カルカッタより愛を込めて・・・。

次のアピア40のライブは9月13日(金)です。また生配信があるので良かったら見てください。

私が祈り始めたのは。

2019-04-30 12:05:54 | Weblog

 今は人に祈りについて話すことがある私であるが、私が真剣に祈り始めたのは1995年1月から三ヶ月間のマザーテレサのボランティアをしていた時である。

 それまでに1993年、1994年と二度短い期間であるがボランティアをしていた、その時には祈りについて何も考えはしなかった。

 ただマザーやシスターたちが祈る姿を見て、何でそこまで祈れるのだろう、祈りとは何なのだろう、外の大通りから激しい雑音が聞こえてくるマザーハウスのチャペルではあるがこの静けさは何なのだろう、と代わる代わる脳裏に浮かんでくることを疑問に思うばかりで、私自身は疑問のその壁を超えることなく、祈りのなかに入れず、いや、入ろうとも考えず、ただの見学者のようなだった。

 しかし1995年、初めての長期滞在、それもある患者との出会いと別れがあったことで変わったのでないかと、祈りの必要性をこの身に刻んだのではないかと思う。

 その患者は両手はどうにか動いたが背骨のほとんどが褥瘡の悪化により見えていて、仙骨ももちろん見え、その近くにも信じられないほどの穴が開き、じん帯なども見えていた。

 私はそのような患者を今まで見たことがなかった。

 ただシスターからはそのケアを頼まれ「ハエが寄らないようにしてあげて」と言われた。

 それは治療とは言えない、もう手遅れであり、ただ膿を拭ってあげ、薬を塗り、ガーゼをあて、身体を綺麗にしてあげるだけであった。

 だが、私はその患者ととても仲良くなった。

 彼は自分がそんな身体であるにも関わらず、とてもユーモアがあった。

 彼のケアで一日のすべてを使った。

 そして疲れ切った身体を引きずるようにしてマザーハウスの夕のアドレーション{礼拝}に行った。

 私は彼のことをひたすらに思った、その日の彼との会話を反芻した、そして明日やるべきこと、どんな思いで接すれば良いのか、可能な限り想像し、また反省をもした。

 何故かは分からなかったがフランチェスコの平和の祈りのこの箇所を何度も惹きつられるように読んだ。

 「主よ、慰められるよりも慰め、理解されるより理解し、愛されるよりも愛することを求めさせてください・・・」

 私は今までこの祈りの真逆を望み生きて来たと思った。

 {つづく}

 

祈りについて。

2019-04-29 19:13:51 | Weblog
 盛岡の介護福祉士会の研修で少し祈りについて語った。

 「マザーは祈りなさいと、ほんとうに良く言っていました。何をどうしたら良いとか、祈りの言葉が分からないとかに拘らず、祈り方が分からなくても良いから祈りさいと言っていたんです」

 私はこのことをカルカッタ{現コルカタ}マザーテレサのボランティアをするには受けなくてはならない、シュシュババンでの日本人のオリエンテーションでも話していた。

 なぜなら、祈りの必要性を私は日々感じていた、と言うか、カルカッタでは私は病院の訪問や路上から瀕死の患者をピックアップするボランティアをしていたので、一日に何人もの死を目の当たりにすることもあり、それは頭から杭を打たれているかのような重さを全身に感じ、もう歩くこともままならなくなることが度々あり、呼吸するのと同じように祈りがなくては生きていけない、私自身に立ち戻れない思いに包まれることがあったからである。

 そうでなくても初めてのボランティアで一人ひとりが何らかしらの形であれ、祈りと言うものに触れて欲しい、シスターたちの祈る姿から何かを感じて欲しい、そして、祈りの必要性を実感してほしいと私は思っていた、それは同時にマザーの思いも同じではないかと思っていたからである。

 介護の現場でも、それは同じことと言えよう、日々の忙しさのなかで本来の自分から遠ざかっていたり、感情にのみ込まれてしまったりして他者や自らまでもを傷付けていることにすら気付かずにいてしまう危険性や大切なものを大切する当たり前さえも忘れてしまったりすることが少なくないからである。

