とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

海軍航空基地のこと

2011-02-22 22:35:11 | 日記
海軍航空基地のこと



 私が斐伊川の歴史にいたく関心を持っていたことを以前書いた。
 そのため昭和40年代にはいろいろな角度から斐伊川に関する写真を撮った。関連してかつての斐伊川の支流の新川(斐川町)の取材のために山に登って写真を撮った。その一部が次の2枚のモノクロの画像である。




 上が山上から撮った新川の写真。白く見える部分は新川廃川地に敗戦直前に造られた海軍航空基地の飛行場である。この基地が特攻基地だったということを言われるお方もあるが、私は確認することをまだしていない。下の写真は飛行場を北側から撮った写真である。向こうに見えるのが仏経山である。
 現在の滑走路はこういう風に綺麗ではない。コンクリートの隙間から草が生えているし、近くに住宅地もある。滑走路の東側には葬祭会館も建っている。
 斐伊川支流の新川は、天保2年(1831年)藩の命により開鑿された。斐伊川本流を水害から守ることと新田の造成が目的だった。
 突然の下命ということで地元は混乱したという。数年かかって完成するが、相当の難作業だったらしい。時の家老朝日丹波は過酷な労働を強いられた地元民のために労働歌を作ったという。それが後の盆踊り唄の「大山崩し」として残ったと聞いている。
 その新川が廃川となる一番の原因は昭和9年9月の新川決壊である。旧直江村の法華経堤防から出水し、またたくまに直江から旧荘原村に流水が押し寄せた。私はその時の水害の悲惨さを家のアルバムで知り、衝撃を受けた。家の一階は完全に水没し、表通りには舟が行き来していた。後、その決壊した地点には犠牲者の霊を慰撫する法華塔が建てられている。

 壮大な石英砂群の堆積に
 天保の開削人夫の
 埋もれた声を聞く
 湖岸に溢れた砂は
 沃野と化し
 ほとばしる水音は
 歴史の中で消された

 <流緩に水清し、舟筏通ぜず>
 その斐伊川大派流も
 今は人々の口にのぼらない
 破れた法華経堤防を
 出雲結 大川倉
 連台で固めた
 あの時のことも

 新川川床の
 光を放つ砂粒の死者たちは
 かたくなにもだすのみ
 「山崩し」の歌声を残して

 廃川はひたすらに
 川敷に重い
 昭和十五年一月のことだ

     昭和48年7月14日 中国新聞掲載


 この詩の中に廃川となった年を記しているが、その後その膨大な跡地は開拓され、耕地として利用されることになる。
 そして、戦争に突入する。日本本土への空襲が日増しに激しくなる中、昭和20年3月、海軍航空基地が急遽作られることになった。完成すると、大勢の軍人が投入され、学校などは宿舎として提供されたという。
 ここに配備されたのは、「銀河」と「桜花」である。「桜花」は非常に小さい飛行機で、弾丸を乗せて敵艦を攻撃する特攻機かもしれないという記述が『斐川町史』にある。しかしこの「桜花」について私はそれ以上のことを述べることはできない。未完成の試作機だったということを仄聞している。・・・私のレベルでは真相を解明することはできない。私のこのブログの目的はそういうことにある訳ではない。
 とまれ、私はそういう過去の詳細について子どものころは全く知らなかった。むしろ地元に飛行場があったということを誇りに思っていたのである。次第に飛行場建設の経緯を知るようになり、その気持ちが激しい嫌悪の気持ちに変わっていった。
 史実をきちんと知ること、また、語り伝えることの大切さを痛感している。付言すると、私たち家族の生活基盤は奇しくもこの新川廃川地である。
 (参考資料) 『斐伊川史』(長瀬定市)『斐川町史』(共著)
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