とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

春が来た !!  春が来た !!

2011-02-17 22:30:18 | 日記
春が来た !!  春が来た !!








2月16日、家族三人で斐川公園の梅林に出かけました。
 久しぶりの晴天で、待ち焦がれていた私たちは嬉しくなって、車に乗りました。着いて歩き出すと、まだまだ肌寒い感じでしたが、公園の坂を登るきつさも苦になりませんでした。
 今年もこの梅に出会うことができた。私は、ほんとに大袈裟ですが生きている喜びを感じました。亡くなった家族には申し訳ないが、存分に梅の香を嗅ぎながら歩き回りました。「若人の森」と名づけられていて、この紅梅と白梅はある年の成人した若者が前途の幸せと発展を祈念して植樹したそうです。
 五分咲きくらいで、まだまだ寒さに縮こまっていました。昨年の2月17日の画像と比較していただくとよく分かると思いますが、今年は随分咲き遅れています。下旬か来月の初旬ごろが見ごろかなあと思いました。
 私は、ふと、落葉樹の梢を見やりました。すると反射的に何だかジンと来て、涙を催しました。この感情は最近特に強くなった感じです。



 何故か。私は、高校時代に講堂でときどき見上げていた100号くらいの油彩の「杜」というタイトルの絵を思い出したからです。美術教員の矢田安史郎先生が描かれた作品です。私は、箒を広げたような落葉樹の梢を絵の中に見て、言葉にはできないような哀しさ、美しさを感じていました。
 「おい、お前はよう遊んどる !!」
 2時間続きの美術の野外写生を見回って、先生はこう私に仰いました。遊んでいるというのは、のびのびと書いているという褒め言葉でした。その言葉が先生亡き後の今も耳の底に響いています。それは私の高校生活への特別なある感情とダブって私を過去に引きずり込むのです。
 私は文章を随分長らく書き続けました。でも、もしかして、絵が描きたかったのでは、と思うことがあります。文字とは随分違うストレートに訴えるものが絵にはあります。私は、先生の作品を見て、絵は素晴らしいと思うようになったのです。
 もし私が絵の道に進んでいたら・・・。そんなことを眼前の梢を見ていて思いました。

 

「伊丹堂」今昔ーー承前

2011-02-13 22:03:40 | 日記
「伊丹堂」今昔ーー承前



「現在は、藩主松平直政の仏教的因縁話としてまとめられている。このことを私は数年前に知って、そうかなあ、と思った。どうしてそんな風になるのか。すると、『伊丹』という言葉の根拠は何だと思ったのである。」
 調査することの限界を感じていた私は、こういう風な乱暴な書き方をしたのであるが、あるお方から目からウロコの貴重な史料を提示していただいた。感謝している。その資料を拝見し、藩主と「伊丹堂」のつながり、また、人柱口碑の虚構性、そして、案内板には「伊丹」としてあり、「板箕」を排除した根拠等がほぼ明確になった。このことについては後日ここに簡潔にまとめたい。

 ・・・ということで、ここで私がまとめねばならないが、客観的に旨く表現できるかどうか自信はない。できるだけ簡潔にということを心がけたいと思う。その史料というのは、地蔵堂の改築を松江藩の役人に願い出た文書の写しである。
 
 先ず名称である。その文書には「伊丹堂」と記されているので、この名称がもともとの形であったと思われる。斐伊川土手に建立されたのは慶安元年(1648年)である。その命を下したのは「高眞院」とあり、藩主松平直政である。それまでは土手下に辻堂のような形の建物の中に地蔵菩薩がまつってあったという。
 江戸住まいをしていた直政の夢枕に再三地蔵菩薩が表れたという。その地蔵菩薩は渡橋村の観音寺の本堂が大破しているので、早く改築してくれということを繰り返し言ったそうだ。そこで、直政は藩に飛脚を立てて仔細に調べさせたところ、間違いなく壊れていた。報告を聞いた直政はすぐに修理をしなければと思って命を下し、改築がなされる運びとなった。
 その後、斐伊川の土手の改修が進んでいた。直政が鷹狩りをしにその川土手にやってきた。そして土手下の「伊丹堂」の近くで休息した。お茶、お菓子の接待を受け、ふいとお堂の地蔵菩薩を見ると、あの夢枕に立った姿そのままのだったので驚いたという。これも何かの因縁と思い、直政は地蔵堂を土手の上に立て、手厚くまつたという。。(ここまでが古文書の記載である)