 「そう言われても、私は祈りがどういうものかがまだ分からないです。祈り方が分からなくて良いと言われても・・・」とある男性が答えた。

 「ここにいるすべての人は生まれてから今までに手を合わせたことのない人はいないでしょう。それはすでに目に見えないものへの何かを信じる思いがあり、信じたい気持ちがあり、願い、希望、憧れもあると思います。すでに祈っているんです」

 「そうですよね…でも…」と彼はまだ咀嚼しきれないものを感じながら答えた。

 「私はある先生にこんなことを教えてもらったことがあります。それは生きて行く上で答えのない問いをあたため続けられるようなセンスが必要だと」

 「そうですか、答えのない問いですか?」
 
 「うん、すぐに答えを見つける必要はない。曖昧なものも大切にあたため続ける姿勢だよ。安易に答えを見つけて考え迷うことから逃げてはならない。悩む力、考える力を付けて欲しいと私は思います。そして悩む自分自身を大切にし、見詰め、時に励まし、信頼してあげることをしてください」

 彼はまだ奥歯に何かが詰まっているような表情をしていたが、私は今はそれで良いのだと思えた。

 なぜなら、彼はちゃんと私の話したことを自分のものにしようとしているからこそ悩んでいたのであり、安易に分かったふりなどせずにいる姿は、成長の準備段階であり、きっといつか彼は私の話したことを咀嚼し、彼のものとして受肉出来るようになるだろう、そう願わずにはいられなかった。

 私は彼のために祈りたいと思った。

司祭になるとは。その2。

2019-04-25 11:40:30 | Weblog

 しかし、私の本音としてはケンにはマザーの修道会の司祭になってほしいとずっと思っていた。

 マザーの修道会であれば、厳しい修道生活ではあるが司祭になったとしてもメールのやり取りぐらいは出来、いつかどこかで、特にコルカタでまた会えるのではないかと言う希望があった。

 その思いが私を少し哀しくさせ、そしてもう一生会えないと言う思いが寂しくさせていた。

 ケンも「MC{マザーテレサの修道会の略}は厳しいし、難しい」と言っていた。

 しかし、私はすべて決める前にメキシコにあるMCファーザーの会の本部か、ローマのMCファーザーの会を訪れたりしても良いのではないかと伝えた。

 ローマには私と一緒にステーションワークをしたスペイン人のアイメイがいるし、1995年にコルカタで会ったアメリカ人のMCファーザーのリチャードも長上としているからである。

 ただ私はこうも思う、私の思いなどは関係ない、ケンがどこの修道会を選ぼうと、やはりそれはそれで素晴らしいのである。

 例え司祭に慣れず、途中は辞めたとしても、また誰かと結婚して家族を持ったとしても、私は生涯、ケンを私の兄弟だと思うことであろう。

 コルカタではシスターたちにケンは司祭になるように言われていたらしい。

 もちろん私も何度となく司祭になるように言われたし、ブラザーたちにはブラザーになるように言われてきた。

 がしかし、私の場合は導きが弱く、ケンのは強いのであろう、私はやっとのことでカトリックの洗礼を受けたのである、それ以上、望むことはなく、考えられもしないである。

 マザーに司祭になりなさいと言われ、実際に司祭になった友人が私には三人いる、一人はMCファーザーの会に入会した。

 たぶんこの世界にはマザーにそう言われ、司祭になった人はまだまだいるのだろう。

 不可能なことではあるが、ケンもマザーに司祭になりなさいと言われたら、MCの司祭になったかもしれないとまで、私は夢見てしまう。

 しかし、時が経つにつれ、私の利己的な思いが落ち着いてくると、私は本来の喜びに包まれていく、私の兄弟であるケンが神さまのために生涯を捧げる意志が、決意が、私を喜ばせるのである。

 私に出来ることはケンの幸せを祈るだけである。

 それも私の喜びである。

 

