橡の木の下で

俳句と共に

「添水」平成29年『橡』12月号より

2017-11-26 12:14:46 | 俳句とエッセイ

 添水  亜紀子

 

日の下にしらみ潰しよ夜盗虫

飽きもせで穂草にあそぶ日のありし

乾燥機船窓に似て秋ついり

門口に素知らぬ顔の冬わらび

水に影ひとつ祇園の秋の蝶

川端にユダヤ料理屋秋風裡

秋深む鴨の庵の苫しづく

潺湲(せんかん)亭秋冷いたる石畳

時惜しと早鳴り添水ひと日雨

野の千草黄の花のやや勝りをり

列正すメタセコイアの秋の声

神輿かく子ら増えたるを言祝げり

造作なく後生大事の栗剝き器

はらからに父母の面影秋灯し

ストーブに穴蔵めくや吾がほとり


「パトア」平成29年『橡』12月号より

2017-11-26 12:12:40 | 俳句とエッセイ

  パトア     亜紀子

 

 今年も大きな台風に見舞われた。気候変動による海水温の上昇で、台風はどんどこ勢いを増すらしい。秋も終りに近づいた。果たして今シーズンはもう止めにしてもらいたい。

 アジアの台風は南北アメリカ大陸の間にあるカリブ海地域に行けばハリケーンと呼ばれる。ハリケーンも超のつく大型に発達しては大小あまたの島々をくり返し襲った。アメリカ合衆国領自治区のプエルトリコや、独立以来いまだ混乱状況にあるハイチ等大きな痛手を受けている。幸いにもシャキーラ先生の出身国ジャマイカでは比較的被害は少なかったようだ。

 県内の四つの高等学校で英語を教える先生は日々早起きして電車を乗り継ぎ、曜日によってそれぞれ方向の違う四校へ出向く。四校各々レベルが異なるので、教材は四種類必要だという。黒い肌、バービー人形よりさらにすらりとした肢体、幾本もの長い縄のような三つ編み(それらは付け毛)の彼女はかなり目立つ。吊り革につかまって立っているとどこかで「足、長いねえ。」というひそひそ声がしたり、「自分で?(編んだのか)」と三つ編みを触られたりするのだそう。駅員さんに質問すれば片言英語で乗り換え口まで一緒に案内してくれるという。素知らぬ顔でいるが、実はちょっと脚光を浴びたようで気分が良いとのこと。もっとも、これが都内に行くと全く注目されない。窓口の駅員は顔も上げずに流暢な英語でどこどこへ行けと言うのみで面白くないそうだ。

 先生にパトアという言葉を教えてもらった。イギリス植民地であったジャマイカの公用語は英語である。それとは別にパトアが話されていて、ジャマイカ人は生まれた時から英語とパトアの両方を喋るのだそうだ。パトアは言語学的にはクレオール言語—異なる言語間の人間が生活上の必要性、例えば貿易商人と現地人の間で意思疎通のために自然発生的に作られたーという。カリブ海諸島のそれぞれに固有のパトアがある。基本的には口語で、家庭でもお行儀よくしなければならない場面で使うと親にたしなめられるそうだ。奴隷として運ばれて来た人々のルーツであるアフリカの言葉や、英語、中国語などなど、ジャマイカの歴史に沿うさまざまの言語の混合だとのこと。このパトアを聞くと、そのまんまレゲエのリズムになり、ラップの詞のように聞えてしまうので驚いた。ジャマイカ人はニューヨークに大勢移住しているそうだから、そこにラップが盛んになったのも納得。シャキーラ先生が高校でパトアを教えたところ、どのクラスでも大受けで授業時間をオーバー。一週間すれば忘れてしまうだろうと思っていた子たちからも翌週にパトアで話しかけられてびっくりしたそうだ。パトアはラップ世代には俄然格好いいのである。

 ラップは抵抗の詞と言われる。英語のみならず、ヨーロッパ、アジア、中近東、世界各国の言語で広まっている。各々の言葉には本来固有のリズムがある筈だから、おそらくラップのリズムと各国語固有のリズムとの折衷があると思われる。いつだったか子どもが、日本のラップは五七五などと言っていたのも関連しているのではと思う。若者文化は抵抗と融合ということになるだろうか。

 さて俳句の本質は五七五の定型にあると信じている。五七五の四拍リズムは日本語のリズムに最も適っているように感ぜられる。俳句に馴染めば馴染むほど、五七五が滑らかになっていく。でこぼこが取れて、より自然の響きに聞えてくる。

