とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

「伊丹堂」今昔ーー承前

2011-02-13 22:03:40 | 日記
「伊丹堂」今昔ーー承前



「現在は、藩主松平直政の仏教的因縁話としてまとめられている。このことを私は数年前に知って、そうかなあ、と思った。どうしてそんな風になるのか。すると、『伊丹』という言葉の根拠は何だと思ったのである。」
 調査することの限界を感じていた私は、こういう風な乱暴な書き方をしたのであるが、あるお方から目からウロコの貴重な史料を提示していただいた。感謝している。その資料を拝見し、藩主と「伊丹堂」のつながり、また、人柱口碑の虚構性、そして、案内板には「伊丹」としてあり、「板箕」を排除した根拠等がほぼ明確になった。このことについては後日ここに簡潔にまとめたい。

 ・・・ということで、ここで私がまとめねばならないが、客観的に旨く表現できるかどうか自信はない。できるだけ簡潔にということを心がけたいと思う。その史料というのは、地蔵堂の改築を松江藩の役人に願い出た文書の写しである。
 
 先ず名称である。その文書には「伊丹堂」と記されているので、この名称がもともとの形であったと思われる。斐伊川土手に建立されたのは慶安元年(1648年)である。その命を下したのは「高眞院」とあり、藩主松平直政である。それまでは土手下に辻堂のような形の建物の中に地蔵菩薩がまつってあったという。
 江戸住まいをしていた直政の夢枕に再三地蔵菩薩が表れたという。その地蔵菩薩は渡橋村の観音寺の本堂が大破しているので、早く改築してくれということを繰り返し言ったそうだ。そこで、直政は藩に飛脚を立てて仔細に調べさせたところ、間違いなく壊れていた。報告を聞いた直政はすぐに修理をしなければと思って命を下し、改築がなされる運びとなった。
 その後、斐伊川の土手の改修が進んでいた。直政が鷹狩りをしにその川土手にやってきた。そして土手下の「伊丹堂」の近くで休息した。お茶、お菓子の接待を受け、ふいとお堂の地蔵菩薩を見ると、あの夢枕に立った姿そのままのだったので驚いたという。これも何かの因縁と思い、直政は地蔵堂を土手の上に立て、手厚くまつたという。。(ここまでが古文書の記載である)

 土手下のお堂に地蔵菩薩がまつってあったころ、その付近には斐伊川支流の小さな川が幾筋か流れているだけで、人柱を立てるほどのこともなかったという。だから、人柱伝説は事実無根であるという風に研究者は説明している。
 その後、元禄十五年(1702年)にいわゆる「伊丹堂切れ」という大洪水が起こった。そこで水か治まるように大祈祷が執り行われたが、そのときに人柱を立てたということはいかなる文書にも書きし記してないそうである。

 この文書の研究家は、その伝説は、後世の者がでっち上げたものだろうと説明している。板箕売りのものが犠牲になったという内容は、「伊丹」を「板箕」に読み替えたものに違いないと仰っている。
 それから、「伊丹」という名称について、恐らく当時その辺りの地名だったのでは? と推察しておられる。しかし、その確証はないようである。

 というように私がまとめたが、多少の齟齬はお許し願いたい。新しい史料がまた出てくるのではないのかと期待している。