なかなか釣りに行けない

なかなか実釣出来ず、稀の釣行を夢見て、机上の空論を重ねる備忘録です。

連休管釣りの記録(20160430)

2016年04月30日 22時15分38秒 | 実釣
連休管釣りの記録(20160430)

羽化直後のムシ


4月末の国民宿舎直入荘跡。


その前の大分川。


てらとこのニジ。






冬期とは打って変わって瀑釣。
季節でこんなに変るものまのだろうか。
山口さんに聞くと「今日だれも入らなかったからじゃろー!」と。
そ、そんな簡単な理由(( ;゜Д゜))!

九州管釣り「虎の穴」”てらとこ”の「スキを見た」ような気持ち。
でも今のこの時期は、普通皆こうなんだろうなあ。

冬期のてらとこを自在に釣ることに意味が有るのだ。

そういう意味で今日は私にとって久しぶりの晴舞台。

もちろん私一人だけだけれど、本当に良く釣れた。
FFの初心を、心ゆくまで味わえた。
もう本当に感謝。
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弥生時代の高地性集落について(20160430)

2016年04月30日 10時23分18秒 | 日記
弥生時代の高地性集落について(20160430)

弥生時代の高地性集落について

弥生時代-Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/弥生時代

「高地性集落は、弥生時代中期後半 - 末(IV期後半 - 末)、そして後期中葉 - 末(V期中葉 - 末)に瀬戸内沿岸から大阪湾にかけて頻繁に見られるもので、弥生時代の一般的な集落からみて遙かに高い場所(平地からの比高差が50~300メートル以上)に営まれている集落のことである。北部九州から北陸・中部・東海地域などといった広い範囲に分布する。1970年代までは、畿内IV期がおおよそ北部九州の後期前半、畿内V期が後期後半に併行するとされ、実年代では紀元50年 - 250年ごろに比定されていた。」

この弥生時代の高地性集落も津波、洪水、高潮への防災対策として発達した可能性もあるのではなかろうか。
より低地の農耕地には一般民、より見晴らしの効く高地には支配民が居住していたのかもしれない。
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古代日本の人口変動(20160430)

2016年04月30日 08時24分48秒 | 日記
古代日本の人口変動(20160430)

「人口から読む日本の歴史 (講談社学術文庫) 文庫 – 2000/5/10 鬼頭 宏 著」

P39-40;東日本の人口崩壊

縄文時代後半の東日本の急激な人口減少は気候寒冷化(現在の-1度程度)だけでは説明出来ない。
及川昭文氏/小山修三氏による疫病による人口減少仮説が紹介されている。
大津波後の疫病流行がよく知られているが、本著の出版が2000年であり、東日本の地震津波の影響は考慮されていない。
古代の津波研究と人口変動研究がリンクしてくれればよいのだが。

P58-60;稲作社会化と人口規制要因、人口重心は京都北郊

縄文時代は東日本優勢、弥生時代は西日本優勢。
これは長期的な変化として西日本の人口増加率が上回ったから、とのこと。
P6-7;表1日本列島の地域人口:縄文早期~2100年
この有名な表にもあるように、宮崎を中心とする南部九州は縄文晩期までは九州随一の人口を誇っていたらしい。
が、弥生時代では南部九州の人口増加率が激減、九州の人口中心は北部九州に移っている。
この南部九州の弥生時代の人口増加率の抑制が何故かは判っていないようだ。
しかしこの時期に南部九州からの神武東征が始まっている。

神武東征で南部九州の人口がごっそり近畿地方に移ったなんてことはまずないだろうが(^^
ただ神武天皇一族の支配民が南部九州から近畿地方へどんどん移動していったのは確か。
そのような”高級支配民”が権威を保ったまま遠方まで移動出来たことに本当に驚かされる。
でもそのような権威ある”高級支配民”が縄文晩期までは九州随一の人口を誇っていた南部九州を離れる必要があったのだろう。
弥生時代の南部九州の人口増加率減少が、神武東征の結果か原因かは、未だ判らないままだ。
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宮崎平野の研究資料(20160429)

2016年04月30日 00時21分26秒 | 日記
宮崎平野研究(20160429)

