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ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




矢口家住宅(矢口酒店)。茨城県土浦市中央1-6。2006(平成18)年11月5日

中城通りに残る古い商家の中では黒漆喰の土蔵造りの建物は矢口酒店だけのようだ。重厚な感じはひときわ目を引く。天保12(1841)年に土浦で大火があり、その後に建てられた防火建築である。したがって中城通りでも土蔵造りの商家はかなりの数が建てられたのかもしれない。
通り沿いに嘉永2(1849)年に建てられた「店蔵」と「袖蔵」が並ぶ。それらの裏に中庭を介して慶応年間(1865~1867年)に建てられた「元蔵」があり、それらが「家相図」とともに茨城県指定重要文化財に指定(昭和55年)された「矢口家住宅」。

2011(平成23)年3月11日の東日本大震災で損壊し、翌年から修復工事にかかった。4年の工期と約2億2千万円の経費をかけたという(永井昭夫建築設計事務所>矢口家住宅修復工事2012.10.13)。



矢口家住宅。2006(平成18)年11月5日

修復された今は、瓦が葺き直され、黒漆喰は塗り直されてピカピカである。貫禄がつくまで何十年かかかるのだろう。写真左の簡便な建物はなくなって袖蔵の横が奥まで見えるようになった。下の写真はその路地を奥へ入って袖蔵の後ろと元蔵を撮ったもの。


矢口家住宅。2006(平成18)年11月5日

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白石楽器店。茨城県土浦市中央1-12
2006(平成18)年11月5日

中城通りの「まちかど蔵・野村」の並び、すぐ東のところの商店。「ヤマハ音楽教室」の看板の家は、テントに「白石楽器」の字がある。楽器店としても営業しているのだろう。右隣の家は「白石書店」。ネット検索すると「白石書店が(2007年)1月15日で潰れちゃいましたね」という書き込みがあった。
建物横に古い看板建築だった遺構のレリーフが見られる。正面の造りは日よけのテントで見えないのがなんとも残念。
ストリートビューで見ると、現在のファサードはタイルが張り替えられているので造り直されたものかもしれない。白石書店もタイルを貼り替えて、どちらもポスターカラーの明るい色のタイルになっている。両店とも残念ながら「テナント募集中」。
写真左の小屋は「笹屋たばこ店」。今も店舗はあるが看板の類はなくなっている。


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横浜市開港記念会館。神奈川県横浜市中区本町1-6
2013(平成25)年4月19日。上の写真は県庁屋上から

横浜開港50周年を記念して建てられた記念建造物。そのため、外観はジャックの塔を見せる記念碑的なものになったのだろう。建物本体は講堂を中心にした公会堂の役割を持つ。
建設計画は明治末から動き出し、1913(大正2)年にコンペが実施された。一等当選は東京市技師・福田重義。彼の作品として当ブログには三楽病院(神田駿河台、1933年)と東京都公園資料館(日比谷公園、1910年)がある。
実施設計は、そのために横浜市に招聘されたらしい山田七五郎と佐藤四郎。山田は後に建築課長を歴任し、関東大震災復興にも尽力する。佐藤は帝大卒業後すぐの仕事が開港記念会館だった。1921(大正10年)年に、福澤桃介に招かれ大同電力に入社して木曽川沿いの水力発電所の設計をしている。そのいくつかは現存している。(ウィキペディア参照)。
施工は清水組、1917(大正6)年6月に完成、7月1日の開港記念日に「開港記念横浜会館」としてオープンした。構造は鉄骨煉瓦造2階建て地階塔屋付。外観は赤レンガの壁に白い花崗岩を挟んだ「辰野式フリー・クラシック」と言われる様式。記念建造物だけあって装飾的要素満載で華やかである。
関東大震災では屋根が崩落、内部は焼失したが、塔と壁は残った。鉄骨で補強されていたためという。3年近く残骸のまま放置されていたというが、復旧工事は「山田七五郎の指導で、鳥海他郎・木村龍夫の両技師が担当した。鉄骨煉瓦造の構造体に鉄筋コンクリートによる補強を施し、陸屋根も鉄筋コンクリートで新たに架せられた」(三幸エステート>都市の記憶)。工事は1927(昭和2)6月に完了したが、屋根のドーム群は復元されなかった。また、内部は大正期のままとはいかず、震災復興の仕様に替わってしまったようである。
戦後は米軍に接収されて女性将校宿舎にあてられ、また「メモリアル・ホール」の名称で映画の上映が行われたという。返還されたのは開港100年にあたる1958(昭和33)年で、永いこと居座っていたものだ。翌年6月に「横浜市開港記念会館」の名称で公会堂として再開する。
1985(昭和60)年に創建時の設計図が発見されて、昭和63年にドームの復元工事に着手、平成元年6月に完成した(横浜市>会館の歴史)。


