カルカッタより愛を込めて・・・。

次のアピア40のライブは9月13日(金)です。また生配信があるので良かったら見てください。

私の祈り。その7。

2020-01-30 11:22:14 | Weblog

 「遠く離れていたって、会えなくたって、天国までだって、変わらない愛を送る、いつまでだって送り続ける。私のうちには刻まれたあなたへのありがとうがあるから」

 「人の孤独を教えてください、もっともっと感じさせてください。私が孤独を感じている時も、いかなる時も感じさせてください」

 「私は絶望を抱きしめる」

 「あなたがいつも小さな喜びを大きく出来るよう、他人の小さな痛みにもしっかり気付くよう、いつ何時もあなたがそうあるよう、輝いてあるよう、祈っている」

 「世の中の誰もが何らかしらの苦しみ痛みを持っているものです、あなただけでは決してありません」
 2003/03/14

 「あなたとわたしで愛をうたおう」
 2003/02/24

 「私は自身のうちに幸せを見るより、友のうちに幸せを見る方がこの上なく幸せです」
 2003/02/12

 「私は神の名をだして人を慰めたりしたくはありません。神の名をだした途端、すべては神に覆い被さり隠れてしまうようで・・・。それにほんとうに相手のことを思うのであれば、愛を持って、出来る限り、そこに行かなくては、動かなくてはならないと考えています。なぜなら、神は人のなかにあると思ってるからです。事実、今まで何度もそう感じてきました。神を信じる心は私と神との内緒であり、安易に口にして人を慰めたりしたくはないのです。この世の中には神や人すら信じられない、信じることが出来ない人達がいるのですから・・・」
 2003/1/31

 「いつも迷いのなかで正しいものを感じ学んできたんだ」

 「絶望しえなかったら、深い愛情、輝ける希望もうすっぺらいものになっていただろう」

 「誰もが紅葉を見て、枯れゆく姿を美しい思う、同じように老いゆく姿を慈しむ心を持てば、未来は誰にでも微笑むでしょう」
 2003/01/21
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私の祈り。その6。

2020-01-29 12:18:18 | Weblog
 今日は季節外れの暖かさにどうしても微笑んでしまう。

 この暖かさを惜しみなく味わうように、愛犬あんと三沢川に散歩に行った。

 その帰り、あんの友達の柴犬アリちゃんの家に寄って、少し遊んで来た。

 アリちゃんちには大きな庭があり、いつもアリちゃんのお母さんが「どうそ入ってください」と迎えてくれる。

 そこであんのリードを外してあげると、あんは飛び跳ねように走りまわり、アリちゃんの近くに行き、またすぐアリちゃんのお母さんの傍に行ったりして、楽しそうに遊ぶ、それを見ているのが私は嬉しい。

 あんが嬉しいとき、私も嬉しいのである。

 家に帰って着て、観葉植物たちに水をあげた。

 この暖かさに観葉植物たちも喜んで居るように見える。

 私のこころが喜んでいるように、きっと観葉植物たちも喜んでいるだろう。




 「私は強く心しなくてはならない、私が正しいことを言っている時も誰かを傷付けていることを知らなくてはいけない、感じなくてはいけない」
 2003/06/12

 「絶望するより希望することです、願いを込めた想像はあなた自身を救うことだろう。誰もあなたの心の中まで邪魔することはできないのだから」

 「楽しむこと、喜ぶこと、微笑むことをいかなるときも忘れてはいけない。例え、厳しい現実が目の前にあったとしても、それが永遠なるものではありえない。愛あるものだけが永遠なるものになりえるからだ」
 2003/05/26

 「私はわたしの精一杯を何度も通り越したいと願う。精一杯であるより、もっと精一杯でいたいと願う」
 2003/05/22

 「時に世の中はあなたを不安がらせることでしょう。だけど、あなたは負けてはいけない、惑わされてはいけない、あなたはいつでもかけがえのない人です。何もしていなくても、何も持っていなくてもいい、そうあるときも必要なのです。一年中咲く花など、誰も興味を持たないでしょう。あなたはあなたの時を持ち作ればいい。ゆっくりと自分の時間を作ればいい。何もなくても、あなたはあなたを持てばいい」
 2003/05/18

