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橡の木の下で

俳句と共に

「JOY」令和6年「橡」2月号より

2024-01-28 15:52:43 | 俳句とエッセイ
JOY   亜紀子

 古い話にお付き合いください。異国カナダのかたほとり、長女が生まれてそろそろ一年、小さな家族の形がようやく板につき始めた頃でした。一九九〇年代の初頭、今のような携帯電話はありません。日本に句稿を送る際はファクス。固定電話の回線を利用してインターネットも使っていましたが、送信できる相手方が限られていました。まだまだアナログ中心の時代でした。
 どういう経緯であったかはっきり思い出せないのですが、二歳になったばかりのベトナム系カナダ人の女の子の面倒をみることになりました。ヴィッキーちゃんという真ん丸のお顔のちょっと嗄れ声の子。お母さんは中国系のベトナム人でヴィッキーと言う名の他にメイ.リンと言う名も持っていて(ミドルネームだったかもしれません)、お母さんはそちらの名でよく呼んでいました。当時、電気技師のお父さんは失業中で職探しをしており、看護師のお母さんが稼ぎ手のようでした。戦前小さなビジネスを営んでいた親御さん世代は戦後辛い目をみたと聞きましたが、若い二人は共に手に技術を持つ移民。失業手当て等福祉は手厚いカナダでしたし、悲愴感は皆無でしたが、彼らも異国のかたほとりで暮らす身、子供を預けるのに同じアジア人である私に親近感があったのだろうとは思います。こちらも娘の遊び相手になってもらえるだろうと期待がありました。送迎はお父さんが担当でしたが、仕事の都合がつけばお母さんがお迎えに来る日もありました。そんな日のメイ・リンちゃんは嬉しそうでした。
 我が娘はまだ言葉らしい言葉も出ず、ヴィッキーちゃんも十分にはお喋りができず、遊びといっても二人で揃ってというより、それぞれで好きに遊ぶといった日々でした。そもそもビッキーちゃんの家庭で中心の言語はなんだったのか分かりません。言葉を必要としない遊びとして、大きな紙とクレヨンを用意してお絵描き(落書き)をしていました。ある時ヴィッキーちゃんはオレンジや朱色でぐるぐる丸い渦のような絵を描きました。大きなクッキーか、太陽か、あるいは向日葵か。その日のお迎えに来たお母さんに自分からその絵を見せると、お母さんは「あら、何?」と言い終わらぬうちに「ああ、JOY!」と言い当てたのです。それを聞いたヴィッキーちゃんの丸顔は満面の笑み、それこそJOYそのものでした。二歳の女の子が自ら「喜び」と題して描くわけもないでしょう。自分でも言葉に出来ぬものにお母さんが名付けてくれた、それもぴったりの言葉で、といったことかと思いました。それにまた他人の家に一日娘を託していたお母さん自身のほっとした瞬間の喜びでもあったかもしれません。JOY=喜びとしましたが、本当に「喜び」という単語で相応しいかどうかも自信がありません。ヴィッキーちゃんにしてみれば「見て見て!」とかあるいは「ママ!」と訳すべきJOYだったのかもしれません。

幼の絵はて向日葵か太陽か
冬ごもりお日様色の絵を描いて
日向ぼこぐるぐる描きの幼の絵
春立つや喜びの名の幼の絵

 あの日のあの絵を無理やり五七五にしてみましたが、これでは説明、事柄俳句。あの絵をぐっと掴み取った感じは出てきません。花でもお日様でも、渦巻きクッキーでもない、あれは「JOY!」の一言以外では表現できないもの。それを瞬時に探り当てたお母さんの言葉の力。これが描写力というものなのでしょう。十七文字ですら多過ぎることもあるのですね。
 日々の暮らしの中で、はっと心が動いた時様々な角度から物を見直し、色々と言葉を探し、重ねたり引き算したり、一番相応しいと感じられるところまで突き詰めて五七五文字にしているつもりですが、大抵は突き詰め足りない「説明」の地点で留まっているのです。分析の段階で終わってしまっているのです。もやもやと大きく広いものをそのままで把握して言葉に直結できるようになるまで、とにかく精進を続けます。
 余談ですが、その後ヴィッキーちゃんのお父さんも復職し、程なくして一家は郊外に新築の分譲住宅を購入。ヴィッキーちゃんも文字通りお姉さんになったようでした。