司祭になるとは。

2019-04-24 12:20:42 | Weblog

 イースターのあと、久しぶりにシカゴの神学校に通っているアメリカ人のケンとビデオ通話をした。

 ケンは二年前、カルカッタ帰りに日本に寄ってくれた、その時に「司祭になる決心が強くなった」と私に話してくれた。

 ケンはホテルマリアの私の部屋の隣に住んでいた。

 朝、マザーハウスのミサに行くのも一緒、夕方のアドレーションのあとの夕食も一緒、ボランティアは私はシアルダーのステーションワーク、ケンはハウラーのステーションワークだった。

 一緒にいる時間が長く、その日の出来事、どんな患者を施設に運んだか、今日は何をしていたかなど、ほんとうにいろんなことを毎日話し合った、とても気の合う兄弟のようだった。

 ケンがアメリカに帰ってからも、私たちは毎日のように連絡を取り合った。

 私がこの二年間で一番連絡を取り合っているのはケンである。

 ケンにワッツアップで何か写真を送れば、必ず返信を帰って来るし、私も同じようにそうした。

 ケンの家は大きな庭があり、家族は信仰深く愛に溢れた家族であり、私が見て来たアメリカ映画そのままの家族と言っても過言ではない美しい家族である。

 そうした家に育ったケンがどのようにして司祭になろうと思ったのか、私はそのほんの少ししか知らないだろう、それは神秘と言ってしまえば、そうに違いはないが他人が分かりきるものではない、これもまた神さまの計らいなのであろう、恵みなのであろう。

 ケンは二年間の神学校でのコースをもうすぐ終わろうとしている。

 そして修道会に入り、司祭になる道に進むのである。

 ケンは観想修道会に入るらしい。

 インターネットもテレビもない、修道院内での労働と祈りの生活を生涯するのである。

 私のような凡人には想像も付かない人生を歩もうとしている。

 しかし、ケンはそれを間違いなく喜びと感じているのだろう。

 ならば、私もそれを祝福してあげたい、ケンの喜びを分けてもらいたいと思っている。

 {つづく}

 

八重桜。

2019-04-23 12:03:39 | Weblog

 昨日は多摩川に愛犬あんと散歩に行ったので、今朝は三沢川に散歩に行った。

 道すがら、家の近所で「私を見て」と言うほどに綺麗に花開いた八重桜があったのでスマホで写真を撮った。

 今日はアメリカ人の友達のケンの誕生日、昨年は一ヶ月過ぎた後にケンに「今日、誕生日だよね?」と言ってしまう勘違いをしていたので今年はしっかりとカレンダーにケンの誕生日を記しておいたのである、メッセージとともに八重桜の写真も送ろうと思った。

 三沢川は山沿いを流れる小さな川である、いまその新緑が神々しいほど美しい。

 ウグイスやホトトギスの鳴き声が何とも気持ち良く、心地好く聞えてくるのである。

 しかし、あんと言えば、そうした情緒はないのだろう、ひたすら、辺りをクンクンして、あんはあんで楽しんでいた。

 それからあんの友達のあんと同じ柴犬のアリちゃんちの前の通ると、アリちゃんのおばさんがいて、「どうぞ入ってください」と言うので、あんと喜んでアリちゃんちの庭に入り、そこであんのリードをいつものように外してあげた。

 あんはおやつをくれるアリちゃんのおばさんが大好き、滅多に振らない自慢の尻尾をフリフリさせて、アリちゃんのおばさんのところに一直線で行った。

 あんの思いはすぐにアリちゃんのおばさんに伝わり、「あんちゃん、おやつ、食べたいの?」と言って、家のなかからおやつのビスケットを持って来てくれた。

 その間、あんはずっとお利口にお座りをして待っていた。

 アリちゃんの分まで、あんは食べようとすると、アリちゃんに「ウゥー」と怒られていた。

 まったくあんは食いしん坊である。

 それから少し世間話と言うか、近所の犬のことなどを話すと、共通の犬の友達が分かった。

 あんが子供の頃、毎日のように多摩川で遊んでもらったアイちゃんも良くアリちゃんに立ち寄るとのことであった。

 最近はあまりアイちゃんに会っていないが、あんはアイちゃんに会うと必ず喜ぶ、いや、実はアイちゃんよりアイちゃんのお母さんに喜んで居るのかも知れない、アイちゃんのお母さんにはとても可愛がってもらったことを忘れていないのである。

