カルカッタより愛を込めて・・・。

次のアピア40のライブは6月でしたがお休みします。

今日はライブです。

2016-09-30 10:13:26 | Weblog

 今日は学芸大学にあるアピア40で歌いますので、良かったら来てください。

 共演者もとても素敵です。

 時間に余裕があれば、ライブが終ったら、そのままアピアで一緒に飲みましょう。
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ドイツ人の彼女。その3。

2016-09-29 11:58:32 | Weblog

 マザーのパネルは集合場所であったロビーの掲示物が貼ってあった壁を白の布で覆い、その上に飾ることになっていた。

 ボランティアはたくさんいたので、最初はあたふたしていたがシスターの指示のもと、どうにかマザーのパネルは納まり良く飾ることが出来た。

 そこに初めて会うシスターがいた。

 一見インド人みたいにも見えたが流暢な日本語を話していたので、やはり日本人だと思っていた。

 一段落して、私はそのシスターと少し会話をすると、彼女は「私はあなたと会ったことがある」と言い出した。

 「えっ、そうですか、いつですか?」

 「一緒にマザーハウスでチャイを飲みましたよ」

 「えっ、名前は何て言います?」

 「日本の名前ですか?・・・・ヨウコです。あなたにはドイツ人の彼女がいたでしょ?」

 それを聞いた周りのボランティアは笑った。

 彼女も笑っていた。

 私は一同に笑われ、私はこんなところで言わなくても良いのに、それもみんなに聞こえるように、それにマザーのサリーを着ているシスターにそんなことを言われるなんて、と照れに照れた。

 彼女が言ったドイツ人の女性とはベリーナなことで、それは1998年1月ぐらいのことであろう、実際は私の彼女ではなかったが、彼女のように見えたのだろう、私がステーションのボランティアを始めたばかりのことであった。

 シスターの日本名は珍しい苗字だったので、記憶の奥底から軽く浮かび上がってきた。

 「このサリーを着ていると分からなかった」と言うと、また彼女は笑っていた。

 それから、私はマザーハウスで洗礼を受けたことなど、いろいろと話した。

 彼女は「随分と時間が掛かりましたね」と言ったが「おめでとうございます」とも言ってくれた。

 共通の知人の話しにもなり、私はシスターに「神の声を聞きました?」と聞くと、「いえ、そう言うものではなく、私は最初MCに入ろうとは思っていませんでした」と穏やかに答えた。