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「選後鑑賞」令和6年「橡」2月号より

2024-01-28 15:48:14 | 俳句とエッセイ
 選後鑑賞      亜紀子

数へ日やハウスに熟るる桜桃  村山八郎

歳晩の農業ハウスというと、ポインセチア、シクラメン、あるいはスイートピーやストックといった花卉類を思い浮かべるのだが、さすが御当地山形。さくらんぼが熟しているとは。暮れから正月にかけての進物用なのだろう。「ハウスに熟るる」の語に赤く艶々した冬の桜桃を彷彿。

リハビリに勤しむ日々や花八ツ手 斉藤春汀

 倦まずたゆまず、継続が何より肝心のリハビリと思う。花八ツ手の佇まいが相応しい。

訪ふ人もなくて一日や花八手 小林昌子

 物寂しいような、何か足りない一日にふと目を捉えた八手の花だろうか。案外に美しく、冬の蜂や虻、蝿など訪れている。前句と微妙に異なりつつ重なり合う八手の花の趣き。

SLの汽笛に年を惜しみけり 中野順子

 房総を走る小湊鐡道のトロッコ列車だろうか。一度は乗ってみたいもの。確かにSLの汽笛には来し方を振り返りたくなる響がある。

千本の蜜柑育てし昭和あり  寺西敦子

 蜜柑栽培全盛期を担った農家。現況と比べて隔世の感。千本、昭和の語が響く。同作者の
半世紀苺つくりて八十路かな
もまた訴えてくるものがある。

返り花約かなはずに友逝けり 比嘉郁子

 約束はなんだったろう。コロナ収束の目処も立ち、吟行に旅行に、観劇にと色々相談されていたろうか。
返り花は寂しい花だ。

命綱つけて聖夜の飾りつけ  内山照子

 街の商店街、モール、あるいは公園などの聖夜飾りか。屋根や樹木、高いところに電飾。確かに命綱は必須。面白い光景を見つけた。家庭のツリーなら子供の爪先立ちで事足りる。

小春日や牛の匂ひの長寿村 太田順子

 今も長寿村は健在だろうか。ここ二十年あまり世の中は大きく変わった。牛の匂ひの長寿村。こんな小春の日差しに包まれていたい。

七五三家族総出の一張羅  金子やよひ

 家族一丸、皆で寿ぐ様がおめでたい。初めてのお子さんだろうか、両親、祖父母、揃って晴れやか。

木枯を来て小上りや灯の温し 戸井田たかし

 小上がりの語、この頃あまり耳にしないが、そこがまた灯の温しの語とぴったり。ちょっと一杯引っ掛けていきたくなる。コロナの最中、近所のこんなお店が消えてしまい木枯だけが残されたのが悲しい。

点滴棒憩ふラウンジ冬夕焼 川添昭子

 「憩ふラウンジ」なんだかホテルの一光景のようなイメージも生まれ、病窓俳句の陰がなくてほっとさせられる。

錦秋の峠通学遠き日々  倉坪和

 遠き日々の思い出。長い道のりではあったろうが、季節も敵い、いかにも美しい山道だったろうと想像できる。作者は飛騨出身と聞けばさもありなん。



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「秋天」令和6年「橡」1月号より

2023-12-31 15:08:55 | 俳句とエッセイ
  秋天  亜紀子

月まろし犬友達の影集ひ
毀たるる町屋のほとり蓼の花
白川の軒に翡翠羽を干し
秋天や集ふJA青年部
ひとつづつ名を確かむる秋の薔薇
爆発のインバウンドに紅葉濃き
自然感とは言ひ得たり園の秋
バルコニー見やる目白のオペレッタ
狭間よりのぞくお堀も草紅葉
秋晴れの二之丸御殿はたきがけ
将軍の湯殿だだ広やや寒き
冬に入る寒きニュースを日々聞きつ
厳かに冬木となりぬ滝桜
小春日や野山を知らず遊ぶ子ら
気で勝つと風邪気味の身を御しをりぬ

