カルカッタより愛を込めて・・・。

次のアピア40のライブは9月13日(金)です。また生配信があるので良かったら見てください。

ディスペンサリーのチャイ。

2014-04-30 12:29:55 | Weblog

 外は雨が強く降ってきた。

 私はその雨を見ているが、心で見ていたのはシアルダーのディスペンサリーだった。

 ふと思い出せば、思わず微笑んでしまうディスペンサリーでのこと、それは駅を回り終えてからの休憩時間のことである。

 マーシーのルパが作ってくれたチャイを私たちが飲むだが、ある日、私はポットに入っていたチャイをカップに移し飲んでから、少し鼻から息をフンっと出し、彼女にこう言った。

 「ルパ!このチャイは甘くない!」

 「えぇー、ブラザー{私のこと}。甘くない・・・」

 「はぁ、甘くないし、しょうがも入っていない!」

 私は冗談っぽく偉そうに言った。

 そんなことを言い出すボランティアはまずいない、いないのでルパは一瞬驚く、その驚く表情がとても面白くて、私はそんなことを言い出した。

 チャイに文句をつけるのは今回が初めてではない、前回もルパにはチャイにはしょうがを入れるようにと言ったことがあった。

 もちろん、彼女もそれを覚えていただろう、だが、ベンガル語で話しているので他のボランティアは唖然としている。

 私はそれも楽しんでいて、そして、ルパも何か楽しんでいた。

 私と彼女との間には本音を言えると言うか、長い間の信頼信用があり、それはやはり家族のような間柄だからこそ言い合えることであった。

 他にも私がディスペンサリーに行き、チャイが用意されていないと、ルパは「ブラザー!あと五分でチャイは出来るから」と言って忙しくし始める。

 私はしばらく待ってから、「もう五分はとっくに経っている」とか言って、自らチャイの鍋をかきまぜはじめる。

 「あぁ~ブラザー、私がやるから、待っててください」と大声を出したものだった。

 そんなルパとのやり取りを思い出す度、微笑みが私にやってくる。

 カルカッタとは似ても似つかぬ雨模様を眺めながら、あのディスペンサリーを思う。

 その思いは静かに深く祈りに変わっていく。
 

 
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咲かないの。

2014-04-29 12:59:03 | Weblog

 今年で10歳になった家のシークヮサーなのだが、どうも今年も花を咲かなそうである。

 毎日相手が恥ずかしくなるくらい眺めているのであるがいっこうに花芽らしくものを見せない。

 もうミカンやレモンはつぼみを持ち始め、近くに寄れば淡い香りを漂わしているのに、さて、シークヮサーはいったいどうしたことであろうか、もう花を咲かして良い年頃になのに。

 私は今年こそはと、どんなに思いでこの春を待っていたことか。

 花が咲けば、いつも飲んでいる芋焼酎も泡盛に変えて、とりあえず祝福の宴をあげると言うのに。

 いろいろと調べてみると、神奈川では五月の終わり頃に開花したとの記事もあったが、これからつぼみを持つのだろうか。

 私をあと二三週間期待させるだけ期待させて、またしょんぼりさせるだけなのか。

 しっかりと根を張ってからは肥料を与えてはいけないともあるが、竹炭ぐらいしかあげていない、しかし、この竹炭を喜ぶと思ったからこそ与えたのである。

 しかし、それがいけなかったのだろうか。

 もう何かしたくても何もしない落ち着きを持ち、ただ優しく見守るようにする。

 ただ10歳、それはシークヮサーが花を咲かせても良い年頃なのである、しかし、我が家のは別物なのか。

 もう背丈は二メートル以上になり、幹も太く、とても立派であるが、それでもまだまだと言うのか。

 木々に話しかけると良いと言うことは知っている、もちろん、毎日ように、いや、実は毎日ではないがちゃんと忘れる前に声掛けもしている、「咲いてくれ!咲いてくれ!」と。

 もしかして、家のシークヮサーはひねくれ者なのではないのだろうか、それならば、「もう咲かなくて良い!もう咲かなくて良い!」と言い続ければ良いのだろうか。

 いやはや、ここは腹を据えて、来年も再来年でも待とうと言う焦りない欲のない心で接するしかないと言う答えがそっとやってくる、ただいつも大切にしていると言うことに違いはないと言う思いだけをそのままにして。

