とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」 243 いい日旅立ち 山口百恵 1978.11

2017-11-12 16:15:01 | 日記
いよいよこのお方をアップすることにしました。・・・いや、いや、もう何もコメントすることができません。ただ、ただ。聴き入るだけです。

いい日旅立ち 山口百恵 1978.11


山口 百恵(やまぐち ももえ、1959年1月17日 - )は、日本の元歌手、元女優。戸籍名:三浦 百惠(みうら ももえ、旧姓:山口)。
配偶者は俳優の三浦友和(1980年11月19日結婚)。長男はシンガーソングライター・俳優・歌手の三浦祐太朗。次男は俳優の三浦貴大。
活動時の所属事務所はホリプロダクション(現:ホリプロ)、レコード会社はCBS・ソニー(現:ソニー・ミュージックエンタテインメント)に所属。


生い立ち

東京都渋谷区に生まれる[2]。幼少時を神奈川県横浜市瀬谷区(当時は戸塚区)、小学2年生から中学生でデビューするまで横須賀市で過ごした。横須賀市立鶴久保小学校卒業。横須賀市立不入斗中学校[3]時代に、スター誕生!に出場した。日出女子学園高等学校卒業。

芸能界デビュー

1972年12月、オーディション番組『スター誕生!』で、牧葉ユミの「回転木馬」を歌い、準優勝、20社から指名を受ける。同番組への出演応募のきっかけは、同い年の森昌子がテレビで活躍しているのを見て自分も森昌子さんのようになりたいと思ったこと。同番組では、審査員の阿久悠から「あなたは青春ドラマの妹役なら良いけれど歌手は諦めた方が良い」と言われる。

1973年4月、映画『としごろ』に出演し、5月21日に同名の曲で歌手としてもデビュー。森昌子・桜田淳子と共に「花の中三トリオ」と呼ばれた。デビューのキャッチコピーは「大きなソニー、大きな新人」。1973年5月20日、デビュー曲の発売される前日にさいか屋横須賀店の屋上にあるステージで、地元でのお披露目として「としごろ」を歌う。デビュー曲の「としごろ」は、スタッフの期待以下のセールスに止まったため、第二弾の「青い果実」ではイメージチェンジを図り、大胆な歌詞を歌わせる路線を取った。これは「青い性路線」(「性典ソング」)と呼ばれるようになり、それは1974年の「ひと夏の経験」の大ヒットで大きく花咲くこととなった。年端のいかない少女が性行為を連想させるような際どい内容を歌うという、この「青い性」路線で百恵は絶大な人気を獲得することになる。歌詞の内容は際どかったが、辺見マリや夏木マリ、あるいは1970年代に復活した山本リンダなどのセクシー路線の歌手と違い、百恵は年齢が低くビジュアル面では純朴な少女というイメージだった。歌とビジュアルのギャップ、それに伴うある種の背徳感が、百恵の人気を独特なものにしていったと言われる。これは百恵の芸能人としての資質によるだけではなく、所属事務所やレコード会社による周到なイメージ戦略の賜物でもあった。「ひと夏の経験」を歌っていた時期のインタビューではたいてい「女の子の一番大切なものって何だと思いますか」と質問されたが、百恵は全て「まごころ」で通した。

同曲が大ヒットした1974年には文芸作品の名作『伊豆の踊子』に主演し、演技でも評価を得る。この映画で共演した相手役の三浦友和とはグリコプリッツのCMでこの年の夏に共演済であった。『伊豆の踊子』は一般公募で相手役を募集したが、このグリコCMを観た『伊豆の踊子』の監督、西河克己が最終選考の中に三浦の書類を入れたと言われている。三浦とはその後もテレビドラマやCMでも共演し、共に絶大な人気を博し、二人は「ゴールデンコンビ」と呼ばれた。