 家に帰って来ると、あんのリードを外し、私は明日からの天気予報には傘マークがあったので、これは良い機会だと思い、柑橘類の木に有機肥料をあげた。

 その間、あんはずっと一か所にいて日向ぼっこをしていた。

 何とも春の穏やかな時が私たちの間に流れていた。

 二本目に植えたまだ小さいシークアーサーであるがいち早く小さな白い花が開いていた。

春の盛岡。

2019-04-21 18:02:06 | Weblog
 今回の盛岡も本当に楽しかった。

 昨日の介護福祉士会の研修も無事に終えることが出来、ホッとしている。

 私の印象ではあるが盛岡の人は良い人ばかりである。

 昨日、私たちはマザーのことや介護のことを研修時だけに関わらず一日中話しあっていた。

 それは恵みの会話が咲き誇るようだった。

 今朝は滞在していたホテルの近くのカトリック教会で復活祭のミサに授かり、それから盛岡駅から徒歩15分くらいのところにある温泉に入ってきた。

 雫石川から見る白い雪の残る岩手山があまりにも綺麗に見え、思わず「綺麗だ」と声を出してしまい、しばらく足を止め、私は景色に溶け込み、無心になり、魅了されていた。

 私の両耳が喜ぶウグイスとホトトギスの鳴き声が心地良く、どこからともなく聞こえてきた。

 川岸の道路を歩き、ふと足もとを見れば、元気良くツクシをあちらこちらに顔を出して、春を精一杯に喜び生きていた。

 思わず「春だね、嬉しいね」と声が出てきた。

 「ありがとう」と私は目に映る春に微笑み声を掛けていた。


あん、狂犬病の注射をする。

2019-04-17 12:31:49 | Weblog

 今朝、愛犬あんをあんの主治医アヤコ先生の動物病院に連れて行き、狂犬病の注射をしに行った。

 私は昨日アヤコ先生に予約の電話を入れて以来、胸騒ぎがしていた。

 それは胸騒ぎと言うか、注射が大嫌いなあんが感じるであろう恐怖と不安に似ていた。

 私はあんが嫌がることは出来ることならしたくはないのだが、この注射と爪切りだけは胸を痛めながらも、あんにしてもらっている。

 「ごめんね」と思いながら、「あん、ガンバレ!」と言い聞かせ、注射器があんの背中に迫って来る時、「キャンキャン!」{イヤだー!イヤだー}と叫ぶあんを押さえ、終わったすぐ後にアヤコ先生からもらったおやつをあんにあげた。

 「えらいね!もう終わった!」とあんを褒めたたえた。

 「あん、自分も痛かったよ」と心のなかで呟き、あんを撫でてあげた。

 注射が終わると、すべてから解放されたことがあんは分かるのであろう、デレーっと床に顎を付けて寝ていた。

 その姿を見て、私も解放され、ホッとしたのであった。

 
 土曜日、盛岡での介護福祉士会の研修の用意をしなくてはならない、何を話そうか、と思っていると次から次へと話すことが増えて行く。

 結局、私は何をするかと言えば、神に祈るだけであった。

 昨夜仙台の友達がこの研修に私の話しを聞きに来てくれると連絡があった。

 もう会うのは10年ぶりぐらいであろう、ただただ嬉しく、このような機会を与えられたことに感謝し微笑んだ。

 

祈って欲しいことがあります。

2019-04-15 10:16:11 | Weblog

 いまロシアに16あるMC{マザーテレサの修道会の略}の施設が一つだけを残して没収されようとしています。

 ロシアはMCでケアしていた人たちを国がこれからは面倒を看るとのことです。

 シスターたちが愛していた患者たちやワーカーたちと別れるのはどれほど辛いことなのであろうか。

 確かに患者が少なくて施設を閉鎖し、他の施設と統合することは最近では韓国のブラザーの施設であります。

 しかし16の施設を一つにすると言うのはかなりのことです。

 シスターたちの胸の痛みを感じずには居られません。

 サイゴン陥落時、MCブラザーの施設はベトナムとカンボジアに5つありましたがすべて撤退せざるを得なくなった事実があります。

 この時のMCのブラザーの会の創設者ブラザーアンドリューの手紙にはこうあります。

 「今年はめまぐるしい一年でした。ベトナムとカンボジアの5つの修道院を失ってしまいました。建物は別に構いません。しかし、慣れ親しみ愛し合った人々が、酷いやり方で離れ離れになるのを見るのは、信じられないほどの痛みをもたらします。このことがあってから、私はもう前の私ではなくなりました。この出来事は、私の心に深い傷を残しましたが、この人たちのために、私は死の時まで、この傷跡を持っていたいと思います・・・・・・」

 これは手紙の最初の三分一ぐらいです。

 続きには「サイゴン陥落と、情勢が転覆したことについての詳細は決して語られないでしょう。新聞記者たちは出来事を隠蔽してしまいました・・・・・・」とあり、世に知る報道とは違う凄惨な世界をブラザーたちは目にしたのでしょう。

 私には想像すら出来ない痛みを味わったことでしょう、この彼らの痛みをマザーも同じように味わったことと思います。

 決して間違ってはいけない、憎しみや恨みを引き取るのではない、沈黙を硬く守り、痛みを引き取り、ひたすらに祈るである。

 私はロシアにいるシスターたちがイエスと硬く結ばれてあるように祈りたい。

 

長雨のあとには。

2019-04-11 11:56:31 | Weblog

 昨日は冷たい雨だった、一日中、止みもせず、良く降った。

 そして快晴の青空が春風とともにやって来た。

 誰の許にも。

 「光りを見なさい。そうしたら影はなくなるから」とマザーテレサは言った。

 私は光りを見て、それから、光りの当たっている世界をゆっくりと見た。

 ただただ美しいと思わずには居られなかった。

 自然と感謝と喜びが私のうちとそとに、お構いなしに浮かび上がって来た。

 数日前に見たミカンのツボミが大きくなってきていた。

 レモンのツボミもシークワーサーのツボミも大きくなっていた。

 玄関前に植えた二本の小さなオリーブの木の葉の許から小さな小さな芽が小さいながらも顔を見せ始めていた。

 光りを浴びようと健気に、そして謙虚に、「あなたが必要です」と光りに言い続けるようなその姿、私は学びたいと思った。

 冷たい雨を耐え忍び、それをまた糧として生きて行く健気な姿に私は見惚れてしまった。

ジャッジ。

2019-04-09 11:31:23 | Weblog

 先週の土曜日、白髭橋のカレーの炊き出しに、髪の毛の長い、杖をついた大柄な女性がカレーをもらうためにゆっくりとふら付きながら階段を降りてきた。

 私はそれを見て、その女性に「もうそこ{階段の途中}に座っていて良いよ。カレーはあとで自分が渡すから」と伝えた。

 すると、彼女を知っているおじさんたちが「あんな奴にカレーをやらなくて良いよ!ぜんぜんお金持ってるし、普段は凄いんだから!」と言い始めた。

 「分かったよ、それでも良いんだ。来てくれたんだから」と私は彼らをなだめるように言った。

 おじさんたちの声は彼女にも聞こえていただろう。

 私はおじさんたちが嘘を付いているとは思っていなかった。

 その女性がカレーをここで食べる必要もない境遇に居るのかも知れない、私も実際、その女性を過去に炊き出しで見たことも思い出せないほどだった。

 しかし、そうしたことはまったく関係ないのである。

 私たちは、と言うか、マザーテレサはジャッジをしてはいけないと言っているのである。

 誰からも嫌われるような人であれば、なおさらにその人に愛を届ける必要がある。

 私はすぐにその女性にカレーを持って行った。

 彼女はカレーの列の方には顔を向けずにカレーを食べ始めた。

 しばらく経ってから、カレーの容器を回収しにその女性のところに行き、彼女の病歴などをゆっくりと聞いた。

 誰からも心配されることのない、嫌われている女性であるが、落ち着いた様子で淡々と彼女は語っていた。

 最後に「お大事にね、また来てね」と私が言うと、「ありがとうございます」と彼女は答えた。

 マザーの言葉「イエスが今ここにいたらどうするか、そう考えて行動しなさい」