 そのことはまたいつか書こうと思う。

 このマザーの列聖を祝う日、一番最後までいた。

 100人ぐらいはいただろう、ボランティアも10人くらいだった。

 私たちはシスターやブラザーたちが車に乗るまで見送った。

 そのシスターは別れ際に微笑みを浮かべ、友達に言うように、こう言った。

 「またね」

 「うん、またね」またいつか逢えるだろうと思った。

 
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ドイツ人の彼女。その2。

2016-09-27 12:00:10 | Weblog

 小雨降るカテドラルには集合時間の三十分前、十時半に着いた。

 さて、どこかで本でも読んで時間を潰そうかと持ったが、硝子越しの部屋のなかでは、すでにブラザーやシスターたちはミーティングをしていた。

 彼らに少し頭を下げ、挨拶すると、何だかホッとした思いと喜びを身にまとった。

 集合場所に行くと、普段私が通っている調布教会の人たちにも会った。

 マザーのことを慕い、手伝いに来てくれたんだと思うと嬉しかった。

 多くの信者がいる調布教会では私はなかなか知り合いもまだ少ないので、同じ教会の人と話す機会が持てて、これもまた嬉しかった。

 そして続々と知り合いのボランティアたちが集まって来ると、一人ひとりと握手をして「おめでとうございます」と微笑みのうちに言い続けた。

 するとマザーの列聖を喜ぶ、その一人ひとりの比類ない喜びが何層にもなって厚みを増し、感謝と喜びが私の全身を微かな緊張とともに満たしていくようだった。

 読書する時間などはなった、時間はあっという前に流れ、11時になり、ボランティア全体のミーティングが始まった。

 MCやドン・ボスコ、サン・パウロとボランティアの団体はわかれ、それぞれの責任者のもと、仕事がわけられた。

 私を含め、背の高いMCのボランティアはマザーのパネルの展示を行うことになった。

 {つづく}

 
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もう一人の私。

2016-09-26 13:10:42 | Weblog

 マザー・テレサの修道会には共労者会という団体がある。

 あまり知られていないだろうが、そのなかには活動と病苦を捧げる会の二つがある。

 この病苦を捧げる共労者会はマザーの数あるアイデアのなかでも素晴らしいものの一つであると私は思う。

 この会の発端はマザーの最初の協力者であるベルギー人のジャクリーヌの存在から生まれた。

 彼女はまだマザーがパトナでナーシングを学んでいる時に会っている。

 ジャクリーヌはマザーとともにカルカッタで貧しい人のなかのもっとも貧しいひとたちのために働きたいと思っていたが、病気のために活動が出来なくなり、ベルギーに帰った。

 そのジャクリーヌを励ますために、マザーは神さまのために病苦を捧げるもう一人の私の存在、その人から祈りが必要であると伝えたことにより、この共労者会は始まった。

 私はその存在は知っていたが、年に二回MCシスターやブラザーたちはそのもう一人の私に手紙を書くことになっているぐらいしか知らず、いったいどう言ったものなのかは知らなかった。

 だが、よく考えれば、それはとてもプライベートな関係であり、霊的な関係であるがゆえ、他人がどうのこうの言うものではない。

 しかし、先週の土曜、ふとしたことからブラザーバルナバスとこのもう一人の私の存在の話になった。

 最終誓願のあとにもう一人の私を長上から紹介され、それ以来、相手が亡くなるまで、手紙のやり取りと祈りの霊的な関係は続く、いや、これは亡くなった後も続くだろう、兄弟のようなものだからである。

 バルナバスにも今イギリスにもう一人の私がいるようである。

 バルナバスが言っていたが、この前のマザーの列聖を祝うミサには、なんとブラザートーマスのもう一人の私が車椅子に乗ってミサに出席していたそうだ。

 トーマスのもう一人の私は日本人であった。

 この話しを聞いた途端、なぜかとても嬉しくなった。

 病人が何も出来ないのではない、病人であるがゆえに神さまのために美しいことが出来るのである。

 
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ドイツ人の彼女。

2016-09-22 13:11:22 | Weblog

 マザー・テレサの列聖の祝うミサの準備のためにボランティアが集まる時間は11時だった。

 私は目覚めた時からそわそわしながらも絶対に遅れないようにと思いながらも、ゆっくりとコーヒーを飲み、朝食を取る時間を作った。

 前日から決めていた乗る電車の一本前に乗れた、これでは少し早く着いてしまうと思いながらも手さげ袋のなかにあるトルストイの「人はなんで生きるか」を開いた。

 この本を読むのは二度目、そして読んでいたところは三番目の民話「愛あるところに神あり」だった。

 マザーのためのミサに向かうにはちょうど良い読書だと思った。

 「じゃ、人間は、なんのために生きればいいんですかね?」とマルツィンは聞いた。

 すると、老人は言った。

 「神さまのためにさ、マルツィン。おまえに命を下されたのは神さまじゃから、神さまのために生きなければならんのさ。神さまのために生きるようになりさえすれば、何も悲しむことなんかなくなって、どんなことでも、なんでもなく思えるようになるものじゃ」

 こんなところを読みながら、私はマザーを思った。

 彼女はその生涯を神さまのために生きた、そして神さまのために美しいことを行おうとし続けた、その意味と喜びの福音を伝えようとし続けた。

 {つづく}
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マザーテレサの列聖を祝うミサ。

2016-09-20 12:20:11 | Weblog

 昨日のマザーテレサの列聖を祝うミサはどうにか無事に終わった。

 司祭は30人以上は居たであろう、1560人のマザーを愛する人たちが雨降るなか集まった。

 ブラザーやシスターたちとその準備も楽しんだ。

 マザーの深い愛に満たされた清々しいミサだった。

 このことはまたゆっくりと書きたいと思っている。
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ドイツからの写真。

2016-09-15 12:58:40 | Weblog

 ドイツに住んでいる友達のタンからマザーの列聖式で出会った共有の友達の写真を送ってくれた。

 タンの旦那は私の親友グレッグである。

 彼らには三人子供がいる。

 その子供たちの大きくなった写真もあった。

 タンの送ってくれた写真の一つにはスペイン人キャロリーナとラウラが写っていた。

 その二人が私にこの写真を送ってほしい、特別な愛も一緒に、と言っていたとあった。

 久しく彼女たちとは連絡取っていない、自分たちで送れば良いのにとも思ったが、私のことを思い出していてくれたことがやはり嬉しい、彼女たちと一緒に働いたのはもう15年前のこと。