 「死を感じ受け入れながら、この体を動かす、一瞬の後悔もしないように…。同じ時は戻ってこないことも体に染み付くようにして知っている、永遠の別れを何度も繰り返してきたから…。それでも天国へ旅立った彼らは自分の心の中では永遠の別れではなく、永遠の存在になっているんだ」
 2003/05/01

 「正しいと言われた愛よりも、不器用な人からの不器用な愛ほど、私の心によく染みる」
 2003/04/12

 「私はとことん自分の無力さを知りたい、無力さを知るたび素直に感謝したい、そして、そこから始め、歩みを止めず、この体を動かして行きたい。そうすれば、私の夢はきっと輝きを増すことだろう」

 「暗闇の中だって目が慣れればきっと何かが見えるだろう」
 2003/03/26

 「呼吸するようあなたに愛を送れたなら・・・」
 2003/03/16
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相手の症状。

2020-01-28 11:52:15 | Weblog

 河合隼雄氏は茂木健一郎氏の対談「こころと脳の対話」のなかでこう語っている。

 「誰かと話していて、聞いているこっちが辛くなるときは、相手の症状が重い」と。

 それは「死んでやる、殺してやると言う話しを聞くのは辛くなるのはもちろんだけど、話しの内容に関係なく、こっちの苦しみのほうが多くなる」と言う。

 私はこの箇所に大いに納得がいった。

 私は山谷に行くと、いつも何故か分からないがかなり疲れて帰って来ることが多かった。

 山谷にいる時間は普段の仕事よりも短い、にも関わらず、普段の仕事よりもかなり疲れた。

 それをいつも自分なり考えてはいた。

 例えば、いつもよりも一時間半ほど早く起き、電車に乗ることも身体は疲れるだろう。

 それと山谷の雰囲気である、南千住の駅の近くには江戸時代に死刑場があったことも、その死刑場に行く人たちを涙を流しながら見送った泪橋を通ることも何か重い気を感じることがしばしばあった。

 私が山谷に行き始めた頃に駅の階段の下に白のチョークで人の寝ている姿が書いてあったり、人が白い布で巻かれて運ばれるのを見たり、それからも、ここで人が首をつり、ここで人が殺され、ここで人が行き倒れた場所も行く度に目にして来た。

 そうしたことが私の心身を疲れさすのだと考えていた。

 私の他にもやはり山谷に来ると疲れると言う人たちもいた。

 やはり重い何かを感じるのだろうと思う。

 私は山谷でよく「死んでやる、殺してやる」と言う話しを聞くこともあった。

 そうしたことはやはり私を疲れさせたのだろう。

 それと普通の話しをした場合でも、河合氏の話しのように私を疲れさせたと言う実感があった。

 私自身の緊張もそこにはあったように思える。

 ただ私はそこから逃げることはしない、河合氏もそうであったように。

 その「しんどさ」を乗り越えて、意味を深めて行くことを望むのである。

 それゆえ、「しんどさ」を有り難く味わい、それを考えて行くことをしたい。

 この本のなかで河合氏が語った「相手の全体に、平等に注意力を向ける」と語ったフロイトの言葉を感じ考えながら。

 私自身のそれをも感じ考えながら。

 
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「中心をはずさずに」

2020-01-27 11:25:06 | Weblog

 今朝、目が覚めて、何の夢を見たかを覚えてなかった。

 きっと布団の暖かさから、なかなか離れられないうちに私は夢を忘れてしまったのか、どうかも分からない、そして、昨夜の夢は何を見たのかと想像したりした。

 こんなことを考えるのも、年末から河合隼雄氏の対談を読んでいたからに他ならない。

 耳鼻科の待ち時間に古本屋で買った河合氏の最後の対談、小川洋子氏の「生きるとは、自分の物語をつくること」、そして、次に柳田邦男氏との対談「心の深みへ{うつ社会}脱出のために」、昨日読み終えた茂木健一郎との対談「こころと脳の対話」である。

