橡の木の下で

俳句と共に

「讃歌」平成29年『橡』7月号より

2017-06-27 11:49:18 | 俳句とエッセイ

  讃歌         亜紀子

 

 まだ五月というのに、真夏のような日が続いた。遮るもののない東隣の家の庭畑の日差しが、夜明けとともにまっすぐに台所のガラス窓を貫く。ぶらんと万年簾もこの季節は役に立たず、窓の内側にも一枚下げる。それでも眩しいので今年はゴーヤのグリーンカーテンでも仕立てようと考えていた矢先。ちょっと間に合わない。

 久隅守景の夕顔納涼図(国宝)は江戸のグリーンカーテンだ。夏の月のもと、ふくべ棚の下に涼をとる親子らしい三人。露なはだえに夕べの風が感ぜられる。この絵のレプリカを近くの博物館で見たことがある。帰国間近のカナダ人の青年を数名のおばさん達で囲み、日本のお土産話を増やそうという機会だった。韓国、日本を流れるように旅していたその若者は、どうした事情からか別れてしまった恋人に、再び会おうと日本を離れる決心をしたところだった。二十代後半と思われたが年齢よりはずっと瑞々しいところがあり、時折我々には思いも寄らない質問をするので面白かった。

 陳列棚のガラス戸の向う、照明に照らされた納涼図に魅入っていた彼は突然真顔で、あなた方はこういう暮しに今の今耐えて生きることができるかと問うてきた。電気も水道もガスもない、ケータイもない世界に自分が生きていけるか非常に気になって仕方ないと言う。ふううん、咄嗟に出た答えは、人と一緒に生きてある限りは可能だと思う、であった。青年も大方同意見のようだった。

 人が人として生きるために最も必要なものは自分以外の他人との繋がりではないか。深い結びつきも浅い結びつきも等しく、朝の路地でちょっと挨拶する通りすがりの人との関わりのようなものでさえ、私たちが人間として存在する意味を与えてくれ、支えとなる。

 「自然を友とする童心があるかぎり、老いこむことはなく、深刻な孤独はない。」一九五六年刊、遷子、民郎、星眠、公二の手による『自然讃歌』の中に記された星眠のこの一文を、私は何故か「童心」の語を省略して覚えていた。実際の父星眠の性向とは少し違和を感じながら。父は常に俳句仲間との交流の中に生きていた。無人島に取り残されても俳句を詠んだであろうが、いつの日か海の向うの誰か彼かと必ずや思いを分け合うことを想定しただろう。「童心」を入れれば納得できる。童心とは無邪気さ。無邪気さは何の偏見も先入観もなく他を受け入れる心。人と人を結ぶ糸にこの無垢なる心以上に強いものはない。

 『自然讃歌』は前述の四人各々の俳句、文章から成る。それ以前の俳句界に類を見ない清新な作品集であり、青春の交流の記録である。青春は人生の一通過点であり、また二度とは登り得ない一峰でもある。その貴重な瞬間の人間への信頼と讃歌が四者それぞれの形で通底している。

  

  相馬遷子

高空は疾き風らしも花林檎

切株の累々薯を植うるなり

赤とんぼ夕空瀆し群れにけり

獵銃音湖氷らんとしつつあり

 

  大島民郎

高原のいづこより来て打つ田かも

霧ふかし野の十字路の四つのはて

白服に月光沁みて寢にもどる

枯野の朱やがて自転車乙女なり

  

  堀口星眠

翅澄みて蛾は春曉の野にかへる

郭公や道はつらぬく野と雲を

男手に住みあらす部屋花野見ゆ

木菟の夜は雪嶺簷に來て立てる

 

  岡谷公二

晝の虫ひとりの祈り背をかがめ

雷雨去り月光玻璃にふれゐたり

月光に四肢さびしくてなほあゆむ

咳けば銀漢声をなしにけり

 

 一九八〇年、現橡会幹事長の原田さんが白鷺出版会から復刻再版して久しい。目下、編集長の鳥越さんが『自然讃歌』企画を練っているとのこと。この秋の橡誌が楽しみである。

 

  


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選後鑑賞平成29年「橡」7月号より

2017-06-27 11:46:03 | 俳句とエッセイ

  選後鑑賞    亜紀子

 

