橡12月号選後鑑賞 亜紀子
萩剪りて移公子の句碑の現はるる 斎藤博文
馬場移公子(大正七年~平成六年)昭和二十一年「馬酔木」入会、昭和二十五年同人。句集『峡の道』『峡の雲』結婚とともに東京に出たが、夫の戦死により故郷秩父に戻り、生家の養蚕業を継ぐ。肺に病を得て、生涯秩父に暮らしその自然、生活を詠む。主宰星眠が「橡」創刊の後も、折り目正しく淡き交わりが続いていたように覚えている。
掲句の句碑はどこにあるのだろうか。萩の葎が刈り括られ、それと知られたのであろう。辺りに零れ散った萩の花。その一連の動きのなかで石ぶみの句を詠むと、あたかも馬場移公子その人そのものを見たような感慨を覚えたのではなかろうか。
十六夜の桑にかくるる道ばかり
花咲きぬ峡は蚕飼をくりかへし
亡き兵の妻の名負ふも雁の頃
いなびかり生涯峡を出ず住むか
馬場移公子
青鷺の身をすくめをり初あらし 宮崎安子
秋到来を感じさせる強い風が野を吹き分けていく。いつもは堂々たる風格の青鷺も今日はその長い首をすくめ、耐えているようだ。冠毛が風になぶられている。川の中州の葦の間にでも立っているのだろうか。景の実感が確かであると同時に、青鷺と初あらしの二語の語感がよく響き合う。
喪に急ぐ露けき髪を束にして 服部朋子
露の世ながらさりながら、取るものも取り敢えずの態で急ぎかけつける喪であろうか。焦燥のなかで、引っ詰めにしようと我が髪に触れたとき、ふと露結ぶ頃の冷たさを感じたのであろう。露けき髪とは女性でなければ詠えぬところであろう。
風立ちて落葉のひとつ蝶となる 井上裟知子
一陣の風が落葉を攫ったかと思う間に、両の翼を羽ばたく蝶であることが知れた。秋も更けた頃だろうか、日差しさえあれば蝶も活動する。タテハチョウの仲間には羽を閉じるとまるで木の葉にみえるものがあるから、そうした蝶のひとつかと想像される。花の頃、散る花と蝶を見紛うことがあり、こうした景は古来から詠まれている。落葉と舞う蝶は作者の観察と体験の結果で、散文調にまとめられた一句のリズムはそのまま秋の蝶のはかなげな飛翔のようでもある。
ゴンドラに一番乗りや野分晴 保崎眞知子
台風一過、澄み渡る空。その空目指すかのごときゴンドラに乗って、秋の一興。昨日までの空模様に案じられた今日の旅はすっかり雲を払われたように心も弾む。一番乗りやの童心に返った調子に秋空の清々しさが溢れている。
噛んでみる青はしばみに朝の露 篠崎登美子
信州の植物園でツノハシバミの不思議の実を見たことがある。掲句の青いはしばみの実は形が異なるが、いずれも食用になる。黄熟したものは固い殻に包まれているそうであるから、ここではまだ若く熟す前と思われる。朝露に濡れた緑の果実、お味の方は想像できぬが、辺り一帯の清々しい初秋の林の様子が目に浮かぶ。ヘーゼルナッツは西洋はしばみだそうだ。小説などでその季節になると森にはしばみ摘みに行く描写があったように思う。
寧日や噴煙落葉焚くに似て 川南清子
錦江湾を抱く桜島の姿は、遠く暮らす者にとっては憧れの景勝である。とはいえ、世界有数の活火山である。時を選ばぬ噴火、降灰が人々の日常の隅々に及ぼす影響は傍目には本当のところは分らぬであろう。掲句は穏やかな、平和な得難い一日を描き出している。このような日の桜島の親しさはいかばかりかと想像する。