とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」 246 1984 春日八郎 - 赤いランプの終列車

2017-11-18 07:38:26 | 日記
鋼鉄の高音。私はこういう表現で春日八郎の一連の唄を評価していました。今聴いていてもずしんと胸に響いてきます。

1984 春日八郎 - 赤いランプの終列車


春日 八郎(かすが はちろう、本名:渡部 実 (わたべ みのる)、1924年10月9日 - 1991年10月22日)は、福島県河沼郡会津坂下町塔寺出身の演歌歌手。『赤いランプの終列車』『お富さん』『別れの一本杉』などが有名である。


演歌歌手の第一人者

準専属の歌手は無給だったため、先輩歌手・三門順子の前座で歌ったり、新人の登竜門といわれた新宿の「聚楽」で仕事をしたりという生活であったが、それでも赤貧を洗う生活だったため、ついには進駐軍のPX商品を歌謡関係者に売る闇商売に手を出していたこともあった。そんな下積みが3年続き、同じく準専属であった妻・恵子に紹介してもらった作曲家・江口夜詩の家に毎日のように通い、掃除をしたり肩を揉んだりしながら、曲を作ってもらえるよう願い続けた。江口に「低音が出ないし、声が細い」と指摘されると、河原に出て土砂降りの中で発声練習をしたりと必死の努力が実り、ようやく新曲『赤いランプの終列車』を作曲してもらうことになった。『赤いランプの終列車』を吹き込んだ春日だったが、当時無名の自分が売れるわけは無いと、ヒットしなかった場合を想定して新聞社に入ろうと、履歴書まで書いていたという。曲が作られてから1年後の1952年に、『赤いランプの終列車』は発売され、50万枚の大ヒットとなる。このことによって活動の場が広がる。

1954年に歌舞伎の「与話情浮名横櫛」に登場する、お富さんと切られの与三郎の掛け合いを歌にした『お富さん』(発売3か月で30万枚、最終的には125万枚を売り上げる大ヒット)、同年末の第5回NHK紅白歌合戦に初出場を果たした。また1955年には『別れの一本杉』(60万枚の大ヒット、まだ売り出し中の船村徹を有名にさせた作品でもある)とそれまでの流行歌とは質の異なる望郷歌謡をたて続けにヒットさせ、流行歌の衰退期において「演歌」という新天地を築いた。1967年には、個人事務所として春日プロモーション(現:春日プロ)を創立した。

八郎の直後に同じキングレコードから三橋美智也、更には三波春夫、村田英雄、島倉千代子らが登場。美空ひばりも演歌を歌い出し、後に演歌の女王と称されることとなる。1960年代には北島三郎、都はるみ等が台頭し、演歌の全盛期をむかえる。このような演歌台頭の流れから、八郎を演歌歌手の第一人者と見る向きが多い。音楽ジャンルとして演歌が定着すると、長年にわたり演歌界をリードした。

なお、八郎の代表作の1つ『お富さん』は、1977年11月にエボニー・ウェッブによって『ディスコお富さん』としてカバーされてリバイバルヒットし、発売2週間で20万枚を売り上げた。制作を担当した河野次郎は、歌詞を覚えてもらうのに一苦労したと述懐している。『ディスコお富さん』発売の1ヵ月後に、20万枚突破記念パーティーが開かれ、作曲の渡久地政信、春日本人も出席し、ディスコを踊った。渡久地政信は「こんな再生の仕方もあるんだね」と感心していた。

晩年

晩年の1988年には静岡県の熱海にて親交の深かった三橋、村田らと共に「三人の会」を結成、三人揃ってのチャリティー・コンサートを開催するなど、低迷した演歌の活性化に力を注いでいた。だがこの頃になると体調を崩しがちとなり、段々と体が細くなっていく春日の兆候が見られた。それでも『昭和』から『平成』に元号が変わった1989年の末には、第40回NHK紅白歌合戦(第1部)に1978年・第29回以来、『お富さん』で11年ぶり21回目の紅白出演を果たしたが、これが自身生涯最後の紅白出場となった。さらに1990年頃、清水アキラが顔中に沢山セロハンテープを貼り付けて、春日八郎の物真似を披露した事でも話題となる。『ものまね珍坊』で清水と初共演した際、春日は「俺ってこんな顔してるのか?」と苦笑いしながら感想を述べていた。

1991年6月、左大腿部腫瘍の摘出手術の為入院。「三人の会」のコンサート等に出演出来ず、三橋・村田に対して病床からメッセージを送った事も有った。一旦は退院、同年9月6日に中野サンプラザでのキングレコード60周年コンサートに出演したが、これが生涯最後のステージとなった。その後体調が悪化し再入院、「三人の会」結成からわずか3年後の1991年10月22日20時38分、肝硬変と心肺不全により新宿区の病院で死去。67歳没だった。
デビュー後に吹き込んだ楽曲は通算千数百曲、レコードの総売上は7000万枚を超す。

会津坂下町との関係

故郷である会津坂下町への想いも強く、幼少時に通った町立八幡小学校にピアノを寄贈し校歌を作曲、町立第二中学校の校歌、応援歌も作曲した。また会津坂下町民歌、会津坂下音頭を作曲し自ら歌いレコーディングするなど町の発展に尽くした。

会津坂下町も八郎の功績をたたえ、同町の船杉地区(一本杉と地蔵が実在する)に「春日八郎記念公園・おもいで館」を建設。遺品の展示コーナーやカラオケコーナーがあり、八郎の作品の品揃えも日本一となっている。また2003年には会津坂下駅前の広場に春日の銅像を建立し、さらに2007年10月13日には『赤いランプの終列車』の歌碑も建立された。2005年10月5日、会津坂下駅において駅舎の壁と八郎の銅像がスプレーにより落書きされる事件が発生した。このニュースはテレビ番組など多くのメディアで取り上げられた。(Wikiより)