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ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




東京大学法学部3号館。文京区本郷7-3。2019(平成31)年4月18日

1998(平成10)年10月に国の登録有形文化財に指定された建物で、1927(昭和2)年完成、RC4階建、設計は内田祥三。
本郷通りから正門を入るとすぐ右(南)に見える建物で、安田講堂に続くイチョウ並木に対して、ほぼ同じ外観の工学部列品館と向き合っている。
4階の増築部分は1976(昭和51)年の施工による。現在は2012(平成24)年の工事により、二つあった中庭の上に4層の増築部分を乗せている。『東京大学本郷キャンパス』(東京大学出版会、2018年、2800円+税)には「中庭に立ち上がる増築棟は、コールテン鋼という素材によって1976年に施された屋上の増築と調和しつつ、大きなボリュームの分節は、内田ゴシックの持つ垂直性を継承したものとなっている。キャンパスにおける歴史の継承、展開の新たな試みである」とある。



法学部3号館・東側。2019(平成31)年4月18日

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東京大学船型試験水槽・研究室。文京区本郷7-3。2007(平成19)年12月15日

『日本近代建築総覧』に「東京大学船舶工学実験室、建築年=昭和12年〈1937〉」となっている建物だろう。『東京大学船型試験水槽』には「長さ85m、幅3.5m、水深2.5mの細長い水槽であり、造波機も備えています。船舶試験水槽としては小型ですが、日本国内の大学が所有する船舶試験水槽としては最も歴史があり、高い計測精度も誇ります。/東京大学は本試験水槽を用いて、アメリカズカップ艇の船型や、球状バルブ、超突出薄型バルブといった船首形状、そして水中翼付き双胴船の開発を行ってきました。さらに、水中曳航による乗用車の空力解析、トリマラン船型の特性評価など様々な実験、解析も行ってきました」とある。



船型試験水槽・研究室東側。2019(平成31)年4月18日

ネットにある資料では『船型学50年(2)―東大水槽との出会い―』および『東大水槽40周年資料』が東大水槽建設時の事情などに触れている。当時の工学部部長・平賀譲と山本武蔵教授の立案になり、三菱重工業長崎造船所が製作据付けた。義勇財団海防義会の寄付申出が実現の契機になったらしい。建物の設計は営繕課長の内田祥三。
平賀譲(ひらがゆずる1878年―1943年)は昭和10年に東京帝国大学工学部長に就任した。軍艦設計の権威で、当時、海軍造船中将。「その肩書にものをいわせ、船舶工学科船型試験水槽・航空工学科試験風洞・工学部附属綜合試験所などの設計計画に積極的に取り組み、次々と実現させていった」という。



船型試験水槽・水槽室。2019(平成31)年4月18日



船型試験水槽・研究室北側。2019(平成31)年4月18日

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東京大学工学部4号館。文京区本郷7-3。2019(平成31)年4月18日

『日本近代建築総覧』では「建築年=1927(昭和2)年、構造=RC3階建、設計=内田祥三、施工=大林組」。主にマテリアル工学科やシステム創成学科が使っているという。1974(昭和49)年の地図には「鉱山冶金燃料工学/鉱山分析工学」と付記されている。
建物は中庭が2カ所ある日形の平面。外観は工学部3号館と同じ系統のデザイン――柱型がパラペットの上に突き出すのではなく、途中の壁に吸収されている。最上階の窓の上にアーチの窪み、縦に筋の入った円柱の柱型を並べた車寄せ等――だ。また、附属病院の多くの棟が同じデザインで建てられている。理工学部1号館・6号館と比べるとゴシック様式としての明瞭な特色が少ないように感じる。

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戸田商会。墨田区墨田5-10。2019(平成31)年3月2日

上写真で左に軒だけが写っている家が花屋惣菜店。写真中央の家はベランダの腰壁の造りなどが古そうだが、戦後の改築のようにも見える。窓に「戸田商会」の表札がある。その右の家は長屋の一軒が残っているのだろうか?
 戸田商会の左は駐車場になっているが、下左写真が以前そこに建っていた二軒長屋。ストリートビューで見ると2017年頃取り壊されたらしい。
上の写真で右へ行く道が西井堀の流路だったと思われる道で、北へ荒川の土手まで続いている。そこを少しいったところに武田商店の出桁造りの商家が残っている。だいぶ以前に廃業したらしく、なにを商っていたのか分からない。つい最近までベランダの腰壁に日本の伝統模様に銅板を貼って店名の金文字を貼った看板があったのだが、改修されて下右写真のようになってしまった。以前の造りは『アクトデザイン凛太郎のブログ>鐘ヶ淵散策Ⅱ』で見ることができる。