大分は被災地でもあり、釣行は憚られる。
今日は休日だったが五ヶ瀬も県内も釣行は断念。

で、宮崎平野研究。
以下はその研究資料。

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「出版物 -津波工学研究室(東北大学大学院工学研究科)」より引用
http://www.tsunami.civil.tohoku.ac.jp/hokusai3/J/publications/publications.html

第32号 (2015)
11. 宝永地震(1707),安政南海地震(1854)の津波の愛媛県海岸での高さ分布(都司嘉宣, 岩瀬浩之, 森谷拓実, 今井健太郎, 佐藤雅美, 芳賀弥生, 今村文彦)・・・ 77
http://www.tsunami.civil.tohoku.ac.jp/hokusai3/J/publications/pdf2/vol.32_11.pdf
*宇和島城下佐伯町では宝永地震では5m、安政南海地震では3m程度とのこと。

12. 宝永地震(1707),および安政南海地震(1854)の津波の大分県,および宮崎県沿岸での高さ分布(都司嘉宣, 岩瀬浩之, 森谷拓実, 今井健太郎, 佐藤雅美, 芳賀弥生, 今村文彦)・・・ 111
http://www.tsunami.civil.tohoku.ac.jp/hokusai3/J/publications/pdf2/vol.32_12.pdf
宝永は別府3m;大分市1m;臼杵市3m;蒲江尾浦7m、安政はこれより小規模とのこと。


16.歴史津波の痕跡記録に対する文献信頼度の判断基準について(松岡祐也, 都司嘉宣, 今村文彦)・・・ 241
http://www.tsunami.civil.tohoku.ac.jp/hokusai3/J/publications/pdf2/vol.32_16.pdf
*文字通り「文献信頼度の判断基準」の実例が示されている。

20.正平南海地震(1361)の津波に襲われた徳島県美波町由岐,および高知県南国市前浜正興寺での浸水高(都司嘉宜)・・・ 271
http://www.tsunami.civil.tohoku.ac.jp/hokusai3/J/publications/pdf2/vol.32_20.pdf
*震源正面の徳島県美波町由岐で10m程度、高知県南国市前浜正興寺で5m程度だった。
有名な寺院は津波が達した標高より高い地域に残されている、と。
国土地理院 電子国土基本図(地図情報):地理院地図web版
http://maps.gsi.go.jp/

第30号 (2013)
17.『谷陵記』の記載に基づく宝永地震津波(1707)の高知県における津波浸水標高(都司嘉宣,今井健太郎,今村文彦)・・・ 143
http://www.tsunami.civil.tohoku.ac.jp/hokusai3/J/publications/pdf2/vol.30_17.pdf
*地域によっては20m近い津波が認められるので「千年震災の津波対策として100年単位の津波とはことなり、人の生命を守ることに専念して、これとは別の防災対策を建てる必要がある」とのこと。

第29号 (2012)
14.再考・1771年明和大津波の遡上高I -85m遡上説の矛盾と問題点-(後藤和久,島袋永夫,島袋綾野,正木護,宮城邦昌,宮澤啓太郎)・・・ 121
http://www.tsunami.civil.tohoku.ac.jp/hokusai3/J/publications/pdf/vol.29_14.pdf
*石垣島で85m遡上したのは計測違いで実施には33m程度だったと。

15.再考・1771年明和大津波の遡上高II -先島諸島全域-(後藤和久,宮澤啓太郎,安谷屋昭,垣花昇一,久貝弥嗣,島袋綾野,島袋永夫,正木護,松島昭司,宮城邦昌)・・・ 129
http://www.tsunami.civil.tohoku.ac.jp/hokusai3/J/publications/pdf/vol.29_15.pdf
*津波の遡上高は島の地形で変わり、最大で33mも遡上(宮良付近)する場合が認められると。

16.明治以前諸資料に見る津波(首藤伸夫)・・・ 147
http://www.tsunami.civil.tohoku.ac.jp/hokusai3/J/publications/pdf/vol.29_16.pdf
*国内外の古文書の記録に津波関連の情報が読み取れるとある。