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令和6年新年の言葉「光」  「橡」1月号より

2023-12-31 15:04:16 | 俳句とエッセイ
「光」  亜紀子
 
 明けましておめでとうございます。
 自然の運行は何も変わらずいつも通りに進みますが、暦が新しい一枚になると心持ちも一新するようです。寒さの本番はこれからですが、日の光は輝きを増しています。
 今年は橡創刊四十周年を迎えます。橡俳句の光が消えることなく今日まであるのは、星眠と共に研鑽を積まれ、そして継承してくださっている皆さんの力の賜物です。副主宰、主宰を務めるようになって十年の私はいまだに親の七光りに護られておりますが、さらに精進してまいります。健康に気をつけて、俳句は楽しく、今年もよろしくお願い申し上げます。
                     


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「選後鑑賞」令和6年「橡」1月号より

2023-12-31 14:55:04 | 俳句とエッセイ
 選後鑑賞   亜紀子

淋しさの狭庭明るく石蕗の花  水本艶子

 私の毎日歩いている近所の庭園ではあれこれの草花が衰えてくる頃、蕾をあげていた石蕗が開き始める。その黄の色がいかにも鮮やかであたたかで、はっと胸開かれる思いがする。
 作者は言葉では言い表せぬ辛い体験をされた。悲しみの中に居られる。石蕗の花の慰めにいささかでも心動かれた様子に、読者もまた励まされる思い。

友待つやきんもくせいのかざしもに 松本欣哉

 友との待ち合わせ、漂う良い香りは金木犀のようだ。それは偶然のことと思うが、どこか能動的に花の風下に立ったように詠まれて詩が生まれた。中七下五を全て平仮名にされたのは、この芳香をのせてくるほのかな風の様を目に見せているのだろうか。

羽広ぐごとき航跡湖の秋    迫間真生子

 船が水上を進むとき、船尾に波が生じる。掲句の羽広ぐとは後ろに向かってV字に開き、小さな漣も伴なった航跡か。作者と同じ船に乗り合わせていたが、この発見は見落とした。秋一日、翼広げて吟行の船旅。
期待に弾む心を感じる。

母の忌や夕日染み入る干大根  谷本俊夫

 初冬の夕日に並ぶ干大根。母上の逝かれた日。漬物用意の大根を母上も毎年干されていたのだろうか。我々は年を経ると一層母を偲ぶ心が深くなるように思える。染み入るの語に作者の思いの様々が含まれている。

秋の声聴くや比叡の双耳峰   岩佐和子

 比叡山の頂は四明岳と大比叡の二山が並ぶ。双耳峰と呼ばれる山は各地にあるが、掲句を見て秋の声を聴く耳は比叡山が最も相応しく思われた。歴史、立地、標高等々の故だろうか。

鷹去りて影一つなきけふの空  栗林さだを

 鷹の渡りが終わり、まだ高い空が残されたようだ。昨日の鷹柱の壮大さ、今日の空の青さを共に感じられる。

祢宜やをら箒の素振り神の留守  久保裕子

 この祢宜は剣の使い手のようだ。落ち葉掃きもまだ半ば、作者が見ているのは気付かずに。やをらのタイミングがユーモアたっぷり、神の留守でオチも決まった。

褒めらるる畑に一条菊咲けり  田村美佐江

 畑にも作る人の個性がある。作物の出来栄え良く、よく整えられた畑。見ていて気持ちが良い。仏様用だろうか、片隅には何かかにか花が植えられている。一条の菊も美しい盛りだろう。

熊出没今日より変ふる散歩道  中川幸子

 里に熊出没のニュースを度々耳にしたこの秋。作者の散歩道にも影響があったとは。ルートを変えたそうだが、熊には道はあるようでないようで、なお気をつけて。

夫共に灯火親しむ聖書かな   熱田秦華

 穏やかな夫婦の時間が満ちている秋の夜長。灯火と聖書の二つの語が響き合い、眼前に燭の明かりの色が見えてきた。



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