 私が河合氏の本をこの時期、この歳に手にすることは、誰が決めたのか。

 もちろん、私自身が本屋で手にしたのが始まりに違いはないが、それでも、「なぜ・いま」なんだろうか。

 棚に並べられた本たちのなかから声が聞こえた訳ではない、ただ「何か気になった」のである。

 それを大切にあたためて行きたいのである。

 答えのないそれを考えてみる。

 じっくりと焦らずに思いを巡らしてみる。

 遊び心と喜びをもって、それを私はこれから楽しもうとしている。

 一日二日のことではない、一年二年からも知れない、それ以上かも知れない、それを楽しむのである。

 安易に答えを出し、落ち着き払うことのないように。

 時に「しんどさ」も踏まえて、私は楽しもうとしている。

 私が河合氏を敬愛するのはマザーテレサと似たところがあるからだと意識している。

 無意識のところではまだまだ分からないが、と言うか、分かりきることなど有り得ないが、その意識しているところは、この二人とも他人を決してジャッジしないのである。

 私はここに大いに魅かれるのである。

 なぜならば、私が他人をジャッジしてしまう人間だからであろう。

 それゆえ、この私の意識の周りには私の知りえない無意識が漂っている、それをぼんやりと考えてみたい、これから河合氏の本からのギフトの一つである。

 それを茂木氏との対談のなかで「中心をはずさずに」と言うことが出て来た。

 それはクライアントとの中心をはずさずに話しを聞くと言うことである。

 この中心とは河合氏いわく「魂」のことである。

 私は訳の分からないこの「魂」にも魅かれるのである。

 そして私が誰かの話しを聞く場合、その人の中心をはずさずに話しを聞けるだろうか、もちろん、それは不可能に限りなく近いことではある、私の集中力はそこまで鍛錬されていない、だが、そのことを強く意識して話しを聞くようにしたいと、その一文を読んで思わずには居られなかった。

 私はこうした自分に対しての実験するのがやはり好きである。

 出来るのか、どうかは分からないが、やはりしていないことをすることによって、今まで知らなかった私自身にまた出会えるのである。

 そして、そこにはまた私の知り得ない無意識があることを考えることが出来る楽しみがある。

 それは豊かに人生を楽しむと言うことになり得るのだろう。

 昨日、河合氏の村上春樹氏、吉本ばななとの対談も注文した。
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私の祈り。その5。

2020-01-23 11:16:36 | Weblog

 「どんなに力強く生きる雑草ですら、水がなければ枯れてしまう。人間も愛がなければ、その心は死んでしまう。私達はお互い心に届くように愛を送り続けて行こう。しっかりと水をあげれば木々や花たちが喜びを現すように、人間の心もしっかりと愛を与えれば笑顔が咲く。愛が形として表れるように送り続けて行こう」
 2004/6/30

