1983年ローマの病院に入院していたマザーテレサの黙想から。
{イエスはわたしにとってどのような方なのか?}に対し、マザーはこう答えている。
「イエスは人となられたみ言葉。
イエスはいのちのパン。
イエスはわたしたちの罪のために十字架上でささげられた犠牲。
イエスは世と私の罪を除くためにミサ聖祭でささげられたいけにえ。
イエスは語られる言葉。
イエスは告げ知らせる真理。
イエスはたどられるべき道。
イエスは灯されるべき光り。
イエスは生きられるべきいのち。
イエスは愛されるべき愛。
イエスは分かち合われるべき喜び。
イエスはささげられるべき犠牲。
イエスはもたらされるべき平和。
イエスは食されるべきいのちのパン。
イエスは養われるべき飢えた人。
イエスはうるおされる渇く人。
イエスは衣服を着せらるべき裸の人。
イエスは招き入れられるべき住む家のない人。
イエスは癒されるべき病む人。
イエスは愛されるべき孤独の人。
イエスは受けいられるべき望まれない人。
イエスは傷を洗ってあげるべきハンセン病の人。
イエスは微笑みかけるべき物乞いの人。
イエスは話しを聞いてあげるべき酔っぱらい。
イエスは護ってあげるべき知的障碍者。
イエスは抱きしめるべき小さな子ども。
イエスは手をひいてあげるべき目の見えない人。
イエスは代わりに話してあげるべき口のきけない人。
イエスは共に歩くべき愛の不自由な人。
イエスは友であるべき薬物依存者。
イエスは危険から遠ざけ助けるべき身を売る女性。
イエスは訪ねるべき牢獄の人。
イエスは世話をするべきお年寄り。
わたしにとって、イエスはわたしの神、イエスはわたしの花婿、イエスはわたしのいのち、イエスはわたしの唯一の愛、イエスはすべてにおけるわたしのすべて、イエスはわたしのあらゆるすべて。
イエスよ、わたしは心のすべて、存在のすべてをかけて愛しています。
わたしはイエスにすべてをささげました。
わたしの罪までも。
そして彼は慈しみと愛を込めて、わたしを花嫁として迎え入れてくださいました。
いま、そして全生涯を通して、わたしは十字架につけられた我が花婿の花嫁です。
アーメン」
わたしたちはこのマザーの黙想を繰り返し黙想することにより、マザーの心にもっと寄り添うことが出来るのではないだろうか。
マザーは聖書のままに生き抜いた女性である。