カルカッタより愛を込めて・・・。

次のアピア40のライブは9月13日(金)です。また生配信があるので良かったら見てください。

一番後ろのおじさん。

2014-09-30 13:29:39 | Weblog

 「オレはいつも最後でいいんだ」と彼はいつもカレーの列の最後に並ぶ。

 そのため私たちが来るまでの間、時間をぼんやりとつぶしカレーが配られる直前になってから急いで列に並んでいる。

 彼は路上生活をしながも、必ずヒゲは剃ってくるし、いつも身なりも清潔にしている。

 昨年の夏はしばらく見ないと思うと、ケンカで御用となり、俗に言われる臭い飯ではなく、路上生活者にとっては快適な空間のなかで三度の有り難い食事をいただいていた。

 「その時も彼は自分がいけないんじゃない、相手がふっかけてきたんだよ、オレは嫌だったんだ」と事情を苦々しく話してくれた。

 だから、今年の夏も私は冗談で「そろそろ快適なところに行きたいんじゃないの?」など言って彼を笑わせた。

 「もうそんなの一年前の話だよ」と彼は言ったが私は「いや、ずっとこれから言われるんだよ」と言うともう勘弁してくれと笑った。

 私はそんな彼と話をするのが好きであり楽しみにしている、それは彼も同じのようだ。

 私が4月にカルカッタから帰ってきて、初めて白髭橋の炊き出しで彼に会うと、「あぁ、これで来るのが楽しみだよ」と言ってくれた。

 私は彼になぜか魅かれる、背はさほど大きくないが力があるいい顔していて身なりはいつも綺麗だし、いつも自分をわきまえ、私を拘束しようと無理な語り方もしない、そして、私がカレーの容器などを集めている時など彼は「大将にそんなことをさせていけない」とまで言ってくれるほどである。

 きっと酒を酌み交わし、話をすれば、人生の先輩として苦労を重ねてきたであろう彼は私にどんなに為になる話をしてくれるのだろうかと考えずにはいられない。

 しかし、私は今のままでのある種特殊のバランスのままの関係を彼が望んでいるのかも知れないとも思えるのだ。

 言いたくないこと、教えたくないことも彼にはあるはずだろう、家族のことなどは彼から一切聞いたことがないのであるから・・・。

 彼が一番後ろに並ぶ理由の一つは私とゆっくりと話を少し出来るということもあるだろう、一週間に一度ほんの短い時間であるが、それを楽しみにしてくれている彼にとってはかけがえのない時間かも知れない。

 先週彼は「正月はだけはさ、ドヤに入って過ごすよ。今までずっとそうしてきたから。だから、来週から少し働きに行ってくる。しばらく会えないけど、よい正月を」と笑いながら言った。

 「そうか、それじゃ、よい正月を」

 私は冬の路上の寒さから解放され、壁の薄い小さな部屋のなかであるが寒さに肩を力を入れることもなく、正月をのんびりと新年を迎える彼の姿を想像した。

 「今日は元旦だから、いつもよりも酒がうまい」なんて一人呟いているのかな。

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カレンダー。

2014-09-29 12:33:28 | Weblog

 私のパソコンの画面の左にはマザーのカレンダーがある。
 
 そこにあるマザーの言葉はこうである「仕事に意欲を失ったら、{何のために}と考えるのをやめ、{誰のために}しているのかを思い出しなさい」

 マザーは仕事に意欲を無くす人の弱さを骨身にしみるほどに知っていたのだろう、きっと何度も何度も世の中の無常を目の前にしてきたからに他ならない。

 マザーの場合はどんな絶望にあっても、たとえ自らを無と等しいと思ったとしても、すべて神さまのためにある私であること、そして、祈りによって息を吹き返すような純粋な愛で行いへの意欲を持続させていたと思える。