 そんな気持ちに落ち着いた私のところにジャスミンから、すうっと優しく甘い香りが届いた。
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God Fatherとして。その3。

2014-04-28 13:01:49 | Weblog

 この夜の「ベナレスからの手紙」は愛するものから離れることを前提として書いたマザーの寂しさをも、私に感じさせた。

 それは間違えなく、私がここを離れなくてならないそれを重ねて読み通したことに寄るものと言うことに他ならなかった。

 そして、当時この手紙にシスターたちがマザーが居なくなった後のことと、彼女との別れを自ら考えずにはいられなくなった戸惑いを覚えてたことを初めて今回知ったことにより、その思いも私の中に滲んだ。

 だがしかし、やはりマザーの本心はイエスの愛を伝える福音を強く残したい、この修道会を守り抜きたいと言う溢れる愛だけと言うことに尽きることをマザーの死後年月が過ぎても誰もがマザーをなおさらに愛し続け生きてきたことの中からもしっかりとマザーの真理を読み取れたようにも思えた。

 マザーはただひたすらにイエスの愛に私たちを導こうとしていることが深く私の内に満ち溢れた。

 私は感謝の内にひさすらそれを内省し、最後のアドレーションもいつもと変わることなく終わっていった。

 私の身体は感謝の思いに熱くなっていたが深く落ち着いた気持ちでもあった。

 床に額をつけるほど深く「I Thirst」とあるイエスに礼をし、腰をあげた。

 チャペルを出るとシスターマーガレットがちょこちょこと私のところに来て、「Tetsu、ちょっと待ってて。明日の朝は会えないでしょ。シスターメルシーマリアから渡すものがあるから待ってて」とそう言ってメルシーマリアを探しに行った。

 いつも謙虚で一生懸命、そして、優しく純粋であるマーガレットはとても愛らしい、彼女の後ろ姿を眺めながら、「ありがとうございます」と呟いた。

 しばらくしてシスターメルシーマリアが大きめの封筒を持って現れた。

 マザーの写真やメダイなどを入れた厚い封筒には「Tetsu」と書いてあり、その中から微笑むマザーが表紙の小さな本を取り出し、それはマザーのためのNovenaの本であった。

 彼女はその祈り方を丁寧に教えてくれた。

 そして、今回の私の滞在のこと、洗礼のことやオリエンテーションを手伝ってくれたことなど感謝の思いを伝えてくれた。

 私は最後のアドレーションで「ベナレスからの手紙」を読んだことを伝え、少し寂しかったと言うと、彼女も胸で受け止めるように深くゆっくりと頷いてくれた。

 もう何度も何度も彼女からありがとうと言われたが、にもかかわらず、彼女は最後までありがとうと言い続けてくれた。

 私の方こそである、ありがとう以上のありがとうを伝えたくてしょうがなかった。

 もうすでに誰もボランティアなどいなくなった時間であった、彼女はそれほどこの私に時間を割いてくれた。

 あまりにも喜びに満たされていた、それはどう考えてもマザーが導いてくれたイエスの愛としか考えられない状態であった。

 マザーハウスの門を出ると、ジムとグレッグが待っていてくれた。

 サダルまで戻る道を三人で歩いたその時にジムは言った。

 「いつもTetsuの横にいようとしていた」とだけ。

 それで私は十二分にGod Fatherとしての彼の愛が分かったのである。

 私は満面の笑みで答えた。

 「生涯ジムは私のGod Fatherだよ、ありがとう!」
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God Fatherとして。その2。

2014-04-25 13:05:26 | Weblog
 
 外から絶え間なく聞こえてくる騒音があったにも関わらず、その時、祈りへ向かう私の心は平穏と感謝の思いに包まれ、心臓は静かなリズムを刻んでいた。

 吐く息、吸う空気のゆっくりとした繰り返しのうちに私のすべては内的沈黙のうちに祈る体勢を整えていた。

 このマザーハウスのチャペルは完璧なほどの神秘に包まれている祈る箱であり、心の深いところまでのすべてを祈りに集中させる。

 ロザリオを手にし、膝立ちしてから、今日はサイレントであることを知った。

 最後のアドレーション、声を出してロザリオの祈りを祈りたかった気持ちもあったが、これもまた違った祝福の在り方だと思い、沈黙のうちにマザーの「ベナレスからの手紙」をゆっくり読めると言う祝福を与えられていると感じた。

