カルカッタより愛を込めて・・・。

次のアピア40のライブは9月13日(金)です。また生配信があるので良かったら見てください。

病院にて。

2017-11-30 11:43:46 | Weblog

 1983年ローマの病院に入院していたマザーテレサの黙想から。

 {イエスはわたしにとってどのような方なのか?}に対し、マザーはこう答えている。

 「イエスは人となられたみ言葉。

 イエスはいのちのパン。

 イエスはわたしたちの罪のために十字架上でささげられた犠牲。

 イエスは世と私の罪を除くためにミサ聖祭でささげられたいけにえ。

 イエスは語られる言葉。

 イエスは告げ知らせる真理。

 イエスはたどられるべき道。

 イエスは灯されるべき光り。

 イエスは生きられるべきいのち。

 イエスは愛されるべき愛。

 イエスは分かち合われるべき喜び。

 イエスはささげられるべき犠牲。

 イエスはもたらされるべき平和。

 イエスは食されるべきいのちのパン。

 イエスは養われるべき飢えた人。

 イエスはうるおされる渇く人。

 イエスは衣服を着せらるべき裸の人。

 イエスは招き入れられるべき住む家のない人。

 イエスは癒されるべき病む人。

 イエスは愛されるべき孤独の人。

 イエスは受けいられるべき望まれない人。

 イエスは傷を洗ってあげるべきハンセン病の人。

 イエスは微笑みかけるべき物乞いの人。

 イエスは話しを聞いてあげるべき酔っぱらい。

 イエスは護ってあげるべき知的障碍者。

 イエスは抱きしめるべき小さな子ども。

 イエスは手をひいてあげるべき目の見えない人。

 イエスは代わりに話してあげるべき口のきけない人。

 イエスは共に歩くべき愛の不自由な人。

 イエスは友であるべき薬物依存者。

 イエスは危険から遠ざけ助けるべき身を売る女性。

 イエスは訪ねるべき牢獄の人。

 イエスは世話をするべきお年寄り。

 わたしにとって、イエスはわたしの神、イエスはわたしの花婿、イエスはわたしのいのち、イエスはわたしの唯一の愛、イエスはすべてにおけるわたしのすべて、イエスはわたしのあらゆるすべて。

 イエスよ、わたしは心のすべて、存在のすべてをかけて愛しています。

 わたしはイエスにすべてをささげました。

 わたしの罪までも。

 そして彼は慈しみと愛を込めて、わたしを花嫁として迎え入れてくださいました。

 いま、そして全生涯を通して、わたしは十字架につけられた我が花婿の花嫁です。

 アーメン」

 わたしたちはこのマザーの黙想を繰り返し黙想することにより、マザーの心にもっと寄り添うことが出来るのではないだろうか。

 マザーは聖書のままに生き抜いた女性である。

 
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アキラ姉さん登場。

2017-11-29 12:16:34 | Weblog

 先週の土曜日の白髭橋の炊き出しには月末だったこともあり、いつもより多くのおじさんたちがカレーを列に並んでいた。

 私はいつものように彼ら一人ひとりの顔を覚えるように挨拶をしていった。

 春先から秋まで下駄を履いている私だが、冬場になり、ブーツを履くようになってからしばらく経つのにおじさんたちの数人は「あれ、下駄は履いてない?」とニコニコしながら言っていた。

 カレーの列の最後まで行くと、可笑しな三人組が近づいて来た。

 と言っても、そのなかで強烈な恰好をしていたのは一人だった、厚底のヒールを履き、金髪のカツラを少しずれて、頭につけ、付けまつ毛をし、赤い口紅をしていた、そのオカマさんのスカートはパンツが見えるほどの超ミニスカートだった。