 「どんな時も自分のことだけで精一杯になってはいけない。簡単に他人を卑下してしまう。愛することから放れていってしまう」

 「どうすれば良いのか、分からないときはどうもしなくてもいい、その心を大切に受けとめていればいい。あなた自身の命を感じていれば良い」
 2003/10/16

 「大切なものをほんとうに大切に出来るように…」
 2003/08/22

 「迷い有る者は謙虚な心を用いて成長をする者である」

{心のホコリ}
 「ホコリを見たとき、自分の心にホコリはないか・・・?自問する。ある集まりでそんなを聞いた。
 例えばカーペットにホコリが落ちて行き、ゆっくりと徐々に汚れていく様は誰もあまり気付かない。あとになって気付いたときには凄く汚れていた。それに驚く。急に大きく汚れた時は誰もが気付く。
 でも、ほんの少しずつ、これくらいは大丈夫、まだ大丈夫としているうちに酷い汚れになってしまう。心もこれと同じと言うこと。心であれば病気になってしまうと言うこと。
 これはいろんなことに当てはまると私は思う。人の痛みを感じる時もそうである。このくらいの痛みは大丈夫、まだ、こんなものであれば大丈夫だと勝手に自分が思い決めていたら、その人がほんとうにもうダメな時になっても気付かないでいるかもしれない。
 私は他人の心のホコリに気付くことが出来るのか?愛する人達の心のホコリに気付くことが出来るのか?自身の心のホコリに気付くことが出来るのか?
 ホコリのようなほんの小さな痛みも気付くようにありたい。自分の感情、思い込みを捨てて…」
 2003/07/11
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私の祈り。その4。

2020-01-22 12:33:42 | Weblog


 「結局は無力だと絶望しても、私は愛することを辞めはしない」

 「誰もが無意識に消し去ってしまう自身の弱さを認める勇気を持って欲しい。自分自身を見つめ続けて欲しい。誰かがあなたを救うのではなく、あなたがあなた自身を救うことに気付いて欲しい」
 2004/08/06

 「私の心のなかには「人間は素晴らしい」と疑いなく自然に思う感動が常にある」

 「人に奉仕をすることはとても幸せなことである。しかし、奉仕する人こそ、驕り、過信に気を付けなければならない」

 「大きな成長を求めるのではなく、小さくとも長く続く成長を求めていくべきであろう。変わらないように日々が流れようとも気が付けば大きな成長に成り得るだろう。大切なことは思いを持続していくことでしょう」

 「私の心のうちには大丈夫だよと伝えたい思いがいつもある。どんなに辛くとも大丈夫だよと、どんなに悲しくても大丈夫だよと、泣いていても大丈夫だよと、失敗しても大丈夫だよと、孤独であっても大丈夫だよと、死が近くあろうとも大丈夫だよと、不器用でも、思いがうまく伝わらなくても、不自由な体になったとしても、愛されていないと思っていても、誰からも必要とされていないと思っても、もうダメだと思っていても、大丈夫だよ、そう、あなたは大丈夫だよと伝えたい。
 人間には生きる本能は必ず備わっているもの、人間には生きる価値のない人なんかいないこと、命は常にかけがえのないもの、元気がなければ、また元の気持ちになればいいこと、元の気持ちにきっとなれるということ、心の奥底、魂には生きたい生きると言う思いが必ずあること、だから、大丈夫だということをあなたにいつも伝えたい」
 2004/7/12
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背中で。

2020-01-21 11:46:13 | Weblog

 私たちは生きている限り、自分の意図とは関係なく、他人を傷付けてしまうことがあり、それに気付きもしないことも多いのではないだろうか。

 山谷の炊き出しにしている時、私は随分前から、自分の背中で誰かを傷付けてしまうことがあることを感じようとしていた。

 例えば、私が誰か一人に対して、いつも優しい態度をしている場合、必ずと言って良いほど、その近くにいる誰かも同じように他人からの優しい態度に飢えていることがあることを感じるからである。

