とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

大島俊太郎画伯とは・・・

2012-04-05 15:10:02 | 日記
大島俊太郎画伯とは・・・






 この裸婦画は一見西洋の画家の作品と見紛うほどの出来栄えである。ところがれっきとした日本人の画家である。名は山本芳翆。


 1850年8月12日(嘉永3年7月5日)、美濃(現在の岐阜県恵那市明智町)で農家の長男として生まれる。本名は為蔵、為之助、為治郎。

 15歳の時ふと手にとった『北斎漫画』を見て画家を志す。始めは京都において小田海僊の門人久保田雪江に南画を学ぶ。のち明治5年(1872年)に横浜にて五姓田芳柳に入門し、洋画を学んだ。1876年(明治9年)、工部美術学校に入学し、アントニオ・フォンタネージの指導を受けた。翌年退学し、1878年(明治11年)、パリ万国博覧会を機にフランスに留学しジェロームに絵画技法を学んだ。

 1887年(明治20年)に帰国し、版画家合田清とともに画塾「生巧館」を主宰。1889年(明治22年)、松岡寿らと明治美術会の設立に尽力した。1894年(明治27年)に黒田清輝がフランスから帰国すると画塾を黒田に譲り、また黒田が結成した白馬会に参加した。1906年(明治39年)11月15日、自宅で脳溢血により死去した。満56歳没。(『Wiki』より)

 この作品は日本人が描いた最初の西洋画の裸婦像である。1880年(明治13年)にフランスで山本芳翆が描いた。黒田清輝が日本で描いた裸婦画がそれに該当すると言われていたが、後訂正されたという。


 私は銀座のある画廊の中に立っています。不思議なこともあるものです。あれほど乗り物を怖がっていた私でしたが、新幹線に乗っているときも少しも怖れという感情は湧きませんでした。あの家と関わるようになってから少しずつ私は内的に別の人間として動き出していることを自覚せざるを得ません。
 どうしてその画廊に・・・? いや、あのとき、そうです、古賀画伯から大島という画家のことを知らせていただいたときから、私はその画家のことが気にかかっていました。古賀画伯にそう言いますと、どうしてですか、と何度も聞かれました。京子さんがお父さんの後妻さんを憎んでいるのは、その奥に大島俊太郎という画家に対するライバル意識と言っては極論ですが、そういう感情に近いものがあったからではないのかと私は思い始めていましたから、そんな風に古賀画伯に言いますと、ちょうど銀座で回顧展が開かれていると教えていただきました。それで、一念発起出かけました。私は圧倒されました。すごい画家が日本にはいたのだ!! という衝撃を受けたのです。これが日本の写実だ、山本芳翆にも匹敵する!! 興奮を抑えながらオーナーのようなお方にいろいろ尋ねました。そのときの答えをしっかりとこの耳で聞きました。

 

 今度の回顧展ではお孫さんにお世話になりました。今までずっとこの店を支えていただきました。命の恩人です。


 命の恩人。・・・私は、そのとき、軽い眩暈をおぼえました。京子さん、佐山さん、実のお母さん、義理のお母さん、大島画伯、そして、お父さん、そして、私の母、そういう人物が私の頭の中でぐるぐる回っていました。


 これは夢だ。夢に違いない。早くここから出なくては・・・。お前は今まで何をしていたんだ・・・。

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