 その大胆な出で立ちに圧倒されながらも私は「おはよう!」と挨拶して、すぐに「ちょっと姉さん、スカート短すぎない」と声を掛けた。

 「良いの、いつもこうなの」と姉さんは少し酔っているのか、ねっとりとした感じで笑みを浮かべ答えた。

 姉さんの隣にいたおじさんは酔い疲れたように少しうな垂れていて、その隣には彼の弟と称する金髪の男性が彼を介護するように横にいた。

 私は彼らの前に腰を降ろし、少し話した。

 酔い疲れていたおじさんは姉さんのことをとても優しい人だと何度も言っていた、すると、姉さんは少し照れた顔を斜め下からゆっくりと上にあげた。

 「そうだね、姉さんはとても優しい顔をしているね」と私は言った。

 姉さんはその男性のことをいろいろと面倒を見ているようだった。

 酔い疲れた男性の両手の小指は良く見ればつめて短くなっていた。

 たぶん毎日ではないが仕事もしているのだろう、土方の作業着を着ていた。

 「姉さん、名前を教えてくれる?」

 「アキラ」と言って、またねっとりとした感じで微笑んだ。

 ここまで女装をして炊き出しに来るのは香咲姉さん以来であるが、アキラ姉さんは工事はしていないように見えた。

 アキラ姉さんは以前はタクシードライバーをしていたが、何かがあったのだろう、それは私には想像も付かないが大胆な出で立ちをするようになったようだ。

 しかしアキラ姉さんは見かけとは関係なく優しいようである。

 酔い疲れた男性は「人は見かけではない」と真実の言葉を何度か口にした。

 それは姉さんのことであるが、同時に自らの正当性や誇りをも重ね合わせていたように私には思えた。

 この男性にとってアキラ姉さんや金髪の男性は絶対的な癒しの存在であった。

 私も言った「もちろん、人は見かけではない」

 なぜなら、彼らは私の神さまであるからである、そうマザーは教えてくれたのである。

 
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仕事の帰り道。

2017-11-28 11:27:41 | Weblog

 昨夜無事に仕事を終え、今日もつつがなく仕事が終わったと、ほっとしながら、今宵の晩酌のことも考えながら、次のライブで歌うレオナルド・コーエンのハレルヤを夜空に向かって歌っていた。

 この歌はインドでも良く歌っていた、それゆえ長いこと歌っていると、英語の発音などが雑に固まってしまったまま歌っていることに、最近になって気が付き、英語の発音などをなるべく綺麗に発音しながら歌っていた。

 その一番歌詞のIt goes like this, the fourth, the fifthのところを気持ち良く伸びあがっていくように歌っていると、私の前に何かが横切ろうとしていた。

 自転車を止め、その何かを良く見た。

 最初ネコかと思ったが、やはり少し違ったホルムをしているとも思い、自転車をわざわざ止め、歌も途中で止めた。

 その何かはそれを見た途端から期待していたタヌキだった。

 とても丸い立派なタヌキだった。

 タヌキは私の少し前で通りを横切り、反対側の家の方に行き、そこで立ち止まっていた。

 タヌキが出て来たところは小さなサツマイモ畑があったところであり、そこから出て来た。

 通りを渡っただけでそこで立ち止まっているタヌキをしばらく見つめた。

 タヌキも私を見ていた。

 私はちゃんと撮れないかも知れないと思いながらも、スマホを出し、写メを取る準備をした。

 その間もタヌキは同じ場所にいた。

 私は思っていた、もしかすると子タヌキがまだサツマイモ畑の方にいて、私を見ているタヌキは母タヌキで小タヌキを待っているのではないかと。

 その間、運良く車や自転車、通行人も来ず、私は数枚写メを撮ることが出来た。

 だが、やはり肉眼で見ているようには撮れず、ピカッと目が光ったりしてしまった。

 そうこうしている間にタヌキは家の庭に入って行ってしまった。

 何年ぶりだろう、久しぶりにタヌキをしっかりと見た喜びと楽しさが世闇ととも私を包み上げた。

 それから私の自転車のペダルは少し軽くなった感じになり、またハレルヤを最初から歌い始めた。

 I've heard there was a secret chord.That David played, and it pleased the Lord.But you don't really care for music, do you?

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クリスマスまで。

2017-11-27 18:50:02 | Weblog

 あっという間にクリスマスまで一ヶ月を切ってしまった。

 この一ヶ月間も師匠が駆けずり回るぐらい忙しいのであるから、普段よりもきっとあっという間に過ぎて行くだろう。

 でも、私はこの年末の雰囲気がとても好きである。

 その好きな理由を自分の人生を振り返り、一つひとつあげていくことなど不可能ではあるが、ざっくりといえばお正月を迎える喜びと、カトリック信者になってからの私はそれまで以上にクリスマスを迎える特別な喜びがあり、あとは空気が澄んでいて遠くまで良く見えるのも、この季節の好きな理由の大切な一つに違いない、それは見えなかったものが見えてくる喜び、見えなくてもちゃんとあったんだという安心感かも知れない。

 さて今年の山谷のクリスマスの案内をしましょう。

 12月23日{土曜日}8:30からお弁当作り、10:00からプレゼントとお弁当を配り始めます。

 12:00からミサがあり、そのあと食事会です。

 お時間がある方は是非来て見てください、そして、あなたの愛を届けに。

 今年はこの日ので最後、新年は1月6日{土曜日}からカレーの炊き出しは始まります。

 その前に私は12月6日{水曜日}アピア40でライブがあるので、それまでは忙しい日々ですが、またそれが過ぎたら、ブログもゆっくりと書けるようになると思います。
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「黒ん坊」を読んでいて。