19.大分県における1596年豊後地震の津波痕跡に関する現地調査報告(都司嘉宜,松岡裕也,行谷佑一,今井健太郎,岩瀬浩之,原信彦,今村文彦)・・・ 181
http://www.tsunami.civil.tohoku.ac.jp/hokusai3/J/publications/pdf/vol.29_19.pdf
*別府湾入り口の佐賀関と奈多海岸付近で10m、大分市で5m程度とのこと。
しかし最奥の別府市/日出町付近の記録が無い。
より波高が高まる地形なのでより高まる可能性も否定出来ないが、
別府市や日出町では5m程度と考えているらしい(第4章 津波災害対策)。
http://www.city.beppu.oita.jp/04bousai/chiiki_plan/pdf/01/04.pdf
http://www.town.hiji.oita.jp/js/finder/upload/files/soumu/jishintunami.pdf
ちなみに大分市では西暦684年以降の津波の記録を考慮している(大分県沿岸における津波浸水想定 説明資料)。
http://www.mlit.go.jp/river/shinngikai_blog/shaseishin/kasenbunkakai/bunkakai/dai50kai/siryou3-23.pdf

22.1596年豊後地震における「かみの関」の津波被害(松岡裕也,今村文彦,都司嘉宜)・・・ 225
http://www.tsunami.civil.tohoku.ac.jp/hokusai3/J/publications/pdf/vol.29_22.pdf
*この時の津波は山口県上関町にも押し寄せたが比較的小規模だったと。
海底傾斜面の地滑りによる津波は被害が狭い可能性がある。

第28号 (2011)
14.高知県土佐清水市内における1707年宝永地震の津波痕跡に関する現地調査報告(岩瀬浩之,原信彦,田中聡,都司嘉宜,今井健太郎,行谷佑一,今村文彦)・・・ 105
http://www.tsunami.civil.tohoku.ac.jp/hokusai3/J/publications/pdf/vol.28_14.pdf
*この時の高知県土佐清水市の津波の波高は東京湾平均海面を0mとして10m程度、遡上は16m程度だったらしい。

20.文禄五年閏七月十二日(1596年9月4日)豊後国地震津波と瓜生島伝説について(都司嘉宜,松岡裕也)・・・ 153
http://www.tsunami.civil.tohoku.ac.jp/hokusai3/J/publications/pdf/vol.28_20.pdf
*この時の津波は海底傾斜面の地滑りによる津波が最も考えられるとのこと。
この時に砂州つながりだった瓜生島/沖ノ浜が沈んだと考えられると。
幕末に描かれた有名な大分の地図「豊陽古事談の瓜生島図」は一僧侶の単なる空想図に過ぎないと。

第24号 (2007)
12.津波に対する防潮林の評価ー首藤の収集資料から(羽鳥徳太郎) ・・・85
http://www.tsunami.civil.tohoku.ac.jp/hokusai3/J/publications/pdf/vol.24_12.pdf
*津波に対する防潮林には一定の効果が期待出来るとのこと。

第22号 (2005)
3.1944年東南海地震津波の目視観測記録(羽鳥徳太郎) ・・・ 11
http://www.tsunami.civil.tohoku.ac.jp/hokusai3/J/publications/pdf/vol.22_3.pdf
*1944年12月7日の東南海地震津波では、目視と実測の津波波高はほぼ一致するのこと。

第18号 (2001)
5.南海トラフ沿岸域,紀淡海峡友ヶ島において発見された津波イベント堆積物-その予察的検討と今後の研究展望-(七山太・木下博久・佐竹健治) ・・・ 37
(佃栄吉・杉山雄一・中田高・横山芳春)
http://www.tsunami.civil.tohoku.ac.jp/hokusai3/J/publications/pdf/vol.18_5.pdf
*和歌山県友ヶ島沖ノ島の津波イベント堆積物には4535-4235 cal y BP(Before Present、西暦1950年を起点として何年前かという放射性炭素年代の表記方法)年代から300年以内の間で5回の巨大津波が観察出来る。

第16号 (1999)
8.地震津波による大量土砂移動の可能性(浅井大輔 外) ・・・ 119
-安政東海沖地震津波における伊豆半島入間での場合-
http://www.tsunami.civil.tohoku.ac.jp/hokusai3/J/publications/pdf/vol.16_8.pdf
*津波での土砂が陸に上がって耕作地を荒らす(宮崎平野の段丘面?)