左:二軒長屋、2010年1月撮影のストリートビューより
右:武田商店。墨田5-10。2019(平成31)年3月2日

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そば屋坂むら。墨田区墨田5-7
2019(平成31)年3月2日

上の写真は西井堀の通りの北端のような地点で、写真正面の家が通りを二つに分けている。右へ行く道はほぼ真っ直ぐ北へ向かうが、道は細くなる。左へ曲がる方が本線と思われ、半円を描いて墨堤通りに合流する。西井堀は左へ入ってからすぐ北へ向かう道路に入ったようだ。写真中央の3階建てビルの左にその道がある。
写真左の日本家屋の正面が左写真で、「坂むら」というそば屋だった。『食べログ』の記事によると2016年12月17日に閉店した。格子戸や立派な看板などから老舗のそば専門店のように見えるが、普通の町のそば屋だったとか。それでも明治30年代の創業、建物は昭和7年の建築という。

下の写真は1枚目写真の通りが左(西)へ曲がってすぐ見える四軒長屋。角が「花屋」という揚げ物などの惣菜店。店名の看板がないが、冷蔵庫の白いタイルに花屋の文字が書かれている。


花屋惣菜店。墨田5-7。2019(平成31)年3月2日

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左:木原精肉店、墨田区墨田5-3。右:魚五商店、墨田5-3。2019(平成31)年3月2日

墨堤通りと鐘ヶ淵通りの交差点が「鐘ヶ淵陸橋」交差点という。ここから水神大橋で荒川区南千住へ行けるようになったのは1989(平成元)年のこと。1978年の住宅地図では墨堤通りは「墨田川通り」、交差点名は「墨堤二丁目」となっている。その交差点から鐘ヶ淵通りを東南へいくとすぐ南北の道路と交差する。墨堤通りの裏通りに当たる通りだが、「西井堀」の流路だった道路である。
西井堀は低湿地の排水路として掘られた堀割ではないかと思う。『川の地図辞典』(菅原健二著、之潮(コレジオ)発行、2007年、3800円+税)には流路が挙げられていて「葛西用水から亀有村で分流し……堀切村で古綾瀬川(現・綾瀬川、荒川)を横断して、現在の墨田区に入る。……中ノ郷村・子梅村で分流し北十軒川と隅田川に合流した。……現在は暗渠化され道路となっている」という具合である。墨田区に入ってからはほぼ隅田川に沿って南北に流れている。この流路と鐘ヶ淵通りとの交差点の標高が「-0.75m」と地形図にある。

上左写真は鐘ヶ淵通りから西井堀の通りに入って北へすぐのところ。上右写真はさらに北にいったところで、右奥の道はカーブして墨堤通りの墨堤二丁目交差点へ向かう。左の塀は円徳寺で、ガードレールとの間の歩道に西井堀の名残りの下水溝があったところだろう。1969(昭和44)年の地図では、鐘ヶ淵通りから南にはその川が書き込まれている。鐘ヶ淵通りから北ではすでに埋められてしまっている様子だ。昭和22年の航空地図でも川があるようには見えない。
写真右の道路は西井堀の通りを横断して田中湯の前の道路になる。堀割には「丹頂橋」が架かっていた。



左:三軒長屋、墨田区墨田5-4。右:フヂヤ薬局、墨田5-39。2019(平成31)年3月2日

左写真は2枚目写真から北へいった次の横丁との角。1969年の地図では、長屋に「滝沢理容、藤野ずし」とある。
右写真は三軒長屋の斜向かい。現在、右に写っているビルが「フヂヤ薬局」なので、写真の建物は旧店舗になるらしい。


二軒長屋。墨田5-6。2019(平成31)年3月2日

4枚目写真からさらに北へいったところで、鐘ヶ淵通りからだと200mの地点。写真の建物は出桁造りの家の古い酒屋かなにかと思ったが、古い地図でも店名は書いていない。古い航空写真を見ると、四軒長屋の半分が残っているもののようだ。
その家の向かい側に隅田小学校にぶつかる横丁が出ている。そこの西井堀には「蓮池橋」が架かっていた。



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