 それは無理をしているのではない、神さまへの愛と信頼を乞い願うことにより、自らを喜びのうちにそうさせているだけである。

 私たちは例えば失敗をすると、自分を見下し責め、時に誰かのせいにもしたくなったりする。

 そして、そこに負のみしか与えれていないと感じてしまう。

 しかし、この負のみしか与えられていないと感じている時にこそ、大いなるものを与えられているのである。

 悔い改めること、謙虚になることを与えられて、今まで以上に生きる糧が根をはるのである。

 だが、辛い、あまりにも辛いと、教科書から学び取るようには決して行かない、分かっていることさえできない弱さも私たちにあってしまう、ましてや、他人からそうだと言われてもうんともすんとも行かないことが多い。

 それ故に自らが自らに問いかけるようにして生きる指針を思い出すしかないのかもしれない。

 しかし、そこには自らの力だけではない力が動き働くようにある。

 いい時ばかりではない、よくない時にこそ、神さまは私たちを決して見捨てない、マザーは生涯それを伝えたかったのだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

おぼろげに。

2014-09-26 13:01:19 | Weblog
 
 遠藤氏の著作をこれだけ読んできたとはいえ、彼を分かりきることと言うことではないだろうし、まだまだ読んでいないものもたくさんあり、遠藤文学はどうだこうだなどと語りたくもない。

 それはもしかするとある種の逃げかもしれないが、彼への畏敬の念でもあり、そして、やはり分かりきらぬのである、それは私のうちの何かが細かくどのように作品たちに接しているのか、私はその私を知り得ないのである。

 だからといって、何も語らない訳でもなく、今までも遠藤氏の作品を読めば記憶に留めるように駄文を書いてきた。

 私は間違えなく遠藤氏の何かに魅了され、目には見えぬ誰かの導きの働きもあり、彼の作品を手にしてきた。

 それはなぜであろう、と問えば・・・。

 一番身近なところでは遠藤氏のキリスト教に対する葛藤と私がマザーと出会い、キリスト教を知るようになって私のうちに芽生えた、それに似た葛藤があったからだと言える。

 遠藤氏は彼の母から丸投げされたように与えられた信仰をほんとうに意味で我が物にする過程に置いて、迷いながらもそこへ向かうそのマジメさ、その端々で母の愛がイエスへの愛に導いていく様は形は違えど、私が私の信仰に行きつく過程でマザーがいつも支えてくれたそれと似ているように私には思えてしまう。

 おぼろげにそう思うのである。

 おぼろげにそう思うのであるが、そこに肯定感と確信に似たものもあるかもと、また思い直すのである。

 葛藤とは大切な意志の成長の糧となり、人生を意味深くより豊かにするものと思うその心と姿勢で今日も生きてみよう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

