今日は木曜日なのでボランティアはお休み、掃除洗濯をしてゆっくりと過ごしている。
昨日は忙しくてブログを書くことは出来なかったので、まず昨日書きたかったことから書いてみる。
火曜日の夜はアドレーションの後、パスカーレのフラットでデナーを食べた。
パスカーレはフランチェスコ会のイタリア人司祭で1996年からカルカッタにいる、私の古い友達の一人である。
マザーハウスから、一緒にパスカーレのフラットに行くと、すでにサラダとパスタのソースは出来上がっていた。
イタリアのチーズも出してくれた。
食事の後、パスカーレはプロジェクターでたくさんの写真や動画を説明しながら見せてくれた。
そのすべて美しいものであったが、なかでも、亡くなる三日前のプレンダンを車イスで訪れたマザーの写真には胸が締め付けられた。
当時男性病棟の責任者だったシスターポリタが嬉しそうな顔をして付き添っていた。
マザーはこの日すべての患者を祝福したそうだ。
マザーは最後の最後まで現役で働き、その身体をすべてイエスに委ねていたことを目の当たりにした。
ダイヤダンの子供たちのドラマも素晴らしかった。
パスカーレは一人ひとりの子供の名前を言いながら、この後、その子供がどこに行ったか、いまどうしているかまで話してくれた。
盲目の子供を養子にもらったアメリカ人のボランティアのことも教えてくれた。
ほんとうに感慨深く、それらの写真や動画を見た。
パスカーレは愛の行いを伴ったシンプルなマザー愛の素晴らしさをずっと話してくれた。
ただパスカーレは名声、名誉、お金のために写真を撮ったりするために来るボランティアを嫌っていた。
これはパスカーレだけでなく、ジョンもそうである。
1994年から何度か来ている韓国人のボランティアが朝のミサで写真を撮ったことで、ジョンは、彼は変わったと、お喋りなあまり彼と話さなくなった。
韓国人の彼はもちろん私の友達である、そして彼はライターでもある。
だから、写真を撮る必要もあったのかも知れない。
ただやはり古いボランティアはそうしたことを嫌う。
なぜなら、マザーも好まなかったことであるからだ。
シスターメルシーマリアも朝のミーティングで許可を取っての施設での撮影であれ、フェイスブックなどの公共の場には患者たちの顔を出さないで欲しいと言っていた。
患者たちへの配慮、マザーを悲しませないことなどがその意向である。
パスカーレの家から帰り道、20年以上経つ、マザーと出会ってから年月を振り返った。
あまりにも美しい想い出が次から次へと波のように、私の胸に打ち寄せてきた。