吐く息のゆつくり長くみどりさす  釘宮幸則

 

 呼吸で大切なのは呼気だという。ヨガも太極拳もしかり。過呼吸にみられるように息は吸い過ぎれば酸素、二酸化炭素のバランスが崩れ、かえって苦しくなる。息苦しくなったら、吸うのではなくむしろ息を止めるくらいが良いらしい。そして、ちょっと吸ったら呼気に意識してゆっくり十分に吐き切ることが大事とのこと。肺を空にすれば自然に良い気を取り込めるということだろう。作者は美しい緑の季節に、その緑をも味わいながら呼気に注意を傾け、自身の身体全体の隅々をも感じ取っているようだ。しばらくの病気療養を経て、身も心も新たに軽やかな印象。

 

石走る水の喜ぶ橅若葉       深谷征子

 

 渓流をほとばしる清冽な水。その水自身の喜びが溢れている。周囲は柔らかな橅若葉の緑一色。掲句は確か五月大会に「石走る水の喜ぶ木の芽晴」で出されたもの。木の芽晴の季語を、具体的に木の種類を挙げて印象を強める工夫をされたものと思う。ただ少し季節が動いたようだ。若葉と木の芽の違いはどうだろうか。岩を乗り越え飛び跳ね、声を上げている水の様は、もしかすると原句の芽吹きの頃が相応しいかもしれない。あるいはアブラチャンの花が咲く頃合いか。

 

ひたひたと水打つ潟や榛咲けり   渡辺静子

 

 新潟には白鳥など冬鳥の飛来で名を知られる潟湖がある。今は水鳥たちも去り、岸辺に寄せるさざ波の音のみ。榛の花が揺れている。ひたひたと水打つという出だしの描写が読者を早春の湖に一気に呼び入れてくれる。

 

しろかねの月山まどか花菜畑    森谷留美子

 

 出羽の霊峰、標高一九八四メートルの月山は山容なだらか。夏でもスキーのできる山。里の菜の花畑が黄に染まる頃も真白な姿で親しまれているのだろう。美しく懐かしい景、心惹かれる作品。

 

過疎村に影の遊べり鯉のぼり    中村文子

 

 子供の姿、声はないが鯉幟がのんびりと吹かれているのはこの村に男の子がいる証。影の遊べりの措辞に、過疎の地で一人遊びする幼子の姿が重なって、明るい五月の陽気ではあるが、少しばかり寂しさが漂う。

 

風に揺れ風に頷くえごの花     山田八重子

 

 初夏、白い小さな釣鐘を吊って風に鳴りそうなえごの花。頷くが効いている。白雲木も同じ仲間だそうだ。

 

大丈夫かと春眠を覗かるる     服部幸次

 

 春眠曉を覚えず、当人は気持ち良く寝ているのだが。これは長寿を言祝ぐ一句と解釈。どこか畠中順一俳句を思い起こさせる味わい。久しぶりに『うはみず桜』を読み返した。

 

ちやぶ台の八人家族昭和の日    倉橋章子

 

 ちゃぶ台も八人家族も今では遠い昭和の香り。博物館に行くと昭和コーナーがあり、現代っ子の目には古色蒼然と映るようだ。色黒で痩せているけれど健康そうな子供たち。いささか気難しいお父さん。何でも包み込んでくれるお母さん。おじいさんとお婆さんも一一緒だろうか。まるでサザエさん一家。過去のものは皆幸福そうに見える。しかしながら昭和も一様ではなく変遷を辿りながら現在へと繋がってきた。懐かしんでばかりはいられない。

 

 


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平成29年「橡」7月号より

2017-06-27 11:42:35 | 星眠 季節の俳句

鳴る神に河骨の燭消されけり  星眠

           (テーブルの下により)

 

水面から出た長い茎の先に河骨の花がひとつずつ。にわかに空かき曇り、ぽつぽつと降り出したか。

同じ地で詠まれた別の句もある。  

 河骨や童話の沼に黄金の斧                        (亜紀子・脚注)

    


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草稿06/26

2017-06-26 09:08:55 | 一日一句

子らに聞く耳学問や麦酒くむ  亜紀子


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草稿06/25

2017-06-25 09:18:45 | 一日一句

のうぜんかづらビルの絶壁覆ひ尽く  亜紀子


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