カルカッタより愛を込めて・・・。

次のアピア40のライブは9月13日(金)です。また生配信があるので良かったら見てください。

ハイキング。

2013-04-30 12:09:19 | Weblog

 日曜日はあんとハイキングに行った。

 どこに行こうかと考えた末、近場でまだあんが行っていない場所に向かった。

 菅村の山の上にあるフルーツパークの駐車場にミニを止め、そこから風吹き抜ける葉桜のソメイヨシノの並木を下り、右に曲がって、日テレの生田スタジオの前を通り、多摩美台公園に行った。

 この多摩美台公園は私も実は初めてでどんな所だろうと期待しながら、動物病院のアヤコ先生に言われた通りあんのリードを短くして一緒に向かった。

 そこに向かう自然遊歩道に入ると途端に新緑が一際輝き、その香りが森中を包むように風に舞い上がっていた。

 思わず、「あぁ~」っと言葉にしてしまうほど、気持ちの良い空気に微笑み、ここに来て良かったと一目惚れしてしまった。

 あんに「自由行動です」と言ってリードを自由にしてあげた。

 あんも嬉しそうにして、好奇心たっぷりに辺りをクンクンしていた。

 「ようこそ」と言われているかのようにウグイスの美しい声を聞こえてくる。

 こんなに気持ち良く美しい場所が近くにあったとは今まで知らず、もったいないことをしたと思ったほどである。

 森林浴は私に良いようにあんにも間違えなく良いだろう、泥の上、草の上、枯葉の上をあんは喜びトコトコ歩く。

 私はこの美しさを丸ごと平らげることなど不可能なのだろうが、可能な限り、私のこの内に取り込もうと深く呼吸するとともに辺りをゆっくりと見回し、それを感じれようとした。

 多摩美台公園の中を一回り終えてから、今度小田急線のよみうりランド駅に向かう自然遊歩道を歩いた。

 この道は一キロほどであるが、途中には竹林もあり、ここも何とも気持ちが良い。

 途中すれ違う人たちは挨拶を交わし、その中には、あれは何と言う名前のものであろうか、スキーに使う道具のようなものを両手に杖代わりに持って歩く集団にも出会った。

 そのようなものを使って歩くとやはり楽なのであろうか、私はビーサンにあんである。

 まぁ、人はどのような形でそれを楽しむのかは自由であり、何より「楽しい」とそれを喜ぶ形が良いのである。

 この道にはカメラや双眼鏡を持った老夫婦が居たり、これからよみうりランドに向かう親子が居たり、皆楽しそうに歩いていた。

 私とあんも全身で喜び楽しみながら歩いた。

 それはこの森から、この季節から、この世界からの恵みを素直に受けていた証しであろう。

 「ありがとう」と多摩美の森にちゃんと言って、「さよなら」をしてきた。

言葉遣い。

2013-04-29 12:12:35 | Weblog

 ここ一年ぐらいになるだろう、彼と良く話をするようになったは。

 彼は暑い日には汗をだらだら流しながらカレーを食べていた、その尋常ではない汗を見る度に私は「凄い汗だね」と言い、彼のぽっこり出たお腹を見ては「大丈夫なの?」と言う会話を重ねてきた。

 彼は糖尿病で福祉を受けていた、山谷にもバスを使い、カレーを食べに来ていた。

 土曜日は彼がカレーを食べ終わり、ベンチで一服しているところに、私も腰を下ろし彼と話した。

 汗の原因の一つは北海道生まれであるため、暑さに弱いゆえであることが分かった、そして、もう一つの原因は身体中に刺青を入れているので半そでなど着れないからだと言うことが分かった。

 腕から膝上までしっかりと全身に彫り物が入っている彼は、それを18、9の時に入れたと言う。

 どこまで何を聞いて良いのか、十分気を付けながら話を聞いた。

 彼は今60歳、15年前に彼の組が解散して、他の組に移っても良かったが、彼は足を洗い、北海道から東京に来たらしい。

 「指はちゃんとあるんだね、ヘマをしなかったんだ」

 「ちゃんとあるよ」彼は両手全指をさするように触りながら、「そんなヘマしなかった」と笑って答える。

 「刑務所には入ったの?」

 「札幌のね、当時は暖房もなくてさ、今はあるらしいけど」

 なぜ刑務所に入ったかは聞かなかった、それよりも、彼は女を買うんだったら札幌より函館の良いなど、もう二度と戻らないつもりの未練も枯れた北海道と過去の女の肌を懐かしむように語った。

 「凄い人生だったね」

 「うん、そうでもないよ」

 彼はいつもの調子で答える。

 陽射しは暖かく春真っ盛り、話す言葉の向こう側に彼は何を見ているのだろうと思っていた。

 胸元から少し見え隠れする刺青に、私は私の言葉遣いが浮き出すのを微かに感じ、それに厭らしさを覚える。

 もっと丁寧に、もっと愛情深く、そして、柔和に、私は彼らに接する必要性と、そうしていない罪を意識した。

 毎週何百と言うおじさんたちに会うが、その一人ひとりに対し、もっと彼らの人生を深く思いやるようにならねばと私はあのお方の声を聞く。

 

考えてみると。その4。

2013-04-26 13:15:40 | Weblog

 昨日、遠藤氏の「大国への道ー山田長政ー」を読み終えた。

 そこにペドロ岐部の話が出てきた。

 私は知らなかったこんな男がいたことを・・・。

 彼は一人でインドのゴアからエルサレムを通り、ローマまで行き、そこで神学校に入り、神父になり、またキリシタン迫害が激しく続く、日本に戻った男である。

 どのようにして言葉も分からぬ国々を通り、ローマまで向かったのだろうか、ただただ日本のキリシタンを神父となり、迫害に苦しむ彼らを励ましたいと死を覚悟で向かったのである、その神がかった強靭な強さは人間にほんとうに生まれるのだろうか。

 それが実際に生まれたのである。

 にわかには信じられぬこの事実に圧倒されてしまう。

 彼に神が生きたと言えば、そうであろう、ではどう彼に神は生きたのであろうか、私はそれに知りたい衝動にうずかされる。

 彼は結局本望通り殉教した。

 1630年16年ぶりに日本に戻り、長崎3年ほど潜伏したのち、東北水沢で5,6年ほど伊達藩にひそむキリシタンを励ましたが捕まり、江戸に連行され、小伝馬町でもっとも厳しいと言われた穴吊しの拷問にも転ばず、最後は生きたまま焼かれたのである。

 このペドロ岐部の話は遠藤氏の「銃と十字架」に詳しく描かれていると言う、ならば、もう読まずには居られない。

 さて、古本屋でこの「銃と十字架」が見つかれば嬉しい。

 今日は遠藤氏の「彼の生き方」を読み始める。

 考えてみても、私がどうして遠藤氏に惹かれるのかはやはり分かり切らない、それは私が私自身を分かり切らないことである。

 にも関わらず、私は私を知ろうとする。

 私は私を知る上できっと人間と言うものを知ろうとしているのかも知れない。

 だが、小説や本だけで、また知りえた知識だけで人間と言うものを分かったつもりになってはいけないその危険性を承知しておこう。

 私は私が愛したマザーの行いを通しても、学んでいく姿勢を崩してはならぬ。

 これに終わりはないだろう。

 人生は常に何かを私に問い続けているのだから。


考えてみると。その3。

2013-04-25 13:21:04 | Weblog

 あることを思い出した。

 それはすっかり忘れていたことであったが、一枚の写真を見ているようにはっきりとその記憶は鮮やかに蘇えった。

 カルカッタ、三月の暑い日の午後、私はプレムダンで一人で足にうじ虫のたくさんいた患者の治療をしていた。

 その足の指はすでに何本かうじ虫に蝕まれなくなっていた。

 治療をしているとマザーがプレムダンに来た。

 プレムダンの院長などのシスターと供にマザーはプレムダンの中を見て回っていた。

 ノビスのシスターたちは掃除している手を休め、すぐにマザーのもとに走り寄りたいのだがそうは出来ず、恋する乙女のようにマザーを遠めで眺めていた。

 その当時午後のプレムダンの男性病棟のボランティアは私一人だった。

 治療をしているところにマザーが来た。

 私は瞬時に治療をしていた患者のうじ虫に蝕まれていた足にガーゼをのせ、患者をマザーに会わせた。

 マザーは私のその行為に「それで良い、ありがとう」と言う微笑みを浮かべ、患者の頭に満面の笑みとともに右手をのせた。

 マザーは患者の傷を見るのではない、患者の痛み苦しみを見るのである。

 もし傷口をさらしたまま、マザーが患者に会えば、路上から運ばれてきたばかりのマザーを知らないその患者はどうしてもその傷口に意識が行き、自らを恥ずかしい者として感じてしまうかもしれない。

 それが患者の新たな痛みを与えることになりかねない、と私は瞬時に感じたのだろう。

 そのガーゼがなければ、必然と傷口にマザーも目をやり、患者も落ち着いてきた心情も傷口の痛みに意識されなおしてしまう、私はそれも反射的に避けたのである。

 マザーに良くないところは見せたくないと言う私心ではなく、患者の心情への計らいであった。

 マザーもそれに気付き、私に微笑んだのであった。

 その時のマザーの微笑みがまさに今一枚の写真を見ているかのように蘇えって来るのである。

 {つづく}

考えてみると。その2。

2013-04-24 12:43:11 | Weblog

 例えば、私はあまり「スキャンダル」のような小説は苦手なところがある。

 とは言っても、そのすべてが嫌いではない、ましてや遠藤氏の小説はもう読まないとファンを辞めるなどはありえなし、「スキャンダル」には素晴らしいと思う視点も多々あり、理解できないようなところはないのだが、人間の悪への記述、そのドス黒さは私には書けないし、また書こうとも思わない。

 だが、小説としてみるとその悪を書くことによって、人間探求への深みを増すのも事実であろう。

 「善悪不二」遠藤氏が好きな言葉であるが、私もそれに右慣れである。

 悪が私にないなど到底言えない、例えば、私が見てきたある種の悪はこうしたものである。

 カルカッタでボランティアをしている時、私は足にうじ虫がたくさんいた患者が駅から運んだ。

 それを自分の仕事を放り出し、見に来るボランティアがいて、それを見た途端、悲鳴をあげて逃げていくか、また激しい形相になったりする。

 相手にどんな影響を与えるかなどはまず考えれない状態であり、ただその人は異様な好奇心に捕われ、見たことのないものを見たい、尋常でない苦しみを見たい心情に我を忘れる。

 そうしたものを写真で収めたいと望む者と望まぬ者の争いも見てきた。

 望む者は異様な好奇心、望まぬ者は正義を盾に相手を激しく見下す。

 また人に見えぬように隠れて、そうしたものを撮るものもいる、そうしたものの心情は如何なるものか。

 これらはすべて悪と読んでも良いものでないか。

 私にもこうした悪は決してないと言えないのである、ただそれをするかしないかだけかもしれないし、また私はそうした感情を抑える術を学んだだけであるとも言える。

 そして、今は何をしなければいけないのかを瞬時に考え行動する深い意味を闇を超えて心と身体、汗と涙、死と死臭、生と愛のなかで、正しく善悪不二のなかで学んできたのである。

 もしマザーが居たら、誰も皆、自身の悪を抑えるだろう。

 それはどう言うことであろうか。

 マザーに見られている、その中の神さまに見られている、そんな心理になるがゆえ、悪の行動は抑えられるのだろう。

 言うなれば、マザーは正しく母である、子供が母に良くないところは見せれないと言う退行からか、またマザーの神聖な純粋性が辺りを愛のないような世界ですら愛を放つ力があるからだろうか。

 私はその前者、後者ともあると思えるのである。

 {つづく}

考えてみると。

2013-04-23 12:34:24 | Weblog

 土曜日は午前の山谷を終えて、和田さん、岡さん、カオルコと遠藤周作氏のお墓参りに行った。

 寒くて生憎の天気だったが、なぜか私はウキウキしていた。

 京王府中駅を降りて、バスに乗り換え、コンビニで先生が文句なく飲んだという菊正宗を買い、外に出ると雨が降り出していた。

 この雨は「そんなに騒ぐなよ」と遠藤氏の天から声のような気もしないでもなかったが、今回はお花も買って墓地に向かった。

 時に冷たい雨が強く降る中、にもかかわらず、紙コップで辛口の菊正宗をぐいっと飲むと、遠藤氏の話を私はいろいろと語りだす。

 小一時間は居ただろう、遠藤氏の「早く帰れよ」の声は雨になり続けていたが、少し雨が落ち着くとほっとする気持ち良さと酔いがどこからか笑いを誘う。

 この一年ぐらいである、私はほんとうに彼の作品にはまり、彼の意志への好奇心が止まなかった。

 カクレキリシタンの苦悩、弱い者への救い、日本人のキリスト教の芽生え、教会の問題、西欧のキリスト教文学と日本のそれとの違い、母なるもの、イエスの愛、日本的キリスト教、そして、無意識の世界、物語の元型など、数々あった。

 これは如何なることなのか。

 もう四年ぐらい前になるが、天草に行った時に隠れキリシタンの資料館に行ったことが始まりなのか。

 震災のあった年、コルカタに行く前にふいに選んだ遠藤氏の「イエスの生涯」、それは向こうではまったく読まなかったが、帰ってきて毎週山谷に行く電車の中で読んでいく内に、遠藤氏の作品をもっと読みたいと思うようになったの始まりなのか。

 だが、この時、現在のようにはまるとは想像もしなかった。

 「イエスの生涯」「キリストの誕生」と読んでから、「沈黙」で何かがスパークしたのだろうか。

 そして、遠藤氏もマザーが大好きだったことを知り、私の母校文化学院で講師をしていたことを知り、私の大好きな作家先生の友人であったことなど知れば知るほど、また私は私の好奇心の河を渡るように遠藤氏の作品を読みふけたのである。

 そう、「おバカさん」では山谷のことも書いてあった、そんな私との小さな繋がりを発見する度、玉手箱の鍵を見つけるような喜びがあり、そして、その中身はまだまだ深く広いのである。

 {つづく}

きっと。

2013-04-22 12:18:13 | Weblog

 土曜日は春はどこかに隠れてしまったように見当たらなかった、私の期待をよそにまだまだ三寒四温は続いているようだった。

 それを甘んじて受け容れるが如く、下駄ではなく、ブーツを履いて山谷に向かった。

 おじさんたちのお金がなくなる月末と言うことでカレーも550個ほど用意したが、寒さからだろうが400人ほどだった。

 その中にタカフミ君の姿はなかった。

 きっと実家に帰り、田植えの仕事を手伝っていることと願う。

 私の知らないタカフミ君を少し想像してみる。

 太陽の眩しさにはにかみ、くりっとした大きな瞳をぱちくりして、ぐっと奥歯に力を入れて、広い田んぼを大きなトラクターに乗って耕し、春の風を気持ち良さそうに浴びている。

 両親はその姿を見て喜び、稲の成長と彼を重ね見、祈る思いでいる。

 額に流れる汗をタオルで拭い、疲れると少しどもりながら独り言を口にしたりしている。

 昼食はひと仕事を終えた穏やかな疲れからも一際美味しくて、まだ前の物を飲み込み終わっていない内にまた次の物をほおばっている。

 もう空腹と寒さに震えることがなくなっていることさえ、すっかり忘れて元の生活の中にいる。

 帰ってきた放蕩息子タカフミ君は無条件に両親と新緑から愛されている、そう願い、勝手に想像してしまう。

 きっとそうであろうと。

 だが、きっと私は何も分かっていないだろう。

 にも関わらずだ、私は彼を思うのである。

 これだけはほんとうのことであるから。

 

三度目の正直。

2013-04-19 12:42:38 | Weblog

 ごろんと寝転がり、さて、冒険だとナルニア国物語を読んでいると、うとうとと夢の国に間違って入ってしまった。

 シエスタしたのだ。

 それはそれで気持ちの良いものだったが、起きてみるとなんと布団が飛ばされていた。

 ちゃんと布団止めをしたのに、三度同じ過ちは犯さないと警戒したのに、しかし、甘かった。

 布団止めはバネが伸び気味であったために、私は逆の三度目の正直を味わうことになった。

 さすがに呆れて笑うしかなかった。

 しかし、こうした失敗を幾度となく重ね、私はゆっくりとだがきっと利口になるのであろうとのん気に自分は大器晩成型だと勝手に思い込み、そ知らぬ顔で落ちた布団を取りに行く。

 南風が利口なのか、私がバカなのか・・・。

 やっぱり南風が利口と言う訳ではなく、私がバカと言う方に軍配が上がるのは百も承知の上にも、まだ逃げ場を探そうと考えるのであった。

 そうこう苦労しながら、しっかりと干した布団はその夜晩酌後のほろ酔い私に昼間の記憶を忘れさせ、瞬時に夢の国へと連れて行ってくれた。

シスターカリーナから。

2013-04-18 12:10:06 | Weblog

 コルカタのダイヤダンの院長をしているシスターカリーナは私の姉である。

 私の姉にいつからなってくれたかははっきりと覚えていないが知らないうちに彼女は私をMy Brotherと呼ぶようになっていた。

 たぶん、10年ぐらい前だろう、洗礼を受けるためにトシエがカリーナからカテキズムをマザーハウスで日曜日に教えてもらっていたところに、カリーナから私も呼ばれ何度か行った時くらいかもしれない。

 前回コルカタに行った時などは、カリーナは私に彼女がいるいないとか、私の結婚のことまで心配してくれ、彼女が出来るようにも祈ってくれたりしていた。

 三月にカオルコがコルカタに行くと、カリーナは私に手紙を書いてくれた。

 私が洗礼を受けたいと言い出したことをほんとうに喜んでくれているようである。

 そのカリーナの手紙にはナルニア国物語を読んで欲しいとあったので、早速行き慣れた古本屋二軒行き、ナルニア国物語を七巻全部買い揃えた。

 さて、これから読もうと思う。


 とブログを終えようとし、ふとベランダを見ると、干してあったはずのモーフがない・・・。

 ちゃんと止めて置けば良かったのだが、大丈夫だろうと、それはしなかった。

 事実一時間ほどはまったく問題がなかったのだが、風が調子を上げてきたのだろう、ふわぁっと飛んでいってしまったのだ。

 落ちたのはしょうがない、それでこれはちょうど良いと洗うことにして洗濯機に入れ、二階に戻ってくると今度は羽毛布団が無くなっていた・・・。

 まったく今日は風のいたずらが過ぎる、どうせなら一緒に飛ばせば良いのに、なんて思ったが、またこれはこれで良いだろう、布団のカバーも洗濯機に入れた。

 三度同じ過ちは犯さないと今度はしっかり布団を止めた。

 さて、冒険です、ナルニア国に入り込もう。

あん、病院に行く。

2013-04-17 12:45:37 | Weblog

 強い南風にあんは耳を後ろにそらせ、進行方向へひたすら突き進む矢のように歩き、狂犬病の注射を打ちに向かった。

 「がんばれ!がんばれ!」と私はあんに言った。

 病院への歩きなれない道はあんにとって緊張の連続、警戒心を高めているのが隣にいる私にはよく分かる。

 だから、「がんばれ!」と言葉が出るのだった。

 たかが注射だが、それは戦に向かうような感じが私たちにはしたのかもしれない。

 病院に着くとその玄関ではいろんな犬たちの匂いがするのだろう、クンクン全開で彼らの足取りを探していた。

 でも、白衣の先生をみるとあんは緊張を全身に走らせ、やっぱり病院は嫌い・・・、痛いことをするところとあんは認識してしまっている。

 体重計を測る台にも上れず、大人しく出来ず、ドアの方へひたすら逃げようとしてしまう。

 にも関わらず、大人しくなるように先生が試供品のご飯をあげると、それはしっかりと食べた。

 さて、注射となると、もうたいへんだ。

 「帰りたい、嫌だ!怖い!」と叫び、自慢の尻尾はたらんとだらしなく垂れてうろうろする。

 押さえつけようにも何が何でも嫌がり逃げてしまう。

 どうにもこうにもならぬと困り果て、その困り果てはあんも同じ気持ちだっただろう、一瞬のすきを狙い、どうにかお尻にブチュっと注射が出来た。

 あんの戦いは終わったと感じたのだろうか、それからは大人しく、伏せをしていた。

 先生いわく、リードを短くして、飼い主さんも呼吸を荒立てたりせず、落ち着いた低い声で話しかけ、犬を安心させることが大切と教えてくれた。

 恥ずかしいことにあんのことなると、私自身もあんと同じように息荒立てて注射を心のどこか嫌がっていた、それは小学生の時に予防接種で前に終わった友達に「痛くなかった?」とか泣いて出てくる友達を見たりして否応なしに恐怖心が湧き上がってくるような感じを思い出していたのかもしれない。

 ふとそんなことに気付き、恐縮した。

 あんは暴れすぎて疲れたのか、それから、フィラリアやフロントラインの薬を先生が用意している間、良い子にしてずっと伏せをしていた。

 「怖かったし、痛かったのに、あん、良くがんばった」とあんを優しく撫でてあげた。

 また来月は病院にワクチン注射を打ちに来るときは、私ももっと良い飼い主になれるようにがんばるとがんばったあんを見て思うのだった。

 病院を出るとその解放からか、あんと私はまだ吹く強い南風にも関わらず、行きのそれと違い、肩に積んだ荷物は病院に降ろして来たかのように心地良いものとして受けた。