2017-11-23 12:18:00 | Weblog

 遠藤周作氏の「黒ん坊」を読んでいるが、今週になってから忙しく、そのページを開く時間がまったくなかった。

 遠藤氏の作品の「沈黙」や「侍」を読んだだけ人にはこのユーモア小説はあまりにバカげていると思うだろう。

 ウンコやヘのことが至る所に出てくる、それはあまりにも子供じみた笑いを誘う。

 遠藤氏も小説のなかで言っているがこれは遠藤周作ではなく、臭作が書いていると言うようなことを。

 しかしこれだけは言っておこう、遠藤氏の小説に必ずと言って良いほど出てくる聖書の幼児{おさなご}的存在はこのユーモア小説「黒ん坊」のなかにも出てくる、それは正しく主人公の黒ん坊である。

 遠藤氏は黒ん坊の存在のなかに幼児とイエスの姿をやはり描いている。

 キリスト教徒や聖書を読んだことのない人ではあれば、読み過ごしてしまうかもしれないが、こうした発見もやはり面白い。

 それとこの小説には本能寺の変で織田信長が火傷を負い、盲目になったが蘭丸とともに生き残ったと言う破天荒な物語になっているが、それはそれで秀吉との関わりを一段と面白くしていると言えるだろう。

 小説は半分まで来てしまったが、あと残りの半分は最初のペースより二倍三倍の速さでページはめくられるだろう、それだけのテンションをすでに私に与えられている。

 いま窓の外から雨上がりの太陽の顔がゆっくり優しく出て来た。

 部屋にはアンさんの歌声、オザケンの「ぼくらが旅に出る理由」が優しく流れている。

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小さなことに。

2017-11-22 11:43:00 | Weblog

 昨日ブログを書いていた時、コルカタのマザーハウスのあるシスターのことを思い出していた。

 そのシスターはボランティア担当の韓国人のシスターマーガレットである。

 ある朝、マザーハウスのボランティアが朝食を食べるホールでのこと、食後これからボランティアはそれぞれの施設に向かう前の祈りをする時である、その知らせをするためにシスターマーガレットはいつものようにベルを鳴らした。

 すると近くにいた私に満面の笑みで「今日はうまく鳴らせた!」と喜んで言ってきた。

 手振りのベルを鳴らすことなど他愛もないことであるが、日々のそうしたことのなかにですら小さな変化を見い出し感じ取り、それに心から喜ぶ、彼女はほんとうに聖書にある幼児のようであった。

 小さなことに思いの限りの心を込め、行いをすること、それと同様に、小さなことのなかに無上の喜びを感じることが素晴らしいと思う。

 しかしこれが演技であってはならない、自然と花開くように無上の喜びを感じるのである。

 難しいようでこれは難しくはない、祈り願いをすれば、誰にでも出来るのではないだろうか、まず心を静めで心を開いて、この世の中を喜んで見てはどうだろうか。

 確かに良いことばかりではない、しかし、決して、それだけではないのも事実ではないだろうか。

 あなたが微笑めば、あの方は喜ぶだろう。

 あなたが微笑めば、マザーが一緒に喜んでいると感じてみてはどうだろうか。
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時間を。

2017-11-21 11:52:12 | Weblog

 最近と言うか、ここ数年やはりおじさんになったのだろう、時間が経つのがやけに早く感じる。

 その時間のなか、手の平から流れて行く水のような時間の流れをつかむために何かの変化を実感したい欲求が生まれている、しかしこの欲求は知らない間に時間の渦に流れ落ちて行く不安からも生まれているようだ。

 思い返さなければ、ちゃんと生きていたのかとすら思い出せないほど一日はあっと言う間に過ぎて行く、だが、私はご飯も食べているし、愛犬あんと散歩したり遊んだりもしている、仕事もしている、朝も夜も経験している、丁寧に生きていない訳ではないが、ただただ時の経つのを早く感じてしまう。

 子供の時のような長い一日を感じたい果てしない夢を見てしまう。

 だが、それはやはり夢である。

 それではどうすれば良いのかと考えれば、この時間をつかむためには祈りはとても良いと思う。

 それと体幹トレーニングやヨガも良い、なぜ良いのかと言えば、祈りは祈ることにより静けさのなかに入り込め、時間を自由に行き来するのなかで今を感じられる、また祈りの内に感謝する心は現在があると言うところから生まれる、体幹トレーニングやヨガは昨日出来なかったことが今日出来るようになっている真新しい自分に出会えることと、その過程に起こる期待・希望を味わうことが可能であり、日々の違う自己の変化を感じられる。