 土手下のお堂に地蔵菩薩がまつってあったころ、その付近には斐伊川支流の小さな川が幾筋か流れているだけで、人柱を立てるほどのこともなかったという。だから、人柱伝説は事実無根であるという風に研究者は説明している。
 その後、元禄十五年(1702年)にいわゆる「伊丹堂切れ」という大洪水が起こった。そこで水か治まるように大祈祷が執り行われたが、そのときに人柱を立てたということはいかなる文書にも書きし記してないそうである。

 この文書の研究家は、その伝説は、後世の者がでっち上げたものだろうと説明している。板箕売りのものが犠牲になったという内容は、「伊丹」を「板箕」に読み替えたものに違いないと仰っている。
 それから、「伊丹」という名称について、恐らく当時その辺りの地名だったのでは? と推察しておられる。しかし、その確証はないようである。

 というように私がまとめたが、多少の齟齬はお許し願いたい。新しい史料がまた出てくるのではないのかと期待している。

人柱荒神

2011-02-12 23:35:17 | 日記
人柱荒神




 斐伊川と関わりのある人柱の話をもう一つ。





 地元のお方に尋ねてやっと現場に辿りついた。場所は斐伊川東岸の出西岩樋の近くである。遠くから見ると田の中に植え込みがあった(写真上)。近づいて植え込みの周囲をよく見ると、根元には石が数個並べてあった(写真下)。これが出西の人柱荒神 ? 私はそら恐ろしいものを想像していたので、拍子抜けがしたような気持ちになった。昭和48年のことである。
 私は予め調査してその話の概略は知っていた。次に引用したい。

 『斐川町史』(該当の項目は岡義重氏担当)によると、次のような話が載っていた。
 
 昔、出西の土手が崩れ大川の水が溢れて止められなかった。村の人々はただ水勢を眺めて途方に暮れているばかりであった。
 「この勢いではとても止められん。人柱と云って生きた人を沈めると流れがたちまち止むそうだ」と言う者があった。その中に居た清太郎という村の人が、これを聞いて「多くの人のためになるなら、自分の命を惜しむことはない」と、さっと走って激流に飛び込んだ。その家の下男清十郎というのが「わしも主人と一緒に」と、その後からまた飛び込んだ。人々は「それっ」と一挙に土俵を投げ込んだので、やっと土手を止めることができた。
 村の人はこの二人に感心して、二人の人柱の流れ着いた処、岩樋の下の山麓へ荒神様にまつった。これを「清三郎荒神」と称せられている。また上の岩海の堤が切れた時にも人柱をたてたと伝えられている。(出典『雲陽誌』など)

 私はこの話も虚構性が強いと思ってはいるが、人柱口碑自体がもともとそういう性質のものだと思っているので、こういう話が生まれる人間の深層に注目していたのである。それから私は荒神様にまつったというところに特異性を感じているのである。
 この口碑については実証的な史料とか反証的な史料には今のところお目にかかっていない。

梅の便り

2011-02-10 23:59:51 | 日記
梅の便り






 斐川公園の今年の梅はもう咲いたでしょうか。
 この画像は昨年の2月17日のものです。今年もぜひ出かけたいと思っています。

 でもその前に確かめられる便利なブログがあります。以前から注目していました。ということで、早速アクセスしました。
 結果は下のリンクでご確認ください。ブログ管理人さん無断でご免なさい。


「斐川公園」のブログ

 

「伊丹堂」今昔

2011-02-05 23:00:05 | 日記
「伊丹堂」今昔



 先ず次の写真を比較してご覧ください。

 ①現在の「伊丹堂」



 ②現在掲示してある「伊丹堂」の由来



 ③昭和48年当時の「板箕堂」



 ④上の「板箕堂」を土手下から撮った写真




 私が斐伊川の歴史にいたく興味を持っていたのは昭和40年代である。調べていくと、斐川町出西地区の斐伊川東岸やこの写真の一畑電鉄大寺駅の近くの「伊丹堂(いたみどう)」にまつわる人柱口碑が昔から言い伝えられていたことが分かった。このことは後日詳細に「座礁」のページでまとめて再発表するが、ここでも簡潔に触れておきたいと思う。
 私は上の③と④の写真を撮ったころにはこのお堂の由来を記した掲示はなかった。傾きかけた小さなお堂がポツンと土手の斜面に建てられていた。支えの木材があり、何だか痛々しかった。
 私は、佐藤徳堯氏が書かれた『山陰の民話』にまことに哀しい話が載っていたのを今でも鮮明に覚えている。