 先週の土曜日、いつも手押し車に籠を載せ、そのなかに猫を連れて、炊き出しに来る男性は私にこう言っていた。

 「先生、オレさ、この前、今度、猫を連れて来たら殺すぞって言われたんだ。だから、ここ一ヶ月半ぐらい来なかったんだよ」

 「そうなの、そんなことがあったんだ」

 「うん、だから、今は自転車の後ろに籠を付けて、そこに猫を入れているんだ。これだと目立たないから」

 「そうなんだ、酷いことを言うおじさんがいるね」

 「うん、自分が来なくなったら、殺されたと思って」

 「大丈夫、ここで何かあったら、自分に話して、どうにかしても守るから」

 「ありがとう」

 彼がいつも猫を連れてくると、私を含め、何人かのボランティアがいつも猫の周りに集まっていた。

 それに焼きもちを焼いたおじさんがいたのか、ただ猫が嫌いで、そう彼に言ったのかは分からないが、いじめと言うものはどこにでもあってしまうものである。

 だが、私は悪人を探し出すために炊き出しに来ているのではない、誰かが悪人だと、私には決める資格などはないのである。

 猫と彼には罪はないが、殺すぞと言ったおじさんの心の痛みは誰が知ることが出来たのだろうか。
 
 私はそれにも胸を痛める。

 それゆえ、私は可能な限り、一人ひとりを大切にするように声を掛けて行くことを心掛けている。

 私の背中で誰かを傷付けていないかを感じながら。

 にもかかわらず、私はこうも思っている、無理かもしれない、あり得ないかも知れない、だが、いつか、私の背中でも、私の存在で、誰かを癒せるようになれればと。

 しかし、その時、私はいない、いるのはあの方だけになるだろう。

 
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ミゾレ降る山谷。

2020-01-20 11:35:44 | Weblog

 先週の土曜日、山谷のMCブラザー{マザーテレサの修道会のブラザー}の施設から自転車に乗り、右手でビニール傘を差しながら、カレーの炊き出しが配られる白髭橋まで向かっていると、手袋をしていない私の両手は真っ赤になっていった。

 雨は所々、その姿を白色に変えて、宙を舞っていた。

 私の指は寒さでしびれて来た。

 こうした寒い日は誰もが家でゆっくりとしていたいと思うのは当たり前のことであるが、そう思っていても出来ない人たちが炊き出しに来るのである、こうした日こそ、休んではならないと、私はずっと思っている。

 炊き出しに来た人たちはいつもより少なかった。

 それでも150人以上は居ただろう、みな防寒の格好で寒さを紛らわすために身体を揺らしている人が多かった。

 暑い夏には「暑いね」が挨拶となり、寒い冬には「寒いね」が挨拶となる、私は「おはよう」と「寒いね」を交互に口に出しながら、炊き出しに並ぶおじさんたちに一人ひとりに挨拶をしていった。

 以前も書いたことがある、片足の不自由なおじさんがいた。

 彼は余ったカレーを配る二度目の列に並ぶために、片足を引きずりながら急いで向かうのだが、やはりいつも何んかのおじさんたちに抜かれてしまう。

 ほんとうは歩くのも辛いであろう、彼は二度目のカレーがもらえるかどうか分からない時は無理して歩かないようにしていた、そのことを私は知っていた。

 私はこの日、ふと彼のために二度目のカレーの列に並ぶことにした。

 私が彼のために必要以上のことをして彼に迷惑が掛かるかも知れないとか、誰かがやきもちを焼くかもしれないとか、誰かが私にもそうしたことをしてほしいと私の背中を見て傷付きはしないかとか、そうしたことは一切捨てて、私は二度目のカレーの列に並んだ。

 並ぶ前に私は少し大きな声で「オレも二度目のカレーに並ぼう」と言うと、カレーをもらって帰るおじさんが「ダメー」と笑いながら言って去っていった。

 私はほんの数秒、カレーの列に並んだ。

 そして、片足の不自由なおじさんが足を引きずりながら来た。

 「お父さん、オレがお父さんの分、並んでいたよ」

 それから私の後ろにいたおじさんたちに「オレが代わりに並んでいたから良いでしょ?」と言うと、みな微笑みで了解してくれた。

 彼は私に「ありがとう」と照れながら言って、私と場所を交換した。

 こんなことをしたのは私は初めてだった、25年以上、来ているが初めてだった。

 いつも勇気もなく、愛もない、私であることを私は知っている。

 しかし、かじかんだ両手が真っ赤になり、しびれていくことにより、私のなかにほんの少しの勇気と愛が生まれていた。

 