 隣に座っていたグレッグの手にロザリオがないことを知り、私はちょうどポケットに持っていた木の小さなロザリオをそっとあげた。

 これも私の最後のカルカッタの夜に与えられた祝福の一つであることを感じた。

 グレッグはきっと今回の彼の滞在の間、そのロザリオを大切に使い、私のことを思い祈ってくれることを信じれたからである。

 私はまた御聖体をただ一心に見続けた。

 海面に映る満月の光線のような道が私と御聖体をつなぐ、そこへ私は今までの感謝を溢れる思いのまま述べ伝えた。

 それは行っては帰ってくる波のように私をも祝福してくれていた。

 それは愛し愛される限りなく優しい波になっていた。

 私は膝立ちから腰を下ろし、「ベナレスの手紙」を読み始めた。

 マザーが切にイエスの愛を伝えようとしている比類ない溢れる愛を痛むほど感じ、また時に御聖体に目を向け祈りながらゆっくりと読み続けていった。

 ジムがチャペルに入ってきた。

 祈りに集中するためにボランティアたちは暗黙のうちに間隔をあけ座っていたのだが、彼はそれを無視し、私の隣に座った。

 その時、気が付いた、ジムは今日に限らず、いつも私をイエスに導くために、私の傍でいつも祈っていてくれたのである。

 彼は神さまに誓ったGod Fatherとしての役目を常にしようと努めていてくれたのである。

 彼もまたイエスの愛を伝えようとGod sonの私を見守ってくれていたのである。

 {つづく}

 
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God Fatherとして。

2014-04-23 12:57:40 | Weblog

 カルカッタでの最後のアドレーションは4月3日の木曜日だった。

 この最後のアドレーションの時、私は今回の滞在の締めくくりとして、それまで何度も読んでいたが、やはりもう一度最後にマザーハウスのチャペルの中でマザーの遺言と言って良い「ベナレスからの手紙」を読もうと持って行った。

 1993年3月、マリアのお告げの祝日にマザーからマザーのすべての修道会に配られたこの手紙は、マザーはチャペルの中で書き上げたゆえに、チャペルの中で読むようにとマザーはその意向を手紙の中に書いていた。

 私はマザーが生涯一番長く祈り続けたマザーハウスのそのチャペルで、それを実際に読むことがこれ以上ないほどの彼女の愛と親近感、その臨場感を抱き合わせ、隣でマザーが語り掛けてくれているその声が聞こえてきそうなその場所で読みたかった。

 この手紙はその前の火曜日、四旬節の間チャペルの左奥の小さなチャペルでボランティアのための特別なアドレーションの時、その一部が読まれ、その時、私は最後のアドレーションの時にはもう一度読み直そうと決めた。

 木曜日のアドレーションは6時から始まる、その日はサイレントのアドレーションだった。

 サイレントのアドレーションとは普通月曜と金曜なのだが、事情により、たまにそれがずれる時がある、その日がそうであった。

 {つづく}

 

 