遠藤氏の本たち。

2014-09-26 00:23:45 | Weblog

 私は最近遠藤周作氏の本を読み漁り、そろそろ間違えて同じ本を買ってしまいそう気がするので、ここで今まで読んだ本を書き出してみた。

 「イエスの生涯」「キリスト誕生」「沈黙」「侍」「スキャンダル」「砂の城」「死海のほとり」「おバカさん」「ヘチマくん」「海と毒薬」「白い人・黄色い人」

 「聖書のなかの女たち」「結婚」「わたしが・棄てた・女」「留学」「作家の日記」「深い河」「深い河・創作日記」「狐狸庵閑話」「母なるもの」「ピアノ協奏曲二十一番」

 「ユーモア小説集」「イエス巡礼」「心の海を探る」「心の不思議、神の領域」「勇気ある言葉」「夫婦の一日」「影法師」「王国への道ー山田長政ー」「落第坊主の履歴書」

 「天使」「大変だァ」「さらば、夏の光よ」「その夜のコニャック」「わが思う人は・上巻・下巻」「人生の同伴者」「フランスの大学生」「眠れぬ夜に読む本」「走馬燈」

 「あべこべ人間」「何でもない話」「よく学び、よく遊ぶ」「宿敵・上巻・下巻」「心の航海図」「日本紀行」「切支丹の里」「鉄の首枷」「ファーストレディ・上巻・下巻」

 「闇の声」「私のイエス」「口笛をふく時」「楽天大将」「彼の生き方」「ただいま浪人中」「十一の色硝子」「最後の殉教者」「王の挽歌・上巻・下巻」

 「王妃マリー・アントワネット・上巻・下巻」「私が愛した小説」「心の夜想曲」「春は馬車に乗って」「私にとって神とは」「深い河をさぐる」「無鹿」

 「心のふるさと」「ほんとうの私を求めて」「満潮の時刻」「悲しみの歌」「女の一生〈第一部・キクの場合」「女の一生〈第二部・サチ子の場合」「銃と十字架」

 「お茶を飲みながら」「狐狸庵対談 快女・快男・怪話」「ボクは好奇心のかたまり」「怪奇小説集」「生き上手・死に上手」「真昼の悪魔」「イエスと十二人の弟子」

 「それぞれの夜・遠藤周作編」

 あと奥さんの順子氏の本二冊。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アタラクシア。その2。

2014-09-23 13:04:08 | Weblog

 科学では到底言い尽くせぬ不思議なことはなぜかあるように私は思う。

 例えば、出会いなどはどうにも説明が付くものではなく、縁というほかないではないか。

 信じてもらえないかもしれないが、私がこの録画した番組を見た日にちょうど読んでいた遠藤周作氏の本「狐狸庵対談 快女・快男・怪話」の中に、なんと平成三年三月の放送後に立花氏と遠藤周作氏が対談している箇所を見つけたのである。

 発見した途端、少し鳥肌がたったくらい、まさしくシンクロニシティだと思わずにはいられなかった。

 私があまりにも遠藤氏の作品にはまり凝っていたせいでもあろうか、誰かに「さあ、じゃ、これをどうぞ」と導かれていることを感じずにはいられなかった。

 遠藤氏は立花氏との対談時はすでに最後の長編「深い河」を書き始めている。

 遠藤氏の死後発見された「深い河 創作日記」には平成二年八月下旬から書かれている、それには初期の段階からマザーテレサを小説の中で何か関連付けようと試行錯誤している。

 やはり昭和五十六年四月初来日に会ったマザーのことを遠藤氏は生涯聖人として畏敬の念を持ち続けていたのだろうと思った。

 遠藤氏は立花氏との対談の中でキューブラー・ロスを絶賛している。

 そして、輪廻転生のことを立花氏にこれから取り組んでほしいと懇願していた。

 その心の底辺には自らの最後の作品になるであろう「深い河」の淀みが見え隠れした。

 しかし、何の心配もなく、神々しい河はいつでもゆったりと人間の生も死も一色単に流れていたこと、その気付きと真理を遠藤氏は命がけで書き上げた「深い河」とその壮絶な創作日記から伝えてくれたのである。

 私はその衣擦れに触れるようなだけではあるが、シンクロニシティが私の知らぬどこからかやってきた。

 その先がどこであるかは分からない、だが、分からないままで私はなぜか安心し、その意味を深めるため、その感謝に値するように、私のうちに何かをゆっくりと育むのである。

 アタラクシアとは「エピクロスの主張した知恵の理想。外界からわずらわされない,激しい情熱や欲望から自由な,平静不動の心のさま」をいう。

 この心情が凡人の誰もが死を前にして、望まずにはいられない真理であり、人間はその過程に起こるあらゆる葛藤・迷いに関わらず、その叡智に向かい、生き抜き、死に行き成長してきた歴史があるということを私は切に願うである。

