カルカッタより愛を込めて・・・。

次のアピア40のライブは6月でしたがお休みします。

ブラザーたちのマザーハウス。

2017-01-19 21:45:16 | Weblog

明日はジョンジー(私は私に洗礼を与えたくれたオーストラリア人司祭ジョンのことをジョンジーと呼ぶ。ジーとは、日本語で言えば、さま、と言うことである。だからジョンさまと言うことになるが、もっとも久しく仲が良い、兄弟のような親友なのでお互いをジーを付けて呼び合っている)とマンサタラのブラザーの家のに行く。
マンサタラはMCブラザーの本部であり、ブラザーのマザーハウスである。
明日の朝、ジョンジーがマンサタラでミサをあげるので、私も呼ばれた。
この前、ブラザージェフとバルナバス、バルナバスの友達のブラザーと食事をした時に、私がまだマンサタラには行ったことがないと言うと、是非来て欲しいと言ってくれたので、明日行けることになった。
明日は朝、ブラザージェフがパークストリートまで迎えに来てくれる。

さて、もう寝よう。
隣にあるバーからもれる音がかなり大きいが、疲れが、それを遠ざかることを期待して。

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疲れのこと。

2017-01-19 17:50:09 | Weblog

昨日はシアルダーを終えた後、マザーハウスのシスターから頼まれた患者のことでHOPEの病院に行き、ホテルに帰って来たのか2時だった。
もう何処にも行きたくないほど身体は疲れきっていたが、とにかく何か食べなくてはと、ホテルの前にあるティルパテで焼きそばを食べた。
いつも2皿食べるのだが、疲れ過ぎていて食べる気もしなかった。
すぐにシャワーを浴び、洗濯は後回しにして、お茶を飲み、一息ついた。
それで疲れがどこに行くでもなく、変わらずに全身にまとわり付いていた。
もうシュシュババンのオリエンテーションに行く時間だった。
ほんの少し横になったがベッドに吸い込まれそうになり、慌てて起きた。
覚悟を決め、気合いを入れ、外に出た。
激しく鳴るクラクションの音、舞い上がる噴煙、おびただしい人の流れに覚悟と気合いは木端微塵になったが足を止めることはもう出来なかった。
祈りが始まった。
私は私のこの疲れ、そこに渦巻く弱さを乗り越えたい、いつも望んでいたが、それが難しかった。
だが、いまちょうど試されていると思うと、私は疲れきった私を試してやろうと思った。
シュシュババンには50代の日本人の女性が2人いた。
私は疲れきった私を隠しきり、オリエンテーションが出来た。
シュシュババンでボランティアすることになった英語の全く出来ない2人だったので、彼女たちがボランティアする幼児の所に連れて行った。
ちょうど幼児たちの祈りの時間だった。
まだまだ祈りに集中出来る歳ではなく、騒いでいた。
でも、そこで幼児たちに触れると、疲れきった私は何処かに行き、癒やされて行くのを感じた。
カーリーガートで働き疲れたマザーがシュシュババンに行き、子供たちに会い、疲れを取っていたことを思い出した。
それを実感した。
2人の女性も深く嬉しそうだった。
子供たちの笑顔の力とはなんと素晴らしいものかと改めて深く感じた。

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写真。

2017-01-19 16:09:21 | Weblog

今日は木曜日なのでボランティアはお休み、掃除洗濯をしてゆっくりと過ごしている。
昨日は忙しくてブログを書くことは出来なかったので、まず昨日書きたかったことから書いてみる。

火曜日の夜はアドレーションの後、パスカーレのフラットでデナーを食べた。
パスカーレはフランチェスコ会のイタリア人司祭で1996年からカルカッタにいる、私の古い友達の一人である。
マザーハウスから、一緒にパスカーレのフラットに行くと、すでにサラダとパスタのソースは出来上がっていた。
イタリアのチーズも出してくれた。
食事の後、パスカーレはプロジェクターでたくさんの写真や動画を説明しながら見せてくれた。
そのすべて美しいものであったが、なかでも、亡くなる三日前のプレンダンを車イスで訪れたマザーの写真には胸が締め付けられた。
当時男性病棟の責任者だったシスターポリタが嬉しそうな顔をして付き添っていた。
マザーはこの日すべての患者を祝福したそうだ。
マザーは最後の最後まで現役で働き、その身体をすべてイエスに委ねていたことを目の当たりにした。
ダイヤダンの子供たちのドラマも素晴らしかった。
パスカーレは一人ひとりの子供の名前を言いながら、この後、その子供がどこに行ったか、いまどうしているかまで話してくれた。
盲目の子供を養子にもらったアメリカ人のボランティアのことも教えてくれた。
ほんとうに感慨深く、それらの写真や動画を見た。
パスカーレは愛の行いを伴ったシンプルなマザー愛の素晴らしさをずっと話してくれた。
ただパスカーレは名声、名誉、お金のために写真を撮ったりするために来るボランティアを嫌っていた。
これはパスカーレだけでなく、ジョンもそうである。
1994年から何度か来ている韓国人のボランティアが朝のミサで写真を撮ったことで、ジョンは、彼は変わったと、お喋りなあまり彼と話さなくなった。
韓国人の彼はもちろん私の友達である、そして彼はライターでもある。
だから、写真を撮る必要もあったのかも知れない。
ただやはり古いボランティアはそうしたことを嫌う。
なぜなら、マザーも好まなかったことであるからだ。
シスターメルシーマリアも朝のミーティングで許可を取っての施設での撮影であれ、フェイスブックなどの公共の場には患者たちの顔を出さないで欲しいと言っていた。
患者たちへの配慮、マザーを悲しませないことなどがその意向である。

パスカーレの家から帰り道、20年以上経つ、マザーと出会ってから年月を振り返った。
あまりにも美しい想い出が次から次へと波のように、私の胸に打ち寄せてきた。

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