百恵の映画初出演はレコードデビュー前、ホリプロ制作の「としごろ」(和田アキ子、森昌子主演・日活)で、新人の顔見せとしての出演だったが、『伊豆の踊子』以降、映画13作で主演。そのうち12作は三浦との共演である。「映画に関するかぎり製作者は彼女をリメイク女優以上に認識していなかった。にもかかわらず西河は『霧の旗』で、驚異的なまでのファム・ファタールぶりを彼女に演じさせた」。しかし1978年にはファンからの声の大きかった初のオリジナル作品『ふりむけば愛』がコンビ出演のグリコCMを撮り続けていた大林宣彦監督の演出で製作され、翌年にもコンビ主演10作品記念としてオリジナル作品『ホワイト・ラブ』が小谷承靖監督で製作された。なお、これらの映画は東宝配給ながらすべて日活撮影所で製作され、監督やカメラマンも西河ら日活出身者が大部分を占めることもあり、往年の日活青春映画、文芸映画の後継的な意味合いも持っている。最後の引退記念作品『古都』もやはり日活製作であり、東宝から長谷川清カメラマンら数名を連れて20年ぶりに日活撮影所に乗り込んだ市川崑監督は、馴染みの薄いスタッフを粘りに粘って叱咤し引退作を撮りあげた。市川監督は以前に何度か自分の作品に百恵の出演を依頼していたが、ホリプロサイドから断られており、この最後の作品で監督を務める喜びを制作記者会見で語っている。

テレビドラマでの初レギュラー出演は1973年10月スタート、大映テレビ制作TBS系の「顔で笑って」。この作品で宇津井健との親子役が始まり、以降宇津井健を公私共に「お父さん」と慕い、後の実際の結婚の際に仲人をお願いしている。1974年10月からはTBSのテレビドラマ赤いシリーズ(いわゆる大映ドラマ)に出演、1作目「赤い迷路」続く「赤い疑惑」「赤い運命」でもやはり宇津井健との親子役。「赤い疑惑」「赤い衝撃」では三浦友和と共演。高い人気を集め、シリーズは6年にも及び、百恵のレギュラー出演作品は「赤い絆」引退記念作品の「赤い死線」まで6作品にもなった人気ドラマとなる。しかし百恵は歌手としての活動に比べて女優としては名作を残していないとの評価もあるが、酒井は「歌手というより女優だった」と百恵の本質を言及している。。

1976年 にはブロマイドの年間売上成績で第1位に輝いた。この年リリースされた「横須賀ストーリー」から阿木燿子・宇崎竜童夫妻の作品を歌い、新境地を開く。結果として引退まで歌うことになる宇崎夫妻の作品の数々は、大ヒットの連続で、百恵の世界を決定的に形作った。この二人を作家として指名したのは、周囲のスタッフではなく百恵本人だった。
1978年の『第29回NHK紅白歌合戦』では紅組トリを務めた。白組の沢田研二と共にポップスでのトリは初。また、10代の歌手が紅白のトリとなったのも百恵が初。その最年少記録は破られていない。所属事務所「ホリプロ」が東京都目黒区に建てた自社ビルは、百恵の成功によるところが大きいことから「百恵ビル」と呼ばれることもある。

1979年には、評論家の平岡正明が『山口百恵は菩薩である』を著すなど、多くの文化人に現代を象徴するスターとして語られた。写真家篠山紀信は百恵のデビュー当時から被写体として何万枚も撮り続けて来たが、度々、印象的な写真を発表し、注目を集めた。1970年代に篠山が最も多く撮影した女性は百恵であり、「それは時代が山口百恵を必要としていたから」とし、百恵を「時代と寝た女」と称した。

当時の人気作詞家だった阿久悠は、『スター誕生!』の審査委員長であったが、同番組出身である百恵には作品を一切提供していなかった。その理由のひとつとして、「当時は桜田淳子に(詞を)書いていたから、同系統の歌手には書かないことにしていた」と、阿久自身が述べている。2008年に日本テレビ系で放送されたドラマ『ヒットメーカー 阿久悠物語』では、『スター誕生!』のテレビ予選で百恵に対して阿久が「妹役のようなものならいいけれど、歌はあきらめたほうがいいかもしれない」と評したことで、「そのことに傷ついた百恵は作品の提供を阿久に求めなかった」という話に脚色されているが、あくまでもドラマでの脚色で、阿久自身は著書『夢を食った男たち』で前述のオーディションでのエピソードについて記した上に、自らファンである事実と更に百恵の魅力についてもかつての倉本聰との対談を差し挟んで語られている。