 
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再開。

2014-04-22 12:35:28 | Weblog

 昨日から仕事を再開した。

 約4ヶ月ぶりの仕事であるのでやはり緊張もあったが一日無事に終えることが出来て何よりだった。

 日本での仕事もカルカッタと同じように行うだけである、一人ひとりの利用者に会う前には胸に手をあて、心の在り処と祈りのもとに向かう。

 そして、私の出来ることの中での最良のことに愛を込めて行うだけである。

 仕事であるとしても、もちろん、それは神さまのために美しいことをしようと思う思いが私を励まし、喜びへと導いてくれる。

 そこには祈りがあってこそである。

 
 マザーの言葉。

 「仕事の最中でも祈ることは出来ます。

 仕事は祈りを妨げはしないし、祈りもまた、仕事を妨げることはないのです。

 ただほんの少しだけ心を神さまに向けるだけで良いのです。

 愛しています、お任せしています、信じています、神さま、私は今あなたが必要です、こんな感じで良いのです。

 これは素晴らしい祈りです」


 「祈ることを愛しましょう。

 日中たびたび祈りの必要を感じ、祈るように努めましょう。

 神さまはいつも私たちに語りかけておられます。

 神さまに耳を傾けましょう。

 神さまは私たちに、深い愛と思いやりとゆるしの心を望んでおられます」

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朝靄。

2014-04-21 12:12:14 | Weblog

 雨上がりの朝靄の中、穴澤天神社まであんと散歩に行った。

 流石に髭がないので顎が寒いが、そこに伝わっていく風は新鮮そのものだった。

 新緑が微かな靄に包まれていた、それは優しさに満ち、ずっと離れずに私とともにいてくれるように思えた。

 それはあの「足跡」の詩のように思えた。

 片時も離れることのない愛、まったくないと思っていてもしっかりとある愛、疑っていても疑いかえすことのない愛、愛の神は決して見捨てることなどしない。

 あの方の足跡が見えないとしても、感謝と喜びのうちに今日を生きよう。


 「ある夜、わたしは夢を見た。

 わたしは、主と共に、なぎさを歩いていた。

 暗い夜空に、これまでの私の人生が映し出された。

 どの光景にも、砂の上に二人分の足跡が残されていた。

 一つは私の足跡、もう一つは主の足跡であった。

 これまでの人生の最後の光景が映し出された時、わたしは、砂の上の足跡に目を留めた。

 そこには一つの足跡しかなかった。

 わたしが人生で一番つらく、悲しい時だった。

 このことがいつもわたしの心を乱していたので、私はその悩みについて主にお尋ねした。

 『主よ。わたしがあなたに従うと決心した時、あなたは、全ての道で、わたしと共に歩み、わたしと語り合って下さると約束されました。

 それなのに、わたしの人生の一番つらい時、一人分の足跡しかなかったのは何故ですか。

 一番あなたを必要としていた時に、あなたが、何故、わたしを捨てられたのか、わたしには分かりません。』

 主はささやかれた。

 『わたしの大切な子よ。

 わたしは、あなたを愛している。

 あなたを決して捨てたりはしない。

 ましてや、苦しみや試みの時に、足跡が一つだったのは、わたしがあなたを背負っていたからだ。』」

 
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Happy Easter。

2014-04-20 19:30:24 | Weblog

 昨夜徹夜祭のミサに出ながら、カルカッタのことをずっと考えていた、それはすべて祈りだった。

 今になっても、私はカルカッタで三ヶ月間毎日書いていたメモを読むことが出来ない。

 いや、出来ないのではなく、わざとしないのである。

 そのメモを読み返すと、きっとそこから戻ることが出来なくなりそうな強い力に縛り上げられる気がするからである。

 私がこの日本でしっかりと働いていくためにも、もうしばらくそのメモは開かないことにする。

 その間、私はメモが熟成していくのを待つ、しかし、実際は私の中の何かが熟成していくのを待つのである。

 非現実から現実、現実から非現実、そのどちらかも良く分からなくなることを避け、今の私をもっと知る必要がある。

 明日から仕事を始める、三ヶ月間伸ばしていた髭を剃った。

 小顔に見えてしまう私の顔が見慣れない、しかし、すぐに見慣れることも知っている。

 無意識に私の手が髭を探してしまう、しかし、これもすぐにそうしなくなることであろう。

 不慣れなことはきっと慣れていく。

 私の信仰も、この日本でもっと慣れていく。

 慣れていくうちにもっと自然になっていく。

 水のように、空のように、太陽のように、なくてはならないものとなっていくだろう。

 私は私のままでいてもである。
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乙女峠。

2014-04-18 16:20:17 | Weblog
 
 お昼に永井隆氏の「乙女峠」を読み終えた。

 この一冊を一読して、井上氏のことを分かろうとなど到底思えないが、やはり読まなければ前に進めないように深くその人を知る手掛かりにはなりえない、またいづれはもう少し分かってくるだろう何かの一部を確かに私は感じたように思う。

 流石に実際の浦上四番崩れの人たちに会っている彼の知るところには興味深かった。

 まず幕末から明治維新の当時の人たちはキリスト教徒をキリシタン・バテレンの法{魔法か、何かの術}が使えると考えていた点である、遠藤氏の小説にはこのような記述は見当たらなかった。

 そして、転んだ信徒のことをテングがついたものとして、当時のキリスト教徒が恐れていたとは、私には想像も付かないことであった。

 だが、たぶん、遠藤氏はこの永井氏の「乙女峠」は間違えなく読んでいただろうとは思う。

 物語りの中で津和野での激しい拷問の日々のうちに甚三郎の信仰が深くなっていく様があまりに美しい。

 それは虚栄心や高慢ぶった感情からの外側にだけにいきやすい信仰ではなく、自らの弱さを認めたことにより神さまに救いを求める内なる信仰の柔和さが彼は会得していったのである。