2002(平成12)年1月14日

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横浜海岸教会。神奈川県横浜市日本大通8
上:2007(平成19)年5月22日
左:1988(昭和63)年8月6日

尖った屋根の鐘塔と縦長の変形にした尖頭アーチ窓からキリスト教会と一目で判る。しかしよく見ると他にはあまり見られない外観だ。垂直線を強調するデザインはゴシック様式からきていて、それを設計者のセンスでモダンに仕上げたものだろう。全体に簡潔な印象だが、塔の屋根の基部のちょっと複雑な造りは、つい目がいってしまう。
『日本近代建築総覧』では「日本基督教会横浜海岸教会、建築年=1933(昭和8)年、構造=RC3階建、設計=雪野元吉、施工=宮内工務店」。
以下、『横濱新聞第31号2015.11.30(横浜歴史資産調査会理事・副会長 吉田鋼市)』から、雪野元吉と横浜海岸教会の特徴を参照してみる。
雪野元吉(1897-1945)は名古屋生まれの横浜育ち。東京美術学校(現・東京芸大)建築科を卒業して宮内省内匠寮(たくみりょう)に勤める。建築・営繕を担当する部署だ。一方で数々のコンペに応募し入賞している。1938(昭和13)年に内匠寮を辞めて川崎造船(現・川崎重工)に入って、船内設計に従事した。
施工者の宮内建築事務所は横浜の老舗の建設業者。宮内初太郎(1892-1957)は東京高等工業(現・東京工大)を出ていて設計もやった。
横浜海岸教会の意匠はゴシックを基本にしている。先頭アーチ、三つ葉アーチ、四つ葉飾り、細長い窓の垂直性などがゴシックの要素といえる。一方で、鐘塔には楕円の窓があり、二重の庇はクラシックの要素。屋根の庇の四方にある三角破風が華やか。独特の形をした持送りは上の段と下のとでは、横長と縦長と形が異なる。建物の内外ともユニークですぐれた意匠で名高い。筆者は「ゴシック・モダン」を提唱している。



横浜海岸教会。2010(平成22)年4月10日

最近、1年半の工期で改修が行われ、2015(平成27)年5月に完了した。耐震補強とエレベーターの設置が主目的で、合わせて大規模な改修をした、ということである。

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神奈川県庁本庁舎。神奈川県横浜市日本大通1。2002(平成12)年1月14日

