友達もなく、ただただ空腹を埋めるために彼がカレーを頬張る姿は私にはとても痛々しく見えた。

 少し離れたところから、彼のその姿を釘付けされたように見ていると、もうご飯のなくなったそのプラステッィクの容器を舐め始めた。

 猫のように容器がきれいになるまで舌を出し、舐め続けていた。

 恥も外聞も何もない、ただ空腹を満たすのみ、必死に命を繋ぐのみ、それだけに生きているかのようだった。

 いつから彼は恥も外聞も何もなくしたのだろうか、それを思わずには居られなかった。

 その過程にはどんな辛いことが彼にあったのだろうか、それを思わずには居られなかった。

 彼のあるかどうかは分からない自尊心を傷付けないように、容器を彼がきれいに舐め終わるまで、私は彼のそばに近寄らなかった。

 そして、彼がきれいになった容器を片付けるのを見計らって、そっと傍に行き、彼から容器を預かった。

 「また来週も来てね」と優しく言うと彼は首筋をボロボロ掻きながら、かぼそい声を申し訳ないそうに「はい」と答えた。

 私は微笑むことだけをそこでした。

 「あなたは愛されている」と言う心を微笑みのなかに込めて。

 近くにいた初めてボランティアに来たMちゃんにその容器を渡した。

 「Mちゃん、どうして、その容器がきれいだと思う?」

 「舐めたんですか・・・?」

 それ以上私は彼女に何も言わなかった・・・。
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二度目の別れのミサ。

2013-11-25 13:05:37 | Weblog

 ダニエルはもう今頃イタリアの実家にいて、久しぶりに会う家族や友達たちと喜びの会話をしているだろう。

 そして、彼は新しい神さまからの召し出し、MCに入会することを伝えているだろうか、家族に伝えていられるだろうか。

 ダニエルは帰る前にこのことはとても大切なことなので会って直接言わなくてはならないと話していた。

 余計な心配を掛けたくないと彼も少しナーバスに話していた。

 私はどうか彼が家族に喜びを持って、MCブラザーの会への入会を受け入れられるように祈っている。

 ぼんやりと見上げた肌寒い曇った空を見上げ、この空の繋がりを感じ、思いの限り祈った、私の視界には電線に三匹の小鳥が何かを囁き合っている、「心配はない、大丈夫だよ」とでも言っているのか、遠く離れたダニエルのところにもきっと愛らしい小鳥が祝福するように囁き合っていることだろうと、私は思った。

 土曜日のダニエルの二度目のお別れのミサはとても素敵なものだった。

 これで私たちとはほんとうに当分会えなくと言う最後のミサ、ダニエルも言葉を慎重に選び、心を込めて一語一語を丁寧に発していたことが分かった、その緊張も良く分かった。

 ミサのなかでの彼の話しは彼の子供の時、冷たい雨降る日、父親が自分の大きなコートに兄とダニエルとを包み込んで、教会までの長い道のりを歩いていたことから語りだされた。

 彼の視界はでこぼこの地面だけだったが、優しく守られていると言う安心感こそ、イエスの愛だと彼は疑わなかった。

 ほんとうに愛情深い父親に育てられ、ほんとうに愛情深いダニエルが育ったことを思った。

 このミサの間、多くの人たちが彼との別れを惜しみ男女問わず涙を流していた。

 愛情深い父親のイエスの愛は明らかに伝染していることを目の当たりにした。

 私はこんな素敵なミサは初めてかもしれない、私は胸を熱くした。

 ダニエルに会わなければ、私は洗礼を受けたいとも、もしかすると思わなかったかもしれないと、そう思うが、しかし、これはすべて神さまの計らいであるだろう。

 そう感じ、そう思わずには居られないのである。

 ダニエル、今日マザーハウスのシスタープリマにあなたの手紙と私の手紙を送った。

 マザーハウスで私が洗礼を受けれると言うことは未だに夢のような心持ちになってしまう、そこには複雑に数々の思いが行きかっている、だから、喜びと緊張が胸から溢れ出そうになったんだ。