 だが、その激しい試練は私たちが想像し切れるものでは決してないだろう。

 物語りの最後の方になり、甚三郎の長男守山松三郎神父から永井氏に洗礼を授かったことを明かしていた。

 それ故に史実のリアリティーが絶対的なものとして感じさせられた。

 聖金曜日の今日にとても相応しい本であった。

 そして、続いて二冊目「平和塔」を読み始めた。


 話しはカルカッタでのことになるが、今回何度か海外の友達に日本のキリスト教の歴史を話すことが何度かあった。

 26聖人のことは、私の洗礼名を話し合っている時、ジョンやジムに少し話した。

 初めは24人だけ選ばれ、その長崎まで行く間に、後から二人が志願して加わったことなどを話すと、それは知らなかったと、彼らは感慨深げになった。

 シアルダーのディスペンサリーでの休憩中にも一緒に働いているチャッド、メギン、ジャニィなどには、260年あまり潜伏キリシタンがいたことなどを話した。

 彼らにはまったく信じられない話であったであろう、とても驚いていた。

 そして、信徒発見のこと、当時プチジャン神父がしていたことなども話した。

 しかし、残念なのは私の英語力の無さであった、もう少し詳しく分かりやすく話したいと、その時を思ったことを思い出している。

 日本のキリスト教の歴史とは日本史だけに留まるべきではない世界史レベルの奥深さに満ち溢れている。

 そして、そのことがなぜかあまり知られていない事実もあってしまう。

 このようなことを書いたり話したりする私ではあるが、私もこうしたことを知ったのは、ここ数年の話である。

 それは私の洗礼までの道のりの上で知る、また知りたいと思った必要不可欠なものであったことに違いなかった。
 
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犬も歩けば。

2014-04-17 18:18:15 | Weblog

 まず初めに訂正を。

 一昨日のブログで永井隆氏のことと井上隆と間違えて書いてしまったいた、すでにこっそり直してあるが、なぜか、私の頭の中で勝手にすり替えられ、勘違いをしていたらしい、が「井」だけはあっていた。

 しかし、古本屋で探した時にはちゃんと永井隆で本は探していたのことの記憶はあるのだ。

 これはまだ何も彼のことの知らない証しのようなものであろう、思い違いや勘違いは容易にしてしまう私である、そうした私を私はしっかりとまた覚えておく必要がある。

 それは他人のそれを許せる糧になるからである。

 今日は目白のカテドラルの聖なる油を祝別する聖香油のミサに出かけてきた。

 その帰りに永井氏の本を四冊買って帰ってきた。

 早速帰りの電車の中で「乙女峠」を読み始めた。

 これは浦上四番崩れの話である。

 遠藤氏の書く浦上四番崩れとの違いを楽しみに読んでいた。

 これから、しばらくは永井氏のとりこになるだろう。

 家に帰って一休みし、私はあんの狂犬病の注射をしなくてはならないことを思い出した。

 このことは一昨日辺りまで覚えていたが、昨日今日とまったく忘れていた。

 注射は明日でも良かったが、天気予報を見れば、あまり良くないのですぐにあんの病院に電話すると先生が今日でも大丈夫と言うので、まず安心した。

 しかし、あんが怖がるだろうと思うと、やはり私の気は晴れない。

 私の気の晴れない様子に気付いたあんも、何か察したように外に出ても、いつものようにトコトコ歩き出さない。

 以心伝心とは良い時もそうでない時も伝わってしまうものだと感じ直し、私はあんの前で少し大げさに明るく装うのだった。

 しかし、やはりすでに何か察しているあんは浮かない顔をして、たまに止まり、お座りして動こうともしないこともあった。

 ここは腹を決める感じにして、あんを病院のへの道に導いていくしかなかった。

 普段あまり歩かないこの道は病院への道とあんも腹を決めたのであろう、周りを常に警戒しながらも歩き始めた。

 リードを短くし、あんが急に何か驚きダッシュしたりしないかなどをあんをずっと見ていた。

 そうしたら、私が道路の表札に当たった。

 犬も歩けば棒に当たると言うが、今日は私が棒に当たったのである。

 病院ではあんは先生からおやつだけをもらって逃げようとして暴れたが、昨年よりは少し良い子で注射を受けることが出来て何よりだった。

 
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