婚約発表・芸能界引退

1979年10月20日、大阪厚生年金会館のリサイタルで「私が好きな人は、三浦友和さんです」と、三浦との恋人宣言を突如発表する。その後三浦も記者会見で「結婚を前提にして付き合っています」と語った。

そして、翌1980年3月7日には三浦との婚約発表と同時に、「我儘な…生き方を私は選びました。(中略)お仕事は全面的に、引退させて頂きます」と芸能界引退を公表する。その一方で、迫り来る引退を視野に入れた形でのレコードのリリースや公演の予定を発表。1975年のザ・ピーナッツで始まり、1978年に解散のキャンディーズで定着した引退記念興行が大々的に展開されることになった。

引退直前同年9月に刊行された自叙伝『蒼い時』は、複雑な生い立ち、芸能人としての生活の裏面に加え、恋愛や三浦との初体験についても赤裸々につづられており、発売から1か月で100万部を超え、12月までに200万部を超える大ベストセラーになった。同書の仕掛け人といえる残間里江子にも注目が集まった。写真撮影は立木義浩。引退後の翌年1981年に文庫化されている。

1980年10月5日、日本武道館で開催されたファイナルコンサートでは、ファンに対して「私のわがまま、許してくれてありがとう。幸せになります」とメッセージを言い残し、そして最後の歌唱曲となった「さよならの向う側」で堪えきれずに、涙の絶唱となった。歌唱終了後、ファンに深々と一礼をした百恵は、マイクをステージの中央に置いたまま、静かに舞台裏へと歩みながら去っていった。

ファイナルコンサートの翌日である10月6日には、『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ)の引退特集番組が放送された。当番組の司会者だった芳村真理と井上順のほか、百恵と同じホリプロ所属の先輩だった和田アキ子、かつて「花の中三〜高三トリオ」として活躍した桜田淳子と森昌子、女性歌手仲間として仲が良かったアン・ルイス・岩崎宏美・太田裕美・小柳ルミ子・高田みづえ・ピンク・レディー、男性歌手では「新御三家」の郷ひろみ・西城秀樹・野口五郎などが、百恵の最後の雄姿を見守っていた。この放送は、後に『山口百恵 in 夜のヒットスタジオ』として2010年6月30日にDVDが発売されている。なお引退直前まで、百恵と親しい間柄でもあった芳村はこの回の放送につき、「いつもはスタッフ達の怒声も飛び交い、賑やかなスタジオであるはずが、この時はとても静かで、感動的だった」「番組の放送が終った後も、皆去るのが辛く、VTRも回しっぱなしでお別れ会が続いた」と放送時のスタジオの様子を語っている。

現役歌手として最後のテレビ生番組出演は、10月13日放送の『山口百恵スペシャル ザ・ラスト・ソング』(日本テレビ、『NTV紅白歌のベストテン』の特別番組として放映)である。

正式な芸能活動の完全引退は、10月15日のホリプロ20周年記念式典で、その時に歌った曲は「いい日旅立ち」である。式典の後同ホテル内において午後8時半過ぎに引退記者会見が開かれたが、記者の多さから開始直後、前列にいた百名近いスチール用カメラマンと後方のビデオカメラマンとの間で揉める場面もあり中断しかねない状態だった。この会見はこの当日放送された『水曜スペシャル特番 山口百恵 今夜 旅立ち!』(テレビ朝日)で番組の終わりに一部生放送され、これが事実上芸能人として現役最後のテレビ生出演となった。

引退時は21歳(22歳の誕生日の約3ヶ月前)で、芸能人としての活動はわずか7年半程だった。引退までにシングルは31作の累計で1630万枚、LPは45作の累計で434万枚を売り上げ、1970年代最もレコードを売り上げた歌手だった。

現役時代にはホリプロとの確執があり、『蒼い時』でも意見の相違により社長の堀威と衝突があったと振り返っている。当時の制作部長であった小田信吾とともに独立するつもりであったが、ホリプロ側が小田を説得して独立を阻んだため引退を決意したとの見解もある。もし独立が成功していれば三浦との結婚がなかったかもしれず、女優としてその後も活躍していた可能性があったとの見方もある。(Wikiより)