雨の日に 亜紀子
ラクロスと呼ばれるスポーツ競技の観戦に出かけた。馴染みのない球技である。棒の先に小さな網のついたクロスという道具でボールを扱い、ホッケーのようにゴールにシュートして得点を争う。広い芝フィールドで行われ、サッカーにも似ている。何でも起源は北米インデアンの儀式的な競技にあるらしい。ラクロス普及の意味合いもある試合とのことで、是非にも来いと声をかけられていて楽しみにはしていたが、前日の晩から寒冷前線通過に伴う雨の予報。大方中止と勝手に想像していると、雨天でも開催するという。クロスは金属性なので真夏の雷の時には即刻中止だそうだが、冷たい雨は支障がないという。
海辺の公園にあるサッカー競技場に着いた頃からぽつりぽつりと雨が落ちはじめた。スタンドの二階席を覆う屋根はほんの申し訳ばかりだが、風さえなければ雨滴は気にしなくてよさそうだった。一階席に陣取り先輩の試合を応援する若者たちは揃いのビニル合羽を着込んでいる。応援の方も雨をものともしない意気込みだ。
本日の試合は全日本大学選手権大会の一回選で、勝ち進んで優勝すれば暮れにクラブチームと日本一を争うことになる。第一試合、名古屋と岡山の男子の対戦。小さな網にボールを入れたまま走るだけでも高等技術が要りそうだが、走りながらパスしたり、ボールを奪ったり、攻撃を躱したりと見応えあり。だんだん観戦の目も慣れてきて、どちらのチームが上手かが見えてきた頃から、雨脚が強まった。屋根からはみ出した膝頭だけが濡れ始め、身体が冷えてくる。
半袖半ズボン、坊主頭で音頭をとっていた応援団長がハーフタイムに観客に自己紹介をやった。いわば氷雨に濡れた自分の応援である。彼は社会人で、応援は趣味だとのこと。出身校も関係ない。依頼があれば全くのボランティアで一人どこでも駆付ける。変わった人がいるものだ。
後半はずるずると我が名古屋の負けが目に見えた。味方が劣勢になると応援は必死になる。一人のかけ声で大勢の人員が一糸乱れず動き、声を張り上げている。なるほど、団長たる彼にとってこの瞬間ほど血を沸かすものはないだろう。物質的になんら報酬のない行為であればあるほど、己の采配ひとつで多くの若者が塊となって燃え上がることに歓びを得るのではないかと、寒さに震えながら納得する。
雨のフィールドにがっくりと膝をつく選手を後にして外へ出ると、公園の木々は紅葉の真っ盛り。欅は丈を詰められることもなく上へ伸び、自由に広げた梢に薄茶、赤茶から焦茶までの黄葉の粋。桜の紅葉は濡れてひときわ鮮やかだった。
帰路の地下鉄の座席で本を読んでいると、途中駅の駅員が列車とホームの隙間に渡す板を抱えてやってきた。誰か、車椅子の乗客が来るんだなと思っていると、乗り込んだのは三人の女性が押す一台のキャスター付きのベッドだった。ベッドの上の患者も女性であったが、その人は顔が枕程もあり、見張った大きな目が虚ろである。身体も動かせぬようだ。その顔の上に可動式の装置のようなものが付いていて、一番若い女性が患者と向き合えるようにそいつをのけて、顔が見えないと寂しいでしょうと声をかけている。私の席からベッドの上が一番良く見渡せるので、席を譲ろうとすると丁寧に断られた。四人は姉妹のようだ。何処か病院への移動らしく、大きなスーツケースの他、ベッドの下にびっしりと物が積み込まれている。やがてまたベッドを押し列車を出て行った。こんな雨の日に、地上ではどうやって移動するのか。不思議といっては気の毒に過ぎるが、四人を見送っていろいろを想像するのだった。
いつも一日に見たもの、聞いたもの、すれ違った人、交した言葉、そのいちいちがどういう形にせよ俳句に繋がらないかと期待する。そう思うことが何かを欠いているような、またどこか意地汚いような気がする。鼻の頭を欠いたまま、常に視野の端にちらちらとその鼻先を意識して、歩いていく。