とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」 251 沓掛時次郎~浮名の渡り鳥 橋幸夫

2017-11-25 16:24:43 | 日記
♪ 浅間三筋の煙の下にぁ 生まれ故郷もあるって言うに・・・

私はこの歌詞の意味がやっと分かりました。浅間山の裾野の沓掛。今は中軽井沢。そこに先日行きました。タクシーの運転手さんが「ここが沓掛ですよ。ここの女は昔売られてしまったんですね」と寂しそうに呟きました。私はもう何も言えなくなりました。

この映画を見ていると自然と涙が出てきました。

沓掛時次郎~浮名の渡り鳥 橋幸夫




『沓掛時次郎』(くつかけときじろう)は、長谷川伸が1928年に発表した戯曲。『騒人』7月号に掲載された。後年、8度にわたり映画化された。また、テレビドラマ化もされた。2010年には漫画化もされている。

1961年の映画

1961年6月14日公開。製作は大映。

キャスト

沓掛時次郎:市川雷蔵

おきぬ:新珠三千代

おろく:杉村春子
六ツ田の三蔵:島田竜三
太郎吉:青木しげる
聖天の権威:稲葉義男
八丁畷徳兵衛:志村喬
赤田三十郎:千葉敏郎
溜田の助五郎:須賀不二男
おとわ:滝花久子
源右衛門:荒木忍
玄庵:志水元
大野木の百助:村上不二夫
苫屋の半太郎:寺島貢
磯田の鎌吉:木村玄
政吉:高倉一郎

スタッフ

監督:池広一夫
脚本:宇野正男、松村正温
原作:長谷川伸



中村錦之助主演の映画 

『沓掛時次郎 遊侠一匹』(くつかけときじろう ゆうきょういっぴき)は、1966年(昭和41年)4月1日公開の日本映画である。加藤泰監督、東映京都撮影所製作、東映配給。カラー映画(フジカラー)、シネマスコープ、8巻 / 2,472メートル(1時間30分)。

あらすじ

旅烏の時次郎は、自分を慕ってついてくる身延の朝吉とともに気ままな旅を続けていたが、草鞋を脱いだ佐原の勘蔵一家と牛堀の権六一家の縄張り争いに巻き込まれそうになる。かつて飯岡助五郎と笹川繁蔵の争いに一宿一飯の義理で助っ人を申し出た時次郎は、多くの人間を斬り殺したことでやくざに嫌気がさしており、勘蔵の娘・お葉の懇願を振り切って立ち去るが、男を上げたい朝吉は時次郎を罵り、単身牛堀一家に殴りこんで返り討ちにあってしまう。

朝吉の供養を済ませた時次郎は、渡し舟で子供を連れた女から真っ赤な柿を手渡され、しばしその母子と旅を共にして悲しみを癒す。その後訪れた鴻巣では鴻巣金兵衛一家のいざこざに巻き込まれる。もう人を斬りたくない時次郎は早々に立ち去ろうとするが、鴻巣一家と対立していた中野川一家最後の生き残りである六ツ田の三蔵を殺せば一宿一飯の義理は問わないと金兵衛に直接頼まれて、三蔵を殺しに行くことになる。

三蔵を一騎討ちで討ち取った時次郎は、今わの際の三蔵から妻と子を連れて、妻のおきぬの故郷である熊谷の伯父の元へと送り届けてほしいと頼まれる。ところが、その家族のところへ行ってみると、三蔵の妻子おきぬと太郎吉とは、渡し舟で柿を手渡してくれ旅を共にした母子だと知って、時次郎は愕然とする。時次郎は涙ながらに自分が一宿一飯の義理で三蔵を斬ったと苦しい告白をした。熊谷に着いてみるとおきぬの伯父は年貢の厳しい取り立てを苦にして首をくくりすでにこの世になく、身寄りを失ったおきぬ母子に時次郎は「自分の故郷、信州・沓掛へ行こう」と誘う。しかし、時次郎と旅をするうちに彼に心を許し、いつしか恋心さえ抱くようになってしまったおきぬは、亡き夫への思いとの板挟みを苦にして時次郎の元から消えてしまう。

一年後、真冬の高崎宿で、悲嘆にくれる時次郎は、外で門付の母子が弾く追分節の三味線を聞いて表に飛び出し、今は流れ者の門付にまで身を落としているおきぬ母子と再会を果たす。その追分節は、かつて別れる前日におきぬが時次郎を慰めるために歌った、時次郎の故郷の唄だった。こうして二人は再会するが、おきぬは肺を病んでおり、床に伏してしまう。おきぬを助けるためには高価な薬が必要であり、その金を稼ぐために時次郎は一度は捨てた刀を再度手にとって、もう一度だけと草鞋を脱いだ八丁徳一家の喧嘩の助っ人をする決意をするのだった。

やがておきぬが病で亡くなり、その子どもを引き取って旅に出る時次郎を追ってくる男がいた。その男は搾取され続ける百姓に嫌気がさしてヤクザ稼業に憧れていた。時次郎は「昌太郎さん、悪いことは言わねぇ。百姓に戻りなせぇ。やくざってぇのはねぇ、虫けらみたいなもんさ」と宥めるが襲われ、彼を切ろうとしたが子どもが必死で止め、時次郎は殺すことを思いとどまり今度こそ刀を捨てた。

  (Wikiより)

あちこち「SYOWA」 250 初恋の人 小川知子

2017-11-25 07:41:16 | 日記
小川知子。・・・いや、思い出します。三田明と並んで歩いている写真など見ると嫉妬したり・・・。いやいや、遠い過去のことですね。