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アタラクシア。

2014-09-19 12:48:59 | Weblog

 もう何日か前の、あれはたぶん夕刊のテレビ欄の端に「脳死体験」という文字を見つけた。

 それは{NHKスペシャル 臨死体験 立花隆 思索ドキュメント 死ぬとき心はどうなるのか}というものだった。

 これはどんなドキュメントなのか、とても興味深く思い、携帯に放送の日時を入力した。

 私はその14日の放送を録画し、次の日に見た。

 かなりの月日を費やし作られた内容は何気なしに見流してしまうものではなく、生命の神秘への立花氏の飽くなき探求心は自らもガン患者となった今、それはある意味命がけであり、救いの道に繋がる深いものであったように思えた。

 内容が重厚だったのは、平成三年三月にも「脳死体験」のドキュメントを自ら企画し作り上げられていた、それを一層に深くしたものであるからであろう。

 もちろん、その間の科学の発展がある故に角度変えた検証や推察も可能になったからでもある。

 私は臨死体験の研究するネルソン教授の話に特に興味を持った。

 立花氏の「奥さんと臨死体験など、死の間際のことを話すとき、死後の世界についてどう感じていますか?」との問いに。

 「神秘的な体験をするとき、脳がどうように働くかという科学的事実は誰の信念を変えるものではありません。脳は必ず神秘的な体験に参加するように出来ているのですから。しかし、それぞれの人が体験した神秘をどう受け止めるのか、必ずしも科学で証明する必要はないのです。
 臨死体験をして亡きお母さんに出会ったとき、それをお母さんの魂と受け止めるのか、お母さんについての記憶だと受け止めるのか、それはその人にしか決められない心の問題です。その人の信念の問題なのです」

 この取材の半月後、ネルソン氏の奥さんはホスピスで亡くなった、雪景色の上にそんなテロップが流れるとネルソン氏の上記の言葉以上の奥深い心の言葉を思わずにはいられなかった。

 それから前回の「臨死体験」の時には死後の世界を証明するものはないと言っていた友人の世界初臨死体験を発表したムーディー氏と会うが、彼はその前回の取材の数年の後、精神的に病み、自殺を図り、臨死体験をした後、死後の世界を信じるようになったと語るのである。

 彼の話を聞く立花氏は彼の変わりように、彼自身が言うように矛盾を感じながらも、にもかかわらず、心のどこかではどのようにしたら、そう信じれるようになれるのか、ジャーナリストとしてではなく、一人の人間として一種の憧れを持って聞いていたように私には思えた。

 {つづく}
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

楽しい一日。

2014-09-18 12:55:28 | Weblog

 昨日のライブは無事に終わって一安心している。

 練習からの解放をいまゆっくりと味わう私の部屋にはちょうどビートルズが柔らかく流れている。

 昨夜の晩餐はいつものようにライブ終わりのアピアで行った。

 20年ぶりに私の歌を聴きに来てくれた文化学院の友達ユウとエリは「てっちゃん、歌がうまくなったね!」と言ってくれた。

 エリは「てっちゃんが文化の中庭で歌っていたのを思い出したよ」と言ってくれた。

 そういえば私はよく文化の中庭で授業中にも関わらず歌っていた。

 するとトネ先生に呼ばれて、「あなたは歌がうまいね」とまず褒めてくれから、「いまは授業中だから、あとで歌いなさい」って言ってくれたことを思い出した。

 頭ごなしに注意するのではなく、まず褒めてくれたトネ先生の優しさを思い出し、いまもなお、その優しさがあたたかに私のなかに残っていることにトネ先生の先生たる人間性の高さと生徒を愛する姿に改めて感銘した。

 昨夜は二番目に出た石川君と彼のお客さんの森さん、三番目に出た小川君と彼の奥さんとも一緒に飲んだ。

 そして、いつもライブに来てくれるサワキと和田さんと飲んだ。

 サワキはいつもよりも楽しそうでいて、いろんな料理を頼み、「ねぇ、食べて!食べて!じゃ、自分が取ってあげるから」と陽気に計らい、ほんとうに楽しそうだった。

 私の右手にいた和田さんと石川君はだんだん声をあげて楽しそうに話していた。

 エリは社会復帰したばかりなので仕事などはやはり気を使うことが多く、疲れてしまうと話していたが、やはり文化の友達に会うとどうも元気になるらしく、とても楽しそうにしていた。