第15号 (1998)
1.津波来時の土砂移動に関する過去の記録(首藤伸夫) ・・・ 1
http://www.tsunami.civil.tohoku.ac.jp/hokusai3/J/publications/pdf/vol.15_1.pdf
*津波の高さと土砂の厚さの関係を示す論文

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第四紀研究 Vol. 10 (1971) No. 3 P 99-109
宮崎平野の地形発達に関する諸問題
星埜 由尚
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jaqua1957/10/3/10_3_99/_pdf
*P106, L31-36;「以上のような過程ののち, 新田原面が形成され, その後, その規模は不明だが, 海退とそれに引き続く海進が起り,川南原高位面が形成された. その後, 間欠的な海退により,川南原低位面群が形成された.川南原低位面 群は淘汰の悪い粗礫から成る河成堆積物で作られており,その厚さも数mと薄い.」
P108, L22-24;「また, 日向灘に面する海蝕崖の基部には, 高度10m程の沖積段丘と思われる地形がみられる.」
この論文では成因は調査中とのこと。
宮崎平野の低地海岸段丘の成立には巨大津波が関与した?

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3.1996年日向灘津波と九州東部域の放出津波エネルギー分布(羽鳥徳太郎) ・・・ 43
http://www.tsunami.civil.tohoku.ac.jp/hokusai3/J/publications/pdf/vol.15_3.pdf
*延岡沖が地震津波の空白域とのこと。

4.昭和8年津波と住宅移転(北原糸子 他) ・・・ 51
http://www.tsunami.civil.tohoku.ac.jp/hokusai3/J/publications/pdf/vol.15_4.pdf
*農業従事者が多い地区は集団移転したが、漁業従事者が多い地区は集団移転が困難だったとのこと。

第9号 (1992)
12.災害と家族(北原糸子) ・・・ 203
http://www.tsunami.civil.tohoku.ac.jp/hokusai3/J/publications/pdf/vol.9_12.pdf
*津波被害の後にどうやって家族を立て直し地域を復興していったかが論じられる。
津波で幼児一人となった「家」を幼児一人の「家」を継承する意思の有無に関わらず、「家」を存続させねばならないとする社会の意思、言い換えれば社会的規範が作用した結果、その幼児の「家」が継承され、集落の戸数が維持された、とある。


第7号 (1990)
2.南街道地震津波(1707・1854・1946年)の規模と震央の検討(羽鳥徳太郎) ・・・ 45
http://www.tsunami.civil.tohoku.ac.jp/hokusai3/J/publications/pdf/vol.7_2.pdf
*「南海トラフでは100~150年の間隔で巨大地震が発生し、西日本の地震津波災害が繰り返されてきたことはよく知られている」しかし宮崎平野の最新の記録はわずか1600年代以降のみである。

第6号 (1989)
3.徳島県浅川に遡上した津波の挙動に関する数値実験(相田勇・日比谷紀之) ・・・65
http://www.tsunami.civil.tohoku.ac.jp/hokusai3/J/publications/pdf/vol.6_3.pdf
*遡上するのは波高の約1.2-1.5倍の高さらしい。

第5号 (1988)
3.徳島における歴史津波(村上仁士・島田富美男・細井由彦) ・・・ 32
http://www.tsunami.civil.tohoku.ac.jp/hokusai3/J/publications/pdf/vol.5_3.pdf
*日本最古の津波の記録が天武13年10月14日(684年11月29日)の白鳳地震の津波。
日本書紀に記録があり、室戸岬沖が震源、M8.4、津波被害も甚大だったろうが他の各地の記録はないとのこと。
仁和3年7月30日(887年8月26日)のM8.6の大地震で大津波が大阪湾一帯を襲ったのが三代実録にあるが当然被害を受けているだろう徳島にはその記録がない。
徳島の津波の記録は1361年8月3日の紀伊半島沖M8.4の地震による激しい津波以降とのこと。
1605年2月3日のM7.9慶長地震の津波でも大きな津波被害が出た。
1707年10月28日のM8.4宝永地震の津波でも徳島で3-12mの津波の記録が有る。

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