 ところで、目は口ほどにものを言うという諺がある。思いを伝える手段として、思いの籠った眼差しと、理を尽す言葉と、どちらの印象が強いだろうか。一瞬の表情と、長々とした語りとどちらがより相手の心を掴むだろうか。目は口よりもものを言うというのが本当だろう。瞬時に動かされた心は、そのまま維持される。 説明は、心が動かされる前に、時間の経過に従って最初の部分は忘れてしまう。俳句僅か十七文字、見つめる眼にもっとも近い詩形。渋滞のない調べにのせて、立ちどころに読者を捉えるような、そんな俳句を目指そう。

 


選後鑑賞平成29年「橡」12月号より

2017-11-26 12:08:30 | 俳句とエッセイ

   選後鑑賞   亜紀子


終の荷をおろし歩荷の冬籠  石井昭子

 

 登山シーズンも終わり歩荷も山を後にする。おそらく作者は登山中にそんな歩荷と出会って、これが今年最後の荷だよという言葉を交わしたのだろう。顔馴染みの歩荷かもしれない。荷を置いて、さて、今年の冬はどこで何をするのかなどと話が弾んだようである。尾瀬あたりの山小屋か。たけなわであった草紅葉も枯れて、蕭条と風渡るのみ。眠る山が残される。

 

教会に詩歌の集ひ秋澄めり  木下多惠子

 

 教会の一室で詩の同好の集まりがある。信者中心の俳句会だろうか。秋澄めりの一語にこの会が純粋で気持ちの良いものであることが分かる。清潔で飾り気のない部屋の様子など思い浮かべる。掲句の作者はしばらく悲しみの内にあったと伺っている。今ようやく平安を得つつあるのかもしれない。

 

初猟や狭霧の中に夜明け待つ 鈴木乘風

 

 いよいよ猟解禁。夜の明けぬうちから車に犬と道具を積んで猟場まで来ているハンターたちだろうか。犬も人も緊張の内にも逸る心持ちだろう。狭霧の中に待つという情景に実感がある。

 

初松茸万の値札も戸板売り   泉川滉

 

 いまや松茸は貴重中の貴重な品というところだ。松茸イコール高価とすぐに金銭価値に結びついてしまう。掲句も値段に言及しているわけだが、句の品格は少しも崩れていない。初、値札、戸板売りという言葉の結びつきが良いのかもしれない。茸採りの気張らない、飾りのない商売がいっそ気持ちよく思われる。

 

一人居や百舌の高鳴きひとしきり 岡部冨喜子

 

 一人暮らしの日々には、ちょっとした季節の変化、できごとが身にしみて感じられることがあるに違いない。あらと窓外から聞えて来た百舌の警戒音に耳を澄ましながら、いつのまにか意識は自分自身の身の内へ集まって行く。一人の時間が意識されてくる。

 

御陵守浄むる道に萩こぼれ  綾部文子

 

 日々丁寧に清掃に勤める御陵守であろう。御陵の周囲は常に清浄としている。その箒目のあとからはらはらと、おそらく白萩の花がこぼれていく。なお一層あたりの清らかさが感ぜられる。

 

御座船の金箔寂ぶる水の秋  はせ淑子

 

 大阪城のお濠めぐり、太閤秀吉の金泊貼りの御座船。竣工から時間もたち、現在は秋水に影映す箔の色ももの寂びて趣深い様子なのだろう。綺羅を詠わず、却って清い水、豊かな秋が描き出されている。

 

尼寺に隣る離宮やこぼれ萩  釘宮多美代

 

 比叡山の麓、京都修学院離宮。後水尾上皇の手になる広大な山荘庭園。上御茶屋(かみのおちゃや)、中御茶屋(なかのおちゃや)、下御茶屋(しものおちゃや)と呼ばれる庭園のうち、中御茶屋は上皇の第八皇女光子内親王の御所であった。上皇の死後、内親王は出家し林丘寺と改められた。明治十八年、林丘寺の半分が宮内省に移り修学院離宮の一部となり、残り半分は現在も林丘寺(別名音羽御所)として存続している。林丘寺は非公開で拝観はできない。

 掲句の作者は離宮の内にあって、尼寺の庭を垣間見た折り、そちらからこちらへとこぼれる萩の花に趣きを感じたのだろう。武家中心の社会の内にあった上皇や皇女の心情、歴史に深く心を寄せたことと思われる。