初恋の人 小川知子


小川 知子(おがわ ともこ、1949年1月26日 - )は、日本の女優・歌手。広島県広島市生まれ、東京都北区育ち。
1970年前後に、人気アイドル歌手として有名になる[2]。1980年代は『金曜日の妻たちへ』などのテレビドラマに出演。1990年代は幸福の科学の人物として知られた。

経歴・人物

広島市の生まれ[3]。3歳の時、東京王子に転居[3]。北区立王子小学校の同級生に羽田健太郎がいる。
バレエを習いながら小学校5年の時東宝児童劇団に入り1960年、日本テレビドラマ『ママちょっと来て』でデビュー。

子役としてドラマの出演の他、精華学園女子中学校在学中から日本テレビのバラエティ番組『九ちゃん!』の司会などで活躍。1965年16歳で東映にスカウトされ入社。同期に大原麗子らがいる。『悪魔のようなすてきな奴』で映画デビュー。『大奥㊙物語』(新人賞受賞)、『続・大奥㊙物語』の主演など3年間に10数本の映画に出演。また1965年、TBS『夢のスタジオ』の司会を久保浩と共に務める。1966年久保浩と一緒に歌ったリズム歌謡「恋旅行」を初シングルとしてビクターから発売する。1967年精華学園女子高等学校卒業。青春路線をやるという約束で東映にスカウトされたが、結局、青春ものは1本もやらずに、いやらしい題名の映画(『尼寺㊙物語』)をやらせようとしたと、18歳で単身東映本社に乗り込み東映と契約を解消した。東映との契約はまだ2年以上残っており、すぐに東芝から歌手デビューしたこともあって、小川の振る舞いに当時のマスコミは散々叩いた。

1968年、「ゆうべの秘密」で正式に東芝から歌手デビュー。オリコン1位を獲得するヒットを記録。
この曲は南米コロンビアでも70年代初頭に「Amor japonés」("日本の愛"の意味)という題名でヒットした。小川が歌唱したものだが、「AKAINA AKOMOTO」という歌手が歌ったことになっており(TOMOKO OGAWA が変化したものと見られる)、日本からどのようにしてこの曲がコロンビアに広まりヒットしたのかは不明である。

なお「ゆうべの秘密」レコーディング時には熱を出していたために、「吐息タッチ」な歌声になってしまったという。それでも男心をくすぐるその歌声で一躍人気者となりヒット曲を連打、『NHK紅白歌合戦』には1968年から1970年まで3年連続出場した。『夜のヒットスタジオ』の第1回放送にも出演。俳優時代の演技力を生かし『夜のヒットスタジオ』の挿入コントの柱となり、『巨泉×前武ゲバゲバ90分!』などでもコントを演じた。

1968年人気絶頂時に兄と20日間海外旅行。当時芸能人が長期休暇を取得することは異例だった。ミニスカートが流行りはじめると最も早くこれを取り入れる。

18歳の時、キャンティで知り合った恋人のカーレーサー・福澤幸雄(福澤諭吉の曾孫)が1969年2月、テスト走行中に事故死。直後の『夜のヒットスタジオ』収録で「初恋のひと」を歌いながら泣き崩れた事件は、テレビ界に衝撃を与え、伝説化した。
1970年代に入ると、再び映画・テレビを中心に活躍。映画では『「されどわれらが日々」より 別れの詩』(1971年)のヒロインを演じ、日本で人気があったフランス人俳優ルノー・ベルレーと共演した『恋の夏』(1972年)などに主演。

福澤の死から3年経った1973年、福澤が愛し、奪った世界をしっかりこの目で見てこの手で記録し、そして乗り越えたいと、自ら出演、監督、主題歌、撮影、録音、編集をこなしたドキュメンタリー『マカオ・グランプリ』を撮影。また実年齢より落ち着いた色っぽい大人の女性の雰囲気を持ち、20代半ばでダイハツの初代シャルマンのイメージキャラクターなども務めた。1975年当時としては珍しく個人事務所を設立。テレビでは1983年から放送を開始した『金曜日の妻たちへ』などの不倫ドラマが有名。また『夜のヒットスタジオ』では、谷村新司とのデュエット曲「忘れていいの-愛の幕切れ-」(1984年)を歌唱中、谷村が小川の胸元に手を忍び込ませ、大きな話題を呼んだ。

1977年、俳優・林与一と結婚するも後に離婚。その後、美術評論家の伊東順二と再婚した。
1991年、作家・景山民夫と「幸福の科学」の広告塔となり、雑誌「フライデー」の記事に対する講談社への抗議活動を行う(講談社フライデー事件)。闘士の如く絶叫し、マスコミに大々的に取り上げられ、世間の話題をさらった。この事件後、マスメディアの露出が極端に減ることになる。その後、1998年に景山が火災により死去した際には、「馬車に導かれて昇天する景山氏を見た」と極めてオカルト色の強い発言をした。

1994年、ドラマ「命ささえて-ママ、パパはエイズなの?」で日本民間放送連盟優秀賞を受賞。
1996年の夏、公私ともに親交のある歌手の美川憲一と共にフジテレビ「世界の超豪華・珍品料理」で蛇料理を食べさせられたことがあったり同「第20回爆笑!スターものまね王座決定戦」審査員、テレビ朝日「徹子の部屋」出演など、露出が減っていた時期にバラエティ・トーク番組のゲスト出演を積極的に行っていた時期もあった。

2000年代頃から歌手活動を再開し、2006年には『玉置宏の歌のアルバム同窓会コンサート』で、橋幸夫、錦野旦、フォーリーブスらと全国をまわった。
カラーコーディネーターの資格を持ち、多方面で活躍している。
幸福の科学の月刊誌「アー・ユー・ハッピー?」で2010年7月からエッセイを連載している。(Wikiより)