 度重なる斐伊川の氾濫に苦しめられた地元の人々がある日相談して人柱を立てることにしようということになった。朝、この土手を最初に通りかかった人を穴埋めにしようということで落とし穴を掘り、ある朝まだ暗いうちに数人が土手下に身をひそめて待っていた。ところへ遠くの方から足音がして一人の女が近づいてきた。その女は手にいくつかの板箕(いたみ)を持っていたが、その板箕とともに穴に落ち込んだ。
 すばやく泥をかけながら男たちはその女の顔を見てびっくりした。うら若い少女だったのである。しかもじっと手を合わせて祈るような仕草をしている。心なしその体から光が発しているように思えた。観音様のように見えたのである。男たちは顔を見合わせてためらったが、これも掟と涙をのんで泥でその少女を埋めてしまう。
 後でその少女(お定)の身の上を知って、男たちは非常に胸を締め付けられるほど哀しんだ。その少女は、既に父親は亡くなっており、母親は眼病を患っていた。その母親に代わって板箕を売りに隣の町に出かける途中だったのである。
 その日、地元の人々はその少女のことを知り、あまりの不憫さに泣いたという。地元の人々はその少女霊を慰めるためにお堂を立て、観音様をまつった。そのお堂は板箕に因んで「板箕堂」と名づけられたという。(この話では観音様をまつったとあるが、現在は地蔵さんの像がまつってある。また、そのお堂の名前は「板箕堂」と記してある)

 出雲市のHPには次のような話が載っていた。引用させて戴くことにする。

 古老の話によれば、その昔、斐伊川の大洪水のため堤防が切れ大きな被害にみまわれた時、地元では大勢の人々が修復をするためにかりだされましたが、中々水止めができませんでした。
 板箕(いたみ)売りの父娘が通りかかり
「人柱をたてなければ、水を止める事はできないですよ」
「人柱は、褌(ふんどし)に赤いつぎ(あて布)のしてある人が効果的です」といったそうです。
 工事の関係者たちはその言葉を信じて、通り掛かりの人たちを調べ始めた所、板箕(いたみ)売りの父親が褌に赤いつぎをしていたため、やむなくその父親が人柱になったそうです。 結果、土手の修復は成功して水は止まりましたが、板箕(いたみ)売りの娘の悲しみは傷み(いたみ)切れないほどだったようです。 地元の人々は早速、板箕(いたみ)売りの霊を鎮めるため、地蔵尊を祀ったという人柱伝説が残っています。

 と、このようにまことに哀しいお話が残っているのである。
 ところが、現在は、写真②の説明のような藩主松平直政の仏教的因縁話としてまとめられている。このことを私は数年前に知って、そうかなあ、と思った。どうしてそんな風になるのか。すると、「伊丹」という言葉の根拠は何だと思ったのである。出雲市のHPにもこの因縁話が併記されている。
 現在の掲示板(案内板)には研究者の名前が明記されているので、いずれそのお方に問い合わせしたいと思っている。
 上記の若い娘を人柱にする話は、以前『出雲文学』(昭和49年発行)でも私が紹介している。人柱口碑は全国的に語られていて、いろいろな類型がある。私はすべて真実を語っているとは思っていないが、そういう話が伝わっているということの底流にある自然の猛威に対する人間の恐れの深層に私は注目している。(『山陰の民話』では、「板箕」とは縁のついた菜切り台だと説明されている)

補足資料のページ

(追記) 佐藤徳尭氏の略歴

佐藤徳尭(さとうとくぎょう) 別名(通称・俗称)佐藤水晶, 佐藤徳堯
生没年:(西暦 1897~1983 (和暦)明治30年~昭和58年
出身地: 米子市 
活動分野及び業績:小説家。「米子文学」に拠る。民話集の刊行。米子図書館「佐藤文庫」。