とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」 248 渚ゆう子 - 京都の恋

2017-11-19 22:57:38 | 日記
京都とベンチャーズ。・・・私は日本の歌謡曲も国際的になったと思いました。とまれ、いつ聴いてもさわやかです。新作の香水の匂いを嗅いでいるような感じですね。


渚ゆう子 - 京都の恋


渚 ゆう子(なぎさ ゆうこ、1945年11月8日 - )は、日本の歌手。大阪市浪速区出身。本名は大江 千鶴子。ハワイアン歌手としてレコードデビューの後、1970年にベンチャーズ作曲・演奏の「京都の恋」を日本語の歌詞で唄って、大ブレイクし一躍人気歌手となった。

経歴

母親が沖縄、父親は京都府出身。幼少より両親の熱心な教育を受け、沖縄民謡と琉球舞踊を習熟する。
1964年、久葉真鶴(くばまづる)の芸名で芸能界入り。

1965年、和田弘とマヒナスターズの前唄で出演した。そのとき、リーダー和田弘のすすめがあり上京。作曲家浜口庫之助に師事し、ハワイアンを覚える。
1966年、「渚ゆう子」に改名。命名当初は渚夕子だったが、日没のイメージは良くないということでゆう子となった。名付け親はマヒナスターズの松平直樹。

1967年、ハワイアン歌謡「早くキスして」でレコードデビュー。そのB面は「ルアウの火も消えて」どちらも東芝レコードのスチールギター奏者でハニーアイランダースのリーダー大橋節夫が作曲した。

1970年、ベンチャーズ作曲の「京都の恋」「京都慕情」を、日本語の歌詞で唄って大ブレイク、人気歌手の仲間入りを果たす。なお「京都の恋」は、オリコンシングルレコード売上げでは85万枚を超え、さらに1970年年間第10位、翌1971年年間第27位にそれぞれランク、自身最大のヒット曲となった。また「京都慕情」も、翌1971年度オリコン年間第15位にランクされている。

1971年 筒美京平作曲の「さいはて慕情」で第13回日本レコード大賞歌唱賞を受賞。第22回NHK紅白歌合戦に「京都慕情」で初出場。又歌手としても、この年のシングルレコード売上げの年間第2位となった。

1972年、「風の日のバラード」で第23回NHK紅白歌合戦に2回目の出場。

1981年、(歌手としての第一線から一時引退)

1993年、「北ホテル」をリリース。

1997年、「京都ひとり」をリリース。(Wikiより)

あちこち「SYOWA」 247 久保田早紀 異邦人

2017-11-19 04:15:20 | 日記
またアップしたかもしれません。それほど異質な衝撃を与えた唄でした。・・・異邦人となって世界をさまよいたいのです。

久保田早紀 異邦人


久米 小百合(くめ さゆり、旧姓:久保田(くぼた)、 1958年5月11日 - )は、日本のキリスト教音楽家、日本バプテスト連盟加盟教会の教会員である。東京バプテスト神学校神学科修了。
シンガーソングライター、久保田 早紀(くぼた さき)としても、よく知られている。


来歴・人物

1958年、東京都国立市で生まれる。
母親の意向で、4歳からクラシックピアノを習い始めた。本人はそれほど熱中できず、小学校高学年になると、日本のフォークソングや歌謡曲、ビートルズなどを好んで聴き演奏するようになり、中学生になると、母の許可を得てレッスンに通うのをやめる。
1972年、13歳のときに八王子市に引っ越す。八王子市立第四中学校の同級生男子3人組が、当時人気だった「ガロ」のコピーバンドを始めると、キーボード担当として誘われ、文化祭などで演奏を披露した。

松任谷由実や矢野顕子に憧れ、自作の曲を書き溜めていた。当時、父親が仕事でイランに赴いており、現地で人気の女性アーティストのカセットテープをよく買って来てくれていた。中近東独特のそれらの音楽を聴いていたことが、異国情緒をともなう音楽性を養うことにつながった。

共立女子第二中学校・高等学校を経て、共立女子短期大学文学科に入学。在学中の1978年、ミス・セブンティーンコンテストに応募する条件として、CBSソニー(現ソニー・ミュージックエンタテインメント)に自分の歌を録音したカセットテープを送り、一次審査に合格する(同大会には松田聖子も参加していた)。なお本人は『ミス・セブンティーンコンテスト』は主にアイドル対象のオーディションとは知らず、人前で歌う勇気が無かったことから、レコード会社の人に聴いてもらえればという目的で応募したという。なお、二次の水着審査は固辞したが、その代わりとして東京・六本木のCBSソニースタジオで弾き語りを披露することになり、そこでディレクターの金子文枝に出会う。