 もちろん、体幹トレーニングやヨガでなくても、そうした真新しい自分に出会えることは可能である。

 これは最近の私と言えば、と言う話である。

 しかしそうこう言っても、やはり「時間が経つのは早い」と言ってしまうだろう。

 さて、どうすれば、とまた考える。

 やはり残された答えは「いつも喜んでいなさい」と言うことになるのだろう。

 時間が経つのが早いと思っていることもすべてありのままに受け容れ、今を喜んでいることが良いのではないだろうか。

 今日は愛犬あんがうちに来て八年目である。

 それはほんとうにあっという間だった。

 だが、あんと過ごした時間は感謝してもし過ぎることなど決してない。

 その今を私は生きている。

 今日も祈るように生き、他愛もないことのなかに喜びを見い出してみたいと思うのである。

 人生がそれを待っているのを感じながら。
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「いつもカッコ良いね」

2017-11-15 11:41:47 | Weblog

 炊き出しの列のなかに久しぶりに会うおじさんの顔を見つけた。

 彼はいつも真っ黒な服を綺麗に着ている、その風貌は一見カタギには見えない、元気な時は手配師をしていたようであるが今は生保を受け生活している。

 カレーの炊き出しに並ぶ他のおじさんたちは彼には話し掛けたりはしない、また彼も話し掛けようとはしないのである、一線がそこにはあり、何か住み分けでもしている山谷の暗黙の了解があるのだが、当たり前だが私には関係はない、それにそのおじさんがとても粋に見えて、私は彼のことが好きである。

 久しぶりに彼の顔を炊き出しの列のなかに見つけた私は少し驚いた表情をして、嬉しそうに彼に近づくと、川岸にある花壇に腰を据えたまま、顔だけ少し上げ、野太い声で「よぅ!」と彼は言った。

 話しを聞くと半年肺ガンで入院していたとのことだった、入院中、病室内は死にそうな奴らばかりで嫌になったと笑っていた。

 半年も入院していたわりには彼は以前とまったく変わらない様子であったことに私は安心した。

 カレーが配られ始まると、彼はゆっくりと肩で風を切るようにして歩いていた。

 カレーを食べ終わった後、彼は私の横を横切る時、私に顔を寄せ、「いつもカッコ良いね」と言った。

 私は微笑んで「父さんにはかなわないよ」と言うと、彼は鼻で笑い、そして、またゆっくりと肩で風を切るようにして帰って行った。

 私もその風を浴びた、そのなかには喜びが混じっていた。
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天気のこと。

2017-11-14 12:11:47 | Weblog

 土曜日、炊き出しのあとでカレーを食べ終わった小さなおじさんと話した。

 彼の身長は150センチぐらいである、服装は少し汚れているが路上生活のわりには綺麗にしている方だと思う。

 彼は釣りも好きでたまに池に釣りにも行っている、仕事も月に五日ほど今月は行くと言っていた。

 この前の台風の時はどうしていたかと聞くと、いつも首都高の高架下に寝ているが、その日は寝ることが出来ず、ずっと立って耐え凌いだと言っていた。

 あの台風の雨のなか、彼は独りでずっと耐え凌いでいたことは彼にとっては当たり前のことであろうが、私には到底そのようなことは出来はしない。

 そのことを考えなければ、そのままであり、何も変わらない、無関心のままである、だが、そのことを考えれば、私はもっともっと神さまに触れていることを感じられるのではないだろうかと思った。

 もう随分前だが、カルカッタのカリーガートの日本人のボランティアが言った言葉が忘れられない。

 一人の患者がカリーガート{死を待つ人の家}から出ることになった後、そのボランティアは言った。

 「天気がそれまでと変わりました。天気のことなど、今まで何も気にしていなかったけど、彼が出て行った後、天気のことが気になって仕方なくなりました。こんなにも変わるなんて知れなかった・・・」
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先日のこと。

2017-11-13 12:06:40 | Weblog

 ユカリ先生の本も買って、意気揚々とこれからトレーニングに励もうと思った時にメキシコの友達がメールが来た。

 彼女はまだ21歳だが、もしかするとこれからマザーの修道会に入会するかも知れないほど、熱心なカトリック信者である。

 私は「これから体幹トレーニングとヨガをする」と返信すると、少し曇ったような返信が帰って来た。

 「私の教会の司祭はヨガはダメだと言っている」と。

 私は「はぁはぁはぁ」と笑ったメールを返したが、すぐにそうか、とも思った。

 現在日本のヨガはアメリカ経由のものがほとんどであるが、インドから直接来たものにはカルトもあるのが事実であり、フリーセックスのヨガグループも日本にもあってしまう。

 そうした警戒からメキシコのようなカトリック信者の多い場所ではヨガへの警戒もあるのかも知れないと思った。

 住む場所が変われば、文化や歴史も違うのは当たり前である。

 実際インドでもヨガのカルトグループにはまってしまう日本人もいない訳ではない。

 エリクソンの言葉を紹介しよう。

 {神経症患者やパニックに陥っている人々は一般に、信じることを望むあまり、まだ確実でない信念でさえも狂信的に受け入れてしまうという事実を知っておくべきだろう}「青年ルター」より
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