 写真のなかには日本人で初めてのMCファーザーになった高塚くんとブラザージェフの写真もあった。

 私が喜ぶだろうと思ってくれたタンとグレッグの優しさがマザーの列聖を祝う喜びと混ぜ合わさって、そこには溢れていた。

 95年からの友人イタリア人のアンジェロ、ベトナム系フレンチのトゥアンもいた。

 アイリッシュのマーティンもどこかの修道会のブラザーになったのだろう、黒の長服を着て写っていた。

 みんなそれぞれ歳を重ねた味わい深い笑みを浮かべ、マザーの列聖を喜んでいた。

 私はその写真たちに胸を熱くさせ、じんとして何度も眺め、話し掛けていた。

 何よりも「ありがとう、マザー」と言った。
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ブラザーセバスチャンの話し。その2。

2016-09-13 11:45:05 | Weblog

 背の低い小さいセバスチャンは聖書に出て来るイエスの衣に触れる長血の女性のようにマザーの棺に触れていたようだった。

 それを私が言うとみんなは笑った。

 マザーの棺を担ぐ役目は最初六人選ばれたそうだ、その一人がセバスチャンだった。

 しかし実際にマザーの棺を運ぶ段階になると、誰もその役目をしたいと思ったのだろう、近くにいた人たちは集まり、マザーの棺の周りには倍の数の人数が集まっていた。

 でも、イエスの衣にそっとしか触れることが出来なかった長血の女性の思いをしっかりとイエスは分かり、また癒したように、マザーも同じようにセバスチャンを思っただろうと思い、セバスチャンに言った。

 「良かったね。ほんとうに良かったね。その時、そこにいれて」

 セバスチャンは嬉しそうに笑い、その数日前のことを話してくれた。

 マザーの最期の誕生日は亡くなる十日前ほどだった。

 その日セバスチャンたち最終誓願者十九名はタングラ{シャンティ・ダンの敷地のなかにあるブラザーの施設、タングラは施設の名前ではなく、土地の名前であるが、ブラザーたちはその施設をタングラと呼ぶ・最終誓願の準備する場所}からマザーハウスにマザーの誕生日を祝いに向かった。

 マザーは車椅子に乗ったまま、彼らに会い、こう話した。

 マザーが一番と言っていいほど、たくさんの人に話し続けた五本の指の祈りであった。

 セバスチャンはまず右手で左手の小指を折り、「You」と言い、次に薬指を折り、「did」と言い、次に中指を折り、「it」と言い、人差し指を折り、「to」と言い、親指を折って「me」と言った。

 だけど、これは指の折り方が違った。

 マザーはいつも親指から降り、「You did it to me」と言っていたので、「それは違うよ、親指からだよ」と言うと、セバスチャンは笑っていた。

 それから右手の五本指の祈りを思い出そうと必死になっていた。

 右手の五本指の祈りはこうである「I will, I want, with God's blessing, be, holy」

 すぐに五本指の祈りが思い出せなくても、セバスチャンはマザーの愛する息子であることに違いないと思えるのは私だけでないだろう。

 セバスチャンは幼子のように純朴であり、貧しい人たちを愛する人であり、ユーモアがあり、笑顔を絶やさない男である。

 しかしセバスチャンもその日がマザーと会う最後になるとは考えもしなかっただろう。

 マザーはその後ダイアナの死についてコメントをした日が公的会見の最後だった。

 そして9月5日マザーの心臓は動くことを止めた。

 それから19年後今年9月5日最初のカルカッタの聖テレサの祝日を迎えた。


 
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ブラザーセバスチャンの話し。

2016-09-12 12:58:31 | Weblog

 土曜日、山谷のMCで食事を終え、食事の片付けや掃除をした後のロザリオの祈りにはあまり人が居なかった。

 祈りを終え、二階のキッチンでお茶をしたが、そこにボランティアは私とミチムコさん、ハンさんだけで、ブラザーはノアスとトーマス、セバスチャンがいた。

 そこでミチムコさんがずっとスマホで何かを探していた。

 と言うのは、セバスチャンが19年前マザーの棺をマザーハウスから運び出したと言うことだったので、その映像をスマホで探していたのだった。

 YouTubeには19年前のマザーが亡くなった当時の映像がほんとうにいろんな映像があった。

 そんな映像を一つずつチェックしながら、セバスチャンは当時の様子をいろいろと話してくれた。

 それはとても興味深いものであった。

 そしてとうとうセバスチャンの映像が見つかった。

 いまはぽっこりとお腹が出ているが、その当時はまだ痩せていて小さいセバスチャンがマザーの棺を担ぐと言うような感じではなく、手をあてるようにしていた映像があった。

 {つづく}
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決めました。

2016-09-09 12:19:58 | Weblog

 やはりベンガル語の読み書きが出来るように頑張ってみます。

 とても重たい腰でしたが、ようやくあげる決心をしました。

 何のために、それをするのか、という問いが、私に力を与えてくれています。
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