 すると、主の祈りが自然と私の口からこぼれだしていた。

 
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記念日。

2013-11-21 12:56:12 | Weblog

 今日はあんがうちに来た日である。

 あれからもう四年も経つのであるが、それはあっと言う間だった。

 あんが家族になってくれたおかげで、私はどれだけ癒やされ幸せな思いで日々を暮らしているか分からないほど、あんには感謝のしようがない。

 そんなあんは今も幸せそうに私の傍、ホットカーペットの上で昼寝している、子守唄のように優しくキャロル・キングの唄がそこを包み込んでいる。

 まったく祝福された空間のなかで私はパソコンのキーを叩いている。

 その叩く音もまたあんには気持ち良いかも知れない、時折「グゥー」と鼻から声を出し、伸び伸びしている。

 あんと同じように私は優しい気持ちに自然となり、祝福を受けているのだ。

 昨日マザーハウスのシスタークリスティーから手紙が届いた。

 マザーハウスのシスターたちは私の洗礼を皆喜んでいると書いてあった。

 とても嬉しい。

 私を祝福してくれているシスターたちの笑顔とマザーの笑顔を胸を一杯させる。

 私に洗礼を与えてくれるジョンからもメールが来た。

 私に洗礼を授けることが出来るとはほんとうに名誉なことだと書いてあった。

 彼もまた私は祝福してくれている、そのことが私には抱きしめられているくらい感じられるのである。

 なんと美しいことであろうか。

 神さまの愛が私の全身を満たしている。

 私は私の呼吸一つにも今感謝したい思いになっている。

 あんは規則正しくお腹を動かし呼吸している。

 「あん、あん」と呼んでみた。

 そしたら、耳だけあんは返事をし、それから、伸び伸びをした。

 とても気持ち良さそうである。

 クリスティーの手紙のなかにマザーのカードがあり、マザーの言葉があった。

 {In spite of all our weakness, God is in love with us and keeps using each one to light His light of love and compassion in the world}
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シミズ君へ。

2013-11-20 13:13:59 | Weblog

 いつも私の駄文のブログを読んでくれていてありがとう。

 私が洗礼を受けるために二十年の歳月が必要だったと言うことは、この私の二十年を愛していると言うことにも置き換えられるだろう。

 良いこともあれば、そうでないこともあったこの私の人生を満足している、受け容れられると言うことでだろう。

 それはあなたの心理士になるための十年もそうであったように、振り返れば、微笑ましくするすら思えるのではないだろうか。

 心理士に信仰がないと思われているようだが、そんなことはないと私は思っている。

 心理士はきっと患者のなかの治癒力、魂を信じているだろうからね、もし、それを信じられるずに居るのではあれば、そこに何の意味を見出すのであろうか。

 キリスト教を信じる私ではあるが、実は誰のなかにも信仰性なるものはある、それはあなたも感じるだろう、人間のうちには神さまを信じる心を育んできた歴史、神さまとともに生きてきた感謝の心が血液のなかにも流れているだろう。

 だから、私たちは誰もが手を合わせ祈ることを行っているのです。

 心理士にかかわらず、良い教師は生徒のそれを信じているだろうし、良い医師も患者の治癒力を信じているだろうし、良い親は子供のそれを信じているだろうし、また良い庭師は植物のそれを信じているだろうし、そのほかにもまだたくさんあるだろう、こうした人間だけではない対象まで私たちは信じている、空や太陽や風、雨、月、星などもそうであろう、こうした信じると言うことのなかに神さまの存在を私たちは忘れがちに成りやすいが、しかし、それは私たちにすでに備わり組み込まれている。

 ただ肯定的な思考と態度が必要である、それを持つ者はすでに平和の道具となり、周りのものを明るく照らし元気させることが出来るだろう。

 それを出来る人はその人自身だけで、それが出来るのだろうか、そこに神さまの光りを感じないだろうか。

 私たちは見えないものに包まれて生きている、見えないからこそ信じることを深め生きている、ユング派のあなたなら、きっとそれを感じられるでしょう。

 私はずっと楽しみにしている、もし、私が元気がなくなる時があれば、私をみてほしい、そんな期待をしているんです。

 そこも布置され、またどこかで布置され、と言う感じで、私たちには偶然はなく、必然である、また必然であると言うことを悲観したいものもあるだろうが、しかし、信仰性とはそれを肯定的に捉えていく様にある。

 どうしようもないことも私たちの人生には起きるだろう、その時こそ、すべてを神さまに委ねることを強く感じるだろう、その時こそ、道端に咲く小さな花や木々に教えを乞うように健気に生きる素朴さを学ぶであろう、そう、すべては大きなものに包まれいる。