『近代建築ガイドブック[関東編]』(東京建築探偵団著、鹿島出版会、昭和57年、2300円)では、「神奈川県庁舎。設計=神奈川県内務部(桑原英治ほか)、施工=大林組、建築年=昭和3年〈1928年10月〉、構造=鉄鋼鉄筋コンクリート造5階地階及塔屋付」。
県庁舎の建設はコンペ(「神奈川県庁舎建築設計図案懸賞募集」)の一等当選案が実施された。当時の県知事は池田宏(1881-1939)。ウィキペディアには「日本の内務官僚、都市計画家。都市計画法(旧法)の制定に携わり、内務省にあって「切れ者」という異名をとった。関東大震災後の東京市助役、京都府と神奈川県の知事(官選)も務めた」という人。都市計画についてはプロだった。関東大震災後、後藤新平が設立した「帝都復興院」の理事兼計画局長になっている。また都市問題、都市計画の著作が200余ある。コンペを言い出したのはこの人だったようだ。また、審査委員長の佐野利器(としかた)は建設にあたっても建設顧問として関わり、構造は当然して実際の設計にも彼の意向が反映していると思う。
コンペに当選したのは小尾嘉郎(おびかろう、1898-1974)。1921年に名古屋高等工業学校建築家を卒業して、東京市電気局工務課に就職した。電気局は電気の供給と市電の運用をする部署で、今の交通局だ。建築とはあまり関係なさそうだが、なにをしていたのだろう? コンペに一等当選して賞金五千円を得たのは勿論、その案で実際に建てられることになったのだから驚喜したに違いない。
コンペでは、主なプランは大方決まっていて、ファサードと塔屋のデザインが審査の対象になったともいう。「枢要な一県を統治する庁舎として、同時にわが国の表玄関として、穏健質実かつ厳然としておかしがたき『我国風』を表現した」と設計要旨に記しているという(『かながわの近代建築』(河合正一著、神奈川合同出版、かもめ文庫、昭和58年、630円)。当書には「一等当選案を基とし、当時の権威者佐野利器を顧問にして、神奈川県内務部建築技師・桑原英治が神奈川県庁舎建築事務所長となり、建築技師・渡辺利雄、同・池部宗薫が実施設計に当たり」とある。



神奈川県庁本庁舎(本町通り側)。2009(平成21)年7月26日

この建物は「帝冠様式」が他の県庁などに建てられていくきっかけになった大元だという。神奈川県庁については、塔屋が五重塔をモチーフにした点にあり、本体ははっきりした様式は特定しづらい。「折衷主義」? 近くによってよく見るとかなり装飾に飾られている。幾何学的なギザギザ模様、内部の照明器具などのアール・デコなど。「帝冠様式」は塔屋の屋根が日本風に見えることから言われだしたのだろう。しかし、これも反っていて瓦を乗せているわけではない。
神奈川県庁本庁舎のデザインに関する一考察』(日本建築学会計画系論文集2015.12、佐藤嘉明)によると、小尾嘉郎は修学中にライトに惹かれたという。塔屋もむしろ帝国ホテルの方形屋根からきているとしていて、なるほどと思う。



神奈川県庁本庁舎(塔屋と中庭)。2013(平成25)年4月19日

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横浜郵船ビル。神奈川県横浜市海岸通3-9。1988(昭和63)年8月6日

日本郵船の横浜支店のビルで、昭和11(1936)年10月1日の竣工(起工は昭和10年7月1日)。設計者は和田順顕(じゅんけい)、施工は大林組。RC造3階建。「アメリカ古典主義」という様式になるという。外観の特徴は、まず表面に並ぶ16本のコリント式ジャイアント・オーダー。アチック・ストーリ(屋根階)の3連窓。竣工時にはエンタブラチュア(列柱の上の梁のような部分)にロゼット(バラの花を模したレリーフ)が並んでいたが、今は右側面に残っている(『はまれぽ>横浜郵船ビル』)。
昭和11年というと震災復興も完了し、建築もモダンな新しい様式に変化してきている。古典様式に忠実なデザインの、ほぼ最後期の建物だ。注文主の指定だと思うが、やはり権威とか信用を意図してのことだろうか。関東大震災で先代の建物が倒壊してからはバラックの仮店舗でしのいでいたという。創業50周年を期してのことだったと思われる。
戦後、米軍に接収され、返還されたのは1954年7月。

2003年に「日本郵船歴史博物館」にするための内部の改装がなされた。現在は建物名も日本郵船歴史博物館である。それまでの博物館の名称は「日本郵船歴史資料館」で、建物裏の中庭に増築した部分を使っていた。

和田順顕の名前は初めて聞くと思っていたら、当ブログに「日本医科大学第一病院」があった。


横浜郵船ビル裏側。今はなくなった煙突が写っている。1988(昭和63)年8月6日

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