 
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私の祈り。3。

2020-01-15 12:29:42 | Weblog

 もう立派なおじさんになったが、何が立派かと言えば、何も立派ではなく、ただ外見が衰え、歳を重ねて来ただけで、何が変わって来たのだろうか。

 私は私に問う「お前はそれで良いのか?」と。

 私は私に言う「まだまだだ」と。

 私には学びたいことがある。

 それは一つに確定出来るものではない、ただ昨日より今日をと何かを学びたいと思っている。

 「分かっている。そう思っても何度も同じ失敗を繰り返す、お前がいるだろう」と誰かが言う。

 私は答える「はい。だから、私には祈りが必要です。祈らずにはいられません」と。

 私は今日も私に人生に何かを答えていきたい、感謝のうちに喜びを持ち合わせて。



 「思い込みこそ要らぬものだ。思い込む心を捨て去らなくては、すべてをありのままに観ることが出来ない。先入観ほどつまらないものも無ければ、歳をとるほど人が多く持つようになるものもない」
2005/03/20

 「正しい行いすることは、自身のなかの悪い考えや行動を観付け正すことより、比べられようがないほど簡単である。感謝されることに酔っていけない」
2005/03/11

 「無理はしてはいけない。なぜなら、知らず知らずのうちに自分のすべてに無理をしてしまう恐れがある。愛することにすら無理をしてしまう。無理をして人を愛することが出来るだろうか?それは愛と呼べるものなのだろうか?」
2005/03/01

 「自己に矛盾があるのならば、矛盾としてそのままにして置いてはいけない。矛盾である事柄をしっかりと認識し良く考え理解していかなくてならない」
2004/11/19

 「どうか、心を閉ざさないでいて欲しい。あなたを救う人の愛まで受け入れられなくなってしまいます。怒り嫉妬心だけは心を閉ざしていても容易に入ってきてしまいます。どうか、心を開いてください」
2004/10/05

 「どうか、醜く汚れた自身と会わせてください。気付かせてください。そして、偽りなく反省させてください。どうか、勇気を私に…」
2004/10/02
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私の祈り。その2。

2020-01-14 11:51:32 | Weblog

 随分前に書いたものを読み返すと、そこには現在、私が感じることのない思いが漂っている。

 私の若気の至ならさや幼さに照れてしまう。

 だけど、じっと、その思いに留まっていると、私のなかで一本の線が繋がっていくのを感じる。

 私が私になるまでの一本の線を。


 「神よ、変えられないものを受け入れる心の静けさと変えられるものを変える勇気とその両者を見分ける英知を私にお与えください」 
 {ラインホルト・ニーバー}
 「カルカッタでは毎日、不条理に死に行く人達を見ない日はなかった。この祈りを何度も祈りながら、どうにか、その勇気をと願いながら身体を動かすことが出来た。今はこの祈りを自分の内側にあてて祈る。そこには変えられないものを必死に自己のために変えようとし、自分を苦しめている哀れな姿があり、心の静けさは到底見付からない。しかし、この告白を言葉に表すことが出来たその瞬間から、一つの英知がこのうちに根付くように、この祈りをまた祈り続ける」
2005/10/05


 「この世の中で誰が完璧な人間であろうか…?
誰でも判っている真実だが、人は他人から注意、否定、愚痴を言われると、それを受け容れることが出来ない人が多い。それはなぜだろう…?そう考える人も少ない。それよりも反射的に怒りを生んでしまう人が多いだろう。しかし、怒りから何も善いことは生まれない。
 どんな人からでも、注意、否定、愚痴を言われた場合には、そう観られたことに何らかしら理由があるのだ。そう言ってくれた人には自分を正してくれると感謝すらして良いはずではないか…?相手を愛し思いやる心があれば、感謝することも出来るのでないか…?生きていく上で答えは一つだけではない。もちろん、簡単なことではない。しかし、本来、簡単なものを複雑にしているのは他人ではなく、自分自身ではないだろうか…?」
2005/03/21
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