 
 昨日文化学院の講師している時がテーマの遠藤周作氏の「さらば、夏の光りよ」を読んだよ。

 読んでいるだけであの校舎のこと、あの文化の学生だった時のことが色鮮やかに思い出されたよ。

 このことは後日またブログで書きたい。

 シミズ君、まだ読んでいないのでは、それは楽しみが一つ増えたことだよ。

 またゆっくりと語り合おう。

 文化学院の残党として。
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内省。その2。

2013-11-19 13:05:16 | Weblog

 やはり、何が決め手で何があったからと言うような唯一の確信が突如光りのように差し込んできて、私が洗礼を受けたいと思うようになったのではないような気がする。

 それは私自身の心の成熟とともにゆっくりと育まれ、気が付くとあたたかな陽射しに包まれていくような感覚とでも言ったら良いのだろうか。

 否定したことも、自我張っていたことも、悩んだことも、その一つひとつの小さな粒のようなもの集まりが結晶となり、洗礼と言うと形で現れたようなものである。

 すべてが私には必要だった。

 長い年月が私には必要だった。

 そこに神さまの柔和な愛情、決して見捨てることのない愛情を学び知り感じるようになったのだ。

 それを知るために、それを向かい入れるために、私は私の弱さ、愚かさを十二分に知る必要もあった。

 そして、それは今でもこれからも知りきることはないのだが、見守られている優しさのなかで私は芽吹くような息遣いで成長をしていく。

 過ちや失敗を正々堂々と受け容れていけるのである。

 すると、私のなかの神さまが活き活きしてくる。

 マザーの「最良のものを」の祈りの最後がほんとうに身に沁みるのである。
 
 「最後に振り返ると、あなたにもわかるはず
 結局は、全てあなたと内なる神との間のことなのです
 あなたと他の人の間であったことは一度もなかったのです」

 すべては神さまと私の間のことと言うそれは、行いを通してこそのみの深い信仰から生まれるこの深い意味が地面が水を吸い込んでいくように私のすべてに染み渡って、今もいくのである。

 もちろん、偉そうなことを口走る私は何ら一つも変わっていないような部分もちゃんとある、未だ愚かな者である、にもかかわらず、見守られていると言う愛を感じようになり始めたのである。

 洗礼を受ける決心には二十年以上掛かってしまったが、ただそこには間違えなく絶えはなくマザーの導きだけは確かにあったように思えてならない。

 そして、そのマザーの愛は神さまの愛であることを深く知り感じるようになり始めたのである。

 
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内省。

2013-11-18 12:58:49 | Weblog

 今マザーハウスでの洗礼の許可をもらい、ほっとしている。

 と同時に私は93年に初めてマザー会った時からのことや、それからのカルカッタや山谷でのボランティアの二十数年になる日々を思い返している。

 それはあまりにもいろいろなことがあった、容易には私は私のその時々の心たちを捜しようにも捜せないようにも思えるが、眩しくて目を瞑らなくては見れないような光りがそこに現れていたことにも気が付くのである。

 そんなことを胸のうちに内省している。

 私は人間を捕る漁師となったマザーの網の目にずっと捕まっていたのかもしれないと思ったりするのである、ただ私にはその愛の網が良く見えてなく、また怖かったのかもしれない。

 私は幾度もキリスト教徒から無理やりに押し付けられたキリスト教から逃げたり批判したり拒絶もした、だが、それはその人を拒絶しただけ、私のなかの影をその人のなかに移したものに拒絶しただけであった。

 私はそれにやっと気が付いたのである。

 ほんとうの意味でのマザーの愛、イエスの愛を知ろうとはしなかっただけであった。

 ほんとうの意味でのそれと言うのは、体験体感を通して、深く知ると言うことである。

 いったんそれを知り、感じるようになるともう拭い去ることなどは出来ないようになっていた。

 {つづく}

 
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夢。

2013-11-17 12:39:34 | Weblog

 昨日山谷に行くとブラザーノアスがニコニコしながら、私に手紙をくれた。

 それはカルカッタのマザーハウスの現総長のシスタープリマから手紙だった。

 「喜んでマザーハウスでのあなたの洗礼式を許可する」との内容だった。

 夢が現実になり、マザーの導き、イエスの導き、神さまの見守りに感謝せざるを得なかった。

 夕方、私にカテキズムを教えてくれたダニエルとその手紙を前に分かち合いをした。

 ダニエルはそこでまた力強く、そして、優しくイエスの愛を教えてくれた。

 そのダニエルが何とMCブラザーの会{マザーテレサの修道会 Missionaries of Charity}に入会するのである。

 分かち合いのその時、彼は詳しくその導きのことを教えてくれた。

 私のうちの夢が現実になる緊張と、彼のそれとが重なり合っていることを感じた。

 ダニエルと私はマザーに導かれていたのだった。

 
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