金子の指導の下、デビューを目指し、当時八王子市にあった実家から、23区内の短大とCBSソニーに通う日々を送る。中央線に乗車中、曲や詞を考えることが多く、のちのデビュー曲『異邦人』は八王子付近で作ったとコメントしている(なお国立付近とも語っている)。

金子からは「自分としての曲や詞を見つけていこう」と言われており、自分には何が有るかと思い返したところ、父からもらったイランのアーティストの音楽テープを思い出し、また金子から「ポルトガルの演歌とも呼ばれるファドの世界が合うと思う」と勧められ、ファド歌手のアマリア・ロドリゲスの歌を聴くようになった。

1979年に短大を卒業すると、その年のうちに三洋電機がタイアップに付いてデビューが決まる。
デビュー曲の候補には『白い朝』、『夢飛行』、『25時』の3曲があり、『白い朝』はゆったりとした感じの曲だった。三洋電機の意向により『白い朝』に決定した後、CM映像がアフガニスタンで撮影されたことや、当時流行していたエーゲ海・地中海などの異国情緒などが意識されて、歌詞・曲ともに大幅なアレンジが施された。そして最終的に、音楽プロデューサー・酒井政利の判断で『異邦人』と改題され、「久保田早紀」のアーティスト名で、1979年10月1日にレコードデビューした。なお、『異邦人』には「シルクロードのテーマ」というサブタイトルが付されている。

タイアップされたカラーテレビのCMが放送されるにつれ、そのオリエンタルで神秘的な曲調や歌声に注目が集まり、じわじわと売り上げを伸ばしてブレイク。12月13日に、「ザ・ベストテン」に第5位で初登場した際にはその美貌にも注目が集まる。12月27日には第1位を獲得、1980年1月17日まで3週間連続(正月休みを挟み実質4週)で1位の座に留まり、その後3月6日まで12週の長きにわたり連続ベストテン入りする大ヒットとなった。同年12月に発表したファーストアルバム『夢がたり』もヒットし、一躍話題のニューミュージック歌手となる。金子らの方針もあって、当時のテレビ出演時にはピアノ弾き語りのスタイルを通した。

2作目のアルバム『天界』(1980年6月)では、引き続き得意のオリエンタル・エキゾチック路線を狙う。
3作目のアルバム『サウダーデ』(1980年11月)では、ファドへの憧憬から現地レコーディングを敢行し、前半の5曲(LP盤のA面)は、ファドミュージシャンたちの演奏をバックにしたポルトガル録音版となっている。

子供の頃に日曜学校に通うなど、キリスト教に親しむ環境はあったが、ポルトガルでのレコーディングから帰って来ると「もう一度教会に通ってみたい」と思うようになったという。
1981年の『オレンジ・エアメール・スペシャル』は、これまでとは曲調をがらりと変えた、夏らしいポップな曲で、キリンオレンジのCMにも採用された。

同年、めじろ台のキリスト教会でプロテスタントのバプテスマ(浸礼での洗礼)を受ける。
その後はヨーロピアン調の曲なども手がけ、シンガーソングライターとしての活動を続けたが、「異邦人の久保田早紀」のイメージはぬぐえず、デビュー時のインパクトに勝る活動はできなかった。

「久保田早紀としてはもう十分に活動した」との思いもあり、音楽家の久米大作との結婚をきっかけとして、1984年11月26日東京・九段会館でのフェアウェルコンサートを最後に芸能界を引退。商業音楽活動を中止する。
その後ほぼ間をおかず、クリスチャンのミュージック・ミッショナリー(教会音楽家、音楽伝道者、音楽宣教師)として、本名の久米小百合(あるいは、ひらがなの「くめさゆり」名義)で音楽活動等を行うようになった。各地のキリスト教会等で教会音楽とアートを融合させたコンサートや、講演会、交流会を行うなど、活動を続けている。

デビュー曲の 『異邦人』は、その後もたびたびCMソングに起用され、2003年には三洋電機のCMに再起用された。また、数多くのミュージシャンにカバーされるなど、長く歌い継がれる曲となっている。
2007年、パワー・フォー・リビングのCMに出演。このCMは全国多くの地域で放映され、20年以上の時を経てメディアに姿を現すこととなった。

2007年から2010年まで日本聖書協会の親善大使を務めており、2008年・2009年版の日本聖書協会カタログ(隔年間隔で刊行)の表紙や本文に、写真が掲載されている。

2013年8月31日、NHK BSプレミアムで『うたものがたり』が放送(22:00-22:59)。ヒット曲の裏側を検証する番組で、フィンガー5の『個人授業』と、 『異邦人』の2曲が取り上げられ、アーカイブ映像のほか、2013年当時の本人や関係者へのインタビュー・取材映像等も放映された。<出演>フィンガー5、久米小百合(元・久保田早紀) <司会>陣内孝則
その後も、時折ではあるが、テレビやラジオ番組のゲスト出演、インターネット番組への出演などがある。(Wikiより)