 ユウは能天気に石川君や石川君の奥さんと話していた。

 石川君が普段携帯を売っていると聞くと「そんなこと、ほんとうはしたくないね、、、あなたみたいな人が、、、たいへんね、、、」と訳の分からぬことを初対面の石川君に話しているので、とりあえず、私は石川君に「ごめんね、バカだから許してね」と言うと彼は楽しそうに笑っていた。

 私は以前ユウから言われたことを思い出し、ユウに伝えた。

 「もうずっと前にユウにメールだったかで言われたことがあるんだよ。幼稚な夢だけで写真を撮っていていただけって。{彼女は写真をよく撮っていた}オレはさ、まだその幼稚な夢を捨てきれないでいるんだよ」

 「私、そんなこと、てっちゃんに言ったっけ?」

 「うん、その言葉がさ、なんかずっと重くな・・・。でもな、幼稚な夢を捨てずに育てていくことによってよ。それは変わっていくんだと思う。それがかけがえなくなっていくんだと思うな」

 「そうだね。みんな、そうだね」

 またそんな本気の思いが右手に持つ焼酎が慰めていった。

 そして、笑った。

 とにかく、笑った。

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

明日はライブなので。

2014-09-16 11:29:15 | Weblog

 ゆっくりとパソコンに向かい、ブログを書くことが出来ません。

 またライブが終ったら、ぼちぼち書いていこうと思っています。

 先日NHKで立花隆氏の「臨死体験」を見ました。

 とても素晴らしい内容だったので、そのことも今度書きたいと思っています。

 本は遠藤氏の「生き上手 死に上手」を読み終えました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

手紙。

2014-09-14 13:25:58 | Weblog

 これは友人から聞いた話である。

 彼はあるガンの末期の老女の話を教えてくれた。

 その老女は医師からもう今日明日の命であろうと言われていた。

 そのことは医師から一緒に住む息子だけに伝えてあったが、老女は普段と違った医師や息子、周りの態度からたぶん知っていた。

 友人は老女に「夜は眠れていますか?」と聞いた。

 「いえ、くだらないことを考えて、あまり眠れないんです」

 「そうですか、くだらないことを考えてしまうんですか・・・。でも、どうですか、夢は見ますか?」

 老女はクスッと笑い、「はい、子供の頃のことを夢に見ます」

 「それはどんなことですか?」

 「女学生の頃のことを夢に見るんです。私ね、その頃、手紙をもらったんです。それも隣の学校の男子生徒から。その人とは通りですれ違うだけで話もしたことがなかったんですが手紙をもらったんです。でも、その手紙も全部は読めなくて、友達が冷やかされてね。少し読んだだけです」

 「彼は出兵する前に手紙を渡したんですね」

 その老女は遠藤周作氏より一歳年上だった、遠藤氏の作品のなかには出兵前にこうして一度も話したことのない相手に遺書のように思いの丈を打ち明けざるを得ない青年の胸の痛みと純情がよく描かれているが、この老女も間違えなく同じ厳しい時代を生き抜いた一人だと思った。

 「それから、そのことはずっと忘れていました。それがですね。10年くらい前にまたその彼から手紙をもらったんです。彼はずっと私のことを探していたみたいで{どうしても会いたい}と書いてありました。もう80歳を超えた私にですよ。今更、何を話していいかも分かりませんでした。それで、弟がもう会わなくても済むように計らってくれたんです・・・」

 「本当ですか、ずっとその人は思っていたんですね」

 「先生{彼のこと}、そうかも知れません。でも、人生って面白いですね。私は親に決められた人と結婚したのですが、あまり良い人ではなくて、周りの人に嫌われてしまったりもしました。私がもし・・・、手紙をくれた人と・・・」

 老女は言葉を詰まらせ誤魔化し逃がすに団扇をもてあそんだ、その叶わぬ夢を払うように団扇を仰いだ。

 「ねぇ、先生。そんなくだらいことを思い出すんです。人生って、蕾のようにずっと咲かないまま思いを持ち続ける人もいるんですね・・・。人生って面白いですね」

 「そうですか、そうですね。ずっとずっと思っていたんですね。忘れられずに・・・」

 話を終えると老女は恥らう女学生のように微笑んでいたと言う。

 老女の住む家はかび臭く貧しいアパートだった、しかし、死を前にして、生きなおすかのように「もし」の世界を美しく描き、その夢と現実の狭間をもう二度と動かぬ身体でなく、心で行きかうように生きていた。

 友人は最後に老女にこう言った。

 「美しい話をありがとうございます」

 老女は彼の両手を取り、それを自らの額の上に近寄せ、瞳を閉じ、「こちらこそ、くだらない話を聞いてくれてありがとうございます」と喜んだという。

 信じられるだろうか、半世紀以上の間、一度も口を聞いたこともない相手を忘れらず、ずっと会いたいと思い続ける純情があることを。

 遠藤氏の小説のような話が生きていた。

 今は生きているかどうかすら分からない、たぶんもう亡くなっているのだろうその男性もその手紙を書いた時、もしかすれば死が間近だったのかもしれないと、いまの老女と同じように美しい憧れをうちに描いていたのかもしれないと、ふと私は思った。

 

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

名著。

2014-09-11 13:29:20 | Weblog

 トルストイの「イワン・イリッチの死」とヤンネ・テラーの「人生なんて無意味だ」を読み終えた。

 トルストイの「イワン・イリッチの死」は死に行く患者の心理、エリクソンのいう心理社会的発達理論の老年期の統合性と絶望の戦い・激しい葛藤とその退行を繰り返す過程とその向こうにある叡智、死へ向かう成長とが鬼才の文章で描き出されていた。

 患者の孤独と不安、それに向かい合う家族や医師の態度の在り方、そのすれ違いをこれでもかというほどに叩き付けられるようにあったイワン・イリッチの言葉たちは、普段の私の行い、患者たちと向き合う態度を考え直さずにはいられなくした。

 あの時代のロシアでどうしてここまで書き上げることが出来るのか、有史以来、誰もが乗り越えようとした死の恐怖、その死への恐怖への対決、その勝利へ向かう道をまさに真っ向から向かい合った鬼才の名著である。

 ヤンネ・テラーの「人生なんて無意味だ」は題名からも分かるように、そのパラドックスを意図するところ、生きる意味はあるということへの証明と現代にはびこるニヒリズムへの問い、中学一年の心理などが描かれる一読の価値が高い本である。

 「人生なんて無意味だ」と豪語するピエールに対して、必ず意味があると立ち向かうクラスメイトは自分の一番大切なものを「意味の山」に重ねていく、そして、自分がこんなにも大切なものを出したのだから、次のお前はもっと大切なものを出すべきだ、と次の者が一番苦しむだろうであるものを要求していく、終いには処女やギターを弾くの男の子の中指だったりと異常さを増していき、いつしか「意味の山」は意味を無くし、「人生なんて無意味だ」と叫び続けたピエールの勝利となり、みんなは互いをなじりあい、殴り合い、そして、その原因を作ったピエールをリンチして殺してしまう。

 描写などは児童文学では少し行き過ぎな部分もあるが、その根底に流れる深い問いは意味を成してくると思った。

 人生の意味を探れば、その答えは一つではないだろう、ならば、やはりその曖昧なものをあたため続けていくセンスを育むことの他ないと思わざるを得なかった。

 一遍上人の「心より心を得んと心得て 心に迷ふ心なりけり」のその心で。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする