カルカッタより愛を込めて・・・。

次のアピア40のライブは9月13日(金)です。また生配信があるので良かったら見てください。

想像は超える。

2009-05-31 12:06:27 | Weblog

 自分の想像は現実にはならなかった。

 昨日は雨が小降りになったこともあり、おじさんたちは650人くらい来てくれた。

 カレーは550個、それと冷凍ビビンバが450個ほどあった。ビビンバは野菜のみ、なかにコチジャンとゴマ油が入っているものだった。

 施設ではブラザーがそれをカレーと一緒に配ると言うので、足らなくなるのではないかとスペイン人のシスターが心配して話しかけてきた。

 まず、向こうに行って、おじさんたちの数を確認してからブラザーに一緒にそれを配るか、別にして配るかを伝えると答えた。

 白髭橋まで行くと、一目で分かった。550では足らないことが。

 ゆっくりとおじさんたちに挨拶しながら列の最初まで行き、ブラザーに今日は絶対に足らなくなるから、別々に配った方がいいと伝えた。

 550個のカレーを配っても、100人くらいは足らずにビビンバだけをもらって帰った。

 韓国語表記のみのビビンバだったので、何人ものおじさんにどうやって食べれば良いのかを聞かれた。

 自分はそのビビンバを一つ開けて、おじさんたちに見せながら、食べ方を伝えていった。

 まだビビンバを凍ったままだった。箸を用意していくことを忘れていたことに配りながら気が付いた。

 おじさんたちのなかには小枝を拾い、まだ解凍しきれていないビビンバをそのまま食べていた人もいた。自分は思いやりのなさを痛切に感じた。

 おじさんたちはほとんど帰ったあと、一人のおじさんが覚束ない手でビビンバを食べていた。彼は拾ったしけもくを耳に挟んでいた。持ち物は何もなく、やせ細り、足と顔に転んであろう時に作った擦り傷があった。

 話をすると、その彼は一日一食しか食べるものを口にすることは出来ないと話していた。

 濡れた髪の毛と洋服が物悲しさを強調する。

 「おじさん、タバコ吸う?」

 「うん。」

 「今日は雨のなか、良く来てくれたね。いつもあげないんだけど、今は誰も居ないし、良かったらタバコを吸って。」

 そう言って二本のタバコを渡した。
 彼は申し訳なさそうに、それを手にし、濡れないようにして、ポケットに仕舞った。

 耳に挟んだ濡れたしけもくのせめてもの代わりにとタバコを貰ってもらった。

 木曜の山友会の炊き出しも、雨のなか、420人ほど来たとのことだった。雨なので350個で足りるだろうと用意した食べ物も足らなかったとのことだった。

 おじさんたちは増えている。派遣切れで職を無くしただろうと人たちも目立つようにもなってきている。

 自分たちに出来ることへの限界はある。しかし、思いを込め丁寧に行いをする。そのことへの限界はない。

 傷付くほど愛す。そのことへの限界はない。

 
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この雨で。

2009-05-30 08:18:02 | Weblog

 この降り続く雨で、今日はカレーを食べに来るおじさんたちは150人くらいは減るだろう。

 月末なので雨がなければ、その月のなかでも一番多くおじさんたちは来るが、やはり雨になると少なくなる。

 今日は雨を避けるために首都高の高架下に並んでいるだろうが、そこには雨が風によって運ばれる。彼らのほとんどは傘を差さずに雨に濡れながら待っている。

 この雨によって、目に映る彼らの姿を感じる心は激しくいろいろと語り出すことだろう。

 この雨によって、あの喋れないおじさんとの約束は守られる確立は低くなる。

 会えると良いのだが。
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愛する姿。

2009-05-29 20:19:13 | Weblog
 彼女は物言えぬ不自由な身体の旦那さんのそばをいつも心配して、ハミングバードのように、その花である旦那さんの近くで、その蜜である旦那さんの穏やかな表情を見ては喜んでいる。

 愛する姿です。

 人が人を大切に思うこと。そこで心配する。悩む。微笑む。語る。触れる。時に涙する。

 すべて愛する姿です。

 それ自体まわりのものをも愛する想いへ色濃く目覚める光りを放つ。

 愛する姿は、まわりのものへも愛を与え続ける。無償の愛を与え続けている。
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雨の音。

2009-05-28 12:36:50 | Weblog

 部屋には今、外の雨の音とキャロルキングの声を流れている。

 どちらとも、優しいものである。

 空が明るくなり、雨の音は変調し、そのメロディーを変えていき、また真新しい音を作り出していく。

 優しいその音を聞いている。

 今朝はコリアンダーに水をあげる必要はなく、天が水を自分の代わりにあげてくれた。
 昨日まで二葉だったコリアンダーも三枚目の葉は大人の姿の葉を出してきた。あのぎざぎざの葉だ。少し大人びたコリアンダーが必死に天に向かって伸びていく。

 その過程を楽しみ自分がいる。

 優しい雨は降り注がれる。優しいメロディーを奏でながら、そして、空は色を変えていく。

 目には見えない速度でコリアンダーは動いているだろう。

 残念ながら、それは気付くまで、その動きは見えない。

 しかし、何だろう?見ようと思えば、そのわずかな動きでさえ、目に見えるのかもしれない思いにもなっていく。

 なぜなら、それは確実に成長をしていることを知っているからなのか。心がそれを喜んでいるからなのか。

 想いを巡らしては、微笑む。

 例え、唯一の正しい答えが見つかったとしても、それではワクワクする気持ちがなえて行くのではないかとも思ったりして、また微笑む。

 空が少し明るくなった。雨の音はしばらく休むみたいだ。

 ただその香りは置いて行ってくれた。ゆっくりと深くその香りを身体に入れて味わう。

 そして、また微笑む。
 
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苦汁の思い。その2。

2009-05-27 12:29:07 | Weblog

 カレーはぎりぎりでどうにか足りた。
 ボランティアもおじさんたちも一安心した。

 階段の下で山日労の人がカレーの二回目に並んだ数人の列を止めていてくれた。カレーは10個ほど残っていた。

 「それじゃ、二回目の人、ゆっくりと上がってきて。」

 自分がそう言う前に、二回目の列に一番最初に並んだおじさんが歩き始めた。すると、山日労の人が、それを激しく注意した。

 「待てよ!まだだろ!待てって言ってんだろ。おい!待てよ!」
 言われているおじさんは決して振り向きはしなかった。

 その騒ぎのなか、カレーの数を見て、一人のおじさんが列をわって入ろうとしてきた。

 「ちゃんと並べよ!みんな並んでいるだろ!どうしてそんなことをするんだ!みんな並ぶルールだろ!ちゃんと並べよ!おい!お前よ!並べよ!」

 そのおじさんは一度振り向き、ばつの悪い顔をした。

 その間、自分は何も言えなかった。山日労の人が言うことがあまりにも正しかった。がしかし、苦汁の思いが辺り一面を固まらせるように伝わった。

 怒り注意する彼の苦汁、見下されながら、そうせざるを得ない彼の苦汁、それを激しく感じる自分のなかに生まれた苦汁、それを目にしたその場にいた人たちのなかに生まれた苦汁、その怒り悲しむ苦汁の思いは確実に伝わった。

 そこには一瞬、愛の入り込む余地のない時間が流れた。

 この思いによって、もうすでにカレーの味も変ってしまうだろう。しかし、食べ物の味などを気にしていられる生活を送っていない人たちである。

 ただ生きるだけの精一杯の人たちである。
 他者から何を言われようとも、どう思われようとも、それは非ではない。

 自分は思った。
 間違えてはいけない。正しいことだけをしていれば、怒りをも認める姿勢など良くない。すでにその状態では、我を忘れる。自己の思い込みに呑み込まれている。回りが見えなくなっている。見えるものも見えなくなっている。愛が姿を隠す。

 苦汁を伝えるのではない。愛を伝えていく。それにはあるがままを受け容れていく勇気とそれを見守る柔軟であり、柔和な心が必要となる。

 「もういいよ。もう良いから。分かっているから。それじゃ、食べてね。また来週ね。」

 新しい風を入れ込むようにして、また彼らに声を掛けていった。新しい風を取り入れ、苦汁の思いを律していった。
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苦汁の思い。

2009-05-26 13:11:38 | Weblog
 列に並んだおじさんたちに明るく挨拶をした。
 「おはよう。今日は暑いね。今日も二回目のカレーはないよ。今日もたくさん来ているからね。走って二回目を貰おうとしないでね。ほんとうに足らないくらいだから。一番最後に今日は自分がいるからね。二回目はないよ。」

 一番最初の方に並ぶ30人ぐらいのおじさんたちは、それを聞いて笑っていた。自分がいては貰えないと思ったのだろう。ここ最近カレーに並ぶ人が多くなってきていることは誰もが分かっていることであった。だが、にもかかわらず、自分が列の最後まで挨拶をして、そのままそこにいると何人かのおじさんたちは二回目のカレーの列を作り始めた。

 二回目の列は一列に並んでもらい、一回目の列とは少し離れて並んでもらうにしている。そうしないと列の微妙な長さや配る早さなど、右の列と左の列とでは違いが出来てしまい、何度かどちらかの列の方が足らなくなってしまい、そのなかに二個もらっている人と何ももらえない人が出来てしまったこともあった。

 一番最後にはいつもスペイン人のシスターがいてくれる。いつもそこに一緒にいるボランティアの男性が休みだったので、シスターからは、最後にいて欲しいと頼まれていた。

 ここには他に山日労の人たちが二三人に来てカレーに並ぶおじさんたちにいつもビラを配っている。そして、彼らも二回目のカレーに並ぶ人を整備してくれたりしている。

 「おはようございます。今日は何人ぐらい来ていますかね?」

 「おはようございます。いや、今日は数えていないですよ。」彼らのなかの一人がビラを一枚に自分に手渡しながら答えてくれた。

 「たぶん、650くらいは来ていると思うから、カレーはぎりぎりだと思うんですよ。今日は670ぐらい作ってきていますから。だから、列の最初では二回目には並ばないようにお願いしてきました。」

 「そうですか。ないって言っても並ぶもんな。ほんとにさ。」

 「それくらいお腹が空いているということですよ。それだけ必要なんでしょう。」

 「そうなんだよ。ほんとうにお腹空いているんだもんね。」

 山日労の人たちも、もちろん、山谷で生活している人たちがどんな生活をしていうるかをよく知っている。それゆえに同じように自分たちは胸を痛める。

 行いはそれぞれ違うが、おじさんたちのために彼らも身体を動かしている。

 足らないことを何度も丁寧に伝えたが、七人のおじさんが二回目の列に並んだ。

 その光景、彼ら一人ひとりが物語るものは深く重い。命を繋ぐため、生き抜くために食べることが必死であり、その可能性がゼロでも、そのゼロを知るまでゼロであることが分からないと言うことへ形振り構っていられない彼らの現実を浮き彫りにしていた。

 {つづく}
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濁音の声。

2009-05-24 17:44:51 | Weblog
 三週間ぶりにあの喋ることの出来ないおじさんに出会えた。

 先週、先々週と彼を探していた。

人はよく同じ場所に戻る。例えば、何回かある集まりですら、一番最初に座った場所に何気なしにその次も座り続けたりする。おじさんたちも、それと同じように同じ場所でカレーを食べることが多い。だから、最初に会った場所を見に行っていた。

 期待していた通り、彼は昨日、その場所でお弁当{カレーの他に数は少ないがのり弁も作っている}を食べていた。

 そっと優しく声を掛けた。下向きながら一所懸命に食べていた顔をあげ、彼は笑みを浮かべた。体調のことや手話は出来ることなどは聞いた。他にもいろいろ聞きたいことはあったが、それをすべて諦め、ただ隣にそっと座った。聞くことが良いように思えなかった。誰しもあまり知らない人にいろいろと聞かれることは好まない、ましてや、話すことの出来ない彼にとってはなおさらであろう。ただ暫くそっと一緒に心地良い風を浴びていた。

 服はそのままだった。確実に三週間分の汚れが染み付いていた。

 どんな汚れ方をしてきたのだろうか。その服は。その時は彼はどうあったのだろうか。自分のうちには、当たり外れ構わず、何通りの脚本が生み出されていった。

 彼は汚いビニール袋を持っていた。そのなかにアルミを集め、その収入でどうにか食いつなぎ、命を保って来ている。アルミは今キロ50円くらいだろう。見た目に一キロも入っていない汚れたビニール袋が彼の忍耐強さを物語る。

 これでどうやって命を保って来れたのか。一日に一食か二食で日々を過ごしているのだろう。それに覆いかぶさる孤独をどうやって耐えてきたのだろうか。

 自分には到底想像し切れない。その彼は穏やかに微笑んでいる。

 「そこには何があるの?」
 「どうして微笑むことが出来るの?」いつも思う。そのなかで胸が奮える。

 彼はまだ山谷生活は長くはないだろう。左腕に立派な腕時計をしていることで想像が付く。それなのにこの生活に耐えられるのか。人間はそれほどに強いものなのか。

 自分には分からない。ただ胸が痛む。

 近くにいたおじさんが自分に話し掛けてきた。他の誰とも関わりを持ちたがらない彼はまた少し下を向き始めたので、自分は立ち上がり、そのおじさんと話しながら、その場を少しの間去った。

 またある程度食べ終わった容器を集めてから、彼の元に行き、ゆっくりと語りかけた。

 「また来週会いましょう。待っていますからね。身体にはくれぐれも気を付けて下さいね。」

 彼は濁音の声を出して、笑顔で手を上げ頷いてくれた。その声を聞かせてくれたと言うことは、少しは自分のことを安心できるものであると認めてくれた証しのように思えた。

 彼の傍に居たときに何度も思ったことがある。お金を少しあげようかどうか、何度も考えた。

 しかし、それは自分の共依存であり、その後のおじさんとの関係、他のおじさんたちへの自分の純粋性を失う危険を含んでいた。

 分かっている。ただ、分かっていても痛み悩む。そして、痛み悩みながらも、そこのなかでより良いものは何かということを限りなく求めていく。それは問われ続けていた。

 自分は出来ることは無に等しい。それでも、自分はそこにいる。

 ただそっと隣に座り、あなたのことを心配するものがこの世のなかにいるということを伝えた。

 彼はその愛らしい顔で微笑み、音のないありがとうを伝えてくれた。

 自分は言葉を使わず、音のない歓喜の喜びを伝え返した。生きていて欲しいと願う切なる祈りを込めて。

 
 
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二枚の葉っぱ。

2009-05-23 08:27:08 | Weblog

 コリアンダーの芽がたくさん出てきた。

 朝起きて一番最初にやることはコリアンダーに水をあげること。
 二枚の小さな葉っぱをもう広げている。

 仕事から帰ってきて一番最初にやることはコリアンダーに水をあげること。
 昨晩はその二枚の葉っぱを合わせるようにしていた。それは「もうお休みですよ。」とでも言っているようだった。光合成をしなくていい夜はちゃんと休んでいる彼らだった。

 朝も昼も夜も愛らしいその姿を見せてくれる。さぁ、これから陽射しを浴びてください。

 夜香木も翼を広げるようにその葉を広げ、いま、太陽を待っている。しっかりと根を張り、幹を太くさせようと生きている。その姿、美しい。

 さて、自分は山谷に行ってきます。
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渋谷アピア閉店。

2009-05-22 12:43:04 | Weblog

 六月で渋谷アピアが建物老朽化のため閉店になる。

 かと言って、アピアが無くなるということではなく、芸大前に移転し、七月初旬からオープンする。

 六月の十七日まですべてさよならイベントになる。

 アピアでは十五年くらいもう歌っている。まぁ、その間、うたがうまくなったかどうかは分からない、いや、うまくなったとは到底言えないが、何かは確かに変って行っている。

 うたに対して図々しくなったというか、落ち着いてきたというか、なんだろう。うまく言えないが、ただ自分らしく歌えて来ているように思う。

 下手でも下手なりに、他の誰でもない自分の歌い方で自分のうたを歌えるようになってきているのではないかと思う。
 
 アピアには、それはいろんな思い出がある。
 忘れられないのがアピアのママ。もう今年の二月で七回忌になった。通夜の夜は友川さんが酔っ払って、「ママはヤクザだー!」言い放っていた。ママはいつも会計のところで大きな帽子をかぶり座っていた。その姿がいつもヤクザっぽく見えたのだろう。なぜか分かるような気がした。

 ミチロウさんもいた。アピアのママとの思い出など伺った。
 ママは以前、ミチロウさんにこう言った。
 「あなたが化粧しなくてどうなるの!」ママはミチロウさんに化粧をし続けることを言ったらしい。
 ママの前ではミチロウさんも子供のようだっただろう。ママはミチロウさんのことをそう思っていた。「ミチロウなんて、まだまだよ。」言っていたことを思い出す。

 ママとの思い出で、きっと一生忘れないことがある。
 それは自分のお客さんが少なく、うたも調子よく歌えずにアピアの外でかなりしょんぼりしながらガリガリ君を食べていたときに、ママがこう言ってくれた。
 「わたしはTetsuのうたが好きだよ。いいよ、Tetsuのうたは。」
 自分が自分のうたを嫌いになっているときに、ママのこの言葉が心に響いた。心に消えることのない淡い勇気の刺青が入ったような感覚をくれた。

 ママは何の気取りもなく、普段話すようにそう言ってくれた。「元気を出せ、もっとがんばれ。あれはいいけど、あれは良くない。」そんな言葉ではない。正直な言葉を使ってくれた。その正直な思いが優しく伝わってくる姿勢で話してくれた。

 ママは今でも自分を勇気付けてくれている。

 ママに「男は三十になったくらいにいい男になりたいと思っている。」と言ったことがある。
 ママはこう言った。
 「三十なんて、まだまだよ。Tetsu、男は四十になっていい男になるんだよ。」

 そろそろ、その歳も近くなってきた。ママの言うようないい男になれて来ているのか分からないが、確かに今の自分の方がいいように思う。

 もちろん、まだまだな自分ではある。重々承知している。だからこそ、今とこの先に期待している。

 六月は七日の日曜にライブをする。開場三時半、四時開演、八人のうたうたいが出る。
 自分はたぶん三番目五時くらいから歌い始めるだろう。

 ママに聞かせるように、お世話になり育ててもらったアピアに聞かせるように歌いたい。

 アピアに行くと、そこは自分の家のようにいつものんびりとして、リハのビールから始まり焼酎で酔いどれて帰ってくる。

 「Tetsuさん、大丈夫。ちゃんと帰ってね。ギターぶつけないようにね。」ゆきさん、まりえちゃん、レイくんからよく言われたりする。

 七日も早くから飲めると思う。

 どうぞ時間のある方は是非来てください。一緒に飲みましょう。
 
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畑。

2009-05-21 12:31:03 | Weblog

 家の隣に畑が出来た。

 実は家を建て替え、隣に住む予定だった兄夫婦が大宮の方に仕事が決まり、家を買ったので、その土地は畑になった。

 今朝もホームセンターに行き、牛ふん、鶏ふん、培養土などを買ってきた。ミニのトランクはそれくらいで一杯になってしまう。それでも、トコトコ走って買いに行ってくる。

 子供の頃から、おばぁーちゃんの手伝いで畑仕事を良くした。もちろん、お小遣いを貰っていた。石ころ拾ったり、草むしりをしたり、サツマイモのうねを作ったり、木を切ったり、いろいろとした。楽しい想い出がたくさんある。だから、緑に囲まれた畑のなかにいると、今でもとっても気持ちがいい。緑と土の香りが自分のなかで何かを再生させてくれているかのような感覚になる。

 うちの畑はまだ土があまり良くないから、この夏に期待はあまり出来ないが、それでも、メロン、トマト、スイカ、パプリカ、キュウリ、ナス、カボチャ、トウモロコシなど植わっている。日々、それらの成長を眺めるが楽しい。

 ベランダではコリアンダーの芽が出てきた。とっても可愛い。もう少し伸びたら間引いて畑にも植えてみようと思っている。これも楽しみである。

 部屋にある観葉植物もゆっくりと日々成長を見せてくれる。水のやりすぎに気を付けながら愛情込めて接している。

 彼らとの会話を楽しんでいる。一緒に生活している。

 この今は、太陽と心地良い風